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しおりを挟む夜の訓練場は、昼とはまるで別の顔をしている。
石畳は冷え、灯された魔導灯の光は淡く、影を長く引き延ばす。
剣を振るたび、空気が切り裂かれ、微かな金属音が残響となって消えていった。
一振り。
二振り。
動きは正確だ。
だが、意識だけが、ここにない。
(――また、同じだ)
夢の中で、俺はいつも遅れる。
手を伸ばした時には、すでに遅く――
シャロンは、冷たい石の上に横たわっている。
剣を止め、息を整えた、その背後。
「夜風が冷たいよ、兄上」
軽やかな声。
振り返ると、デュクセルが回廊の柱にもたれて立っていた。
月光を受けた栗毛が、やけに目に付く。
「こんな時間にどうした」
「母上に捕まる前に、少し散歩」
冗談めかして言いながら、視線は訓練場を見渡している。
……観察する目だ。
「相変わらずだね。兄上は」
「何がだ」
「剣を振ってる時だけ、少し安心した顔をするところ」
自覚はなかった。だが、確かに剣を扱っている時は、余計なものを切り捨てることが出来る気がする。
「最近、社交界で噂が増えてる」
弟は、何でもない世間話のように切り出した。
「シャロン・モーフェット嬢のこと」
胸の奥が、静かに軋む。
「……どんな噂だ」
「兄上と距離を置いた、とか。次は誰の側に立つのか、とか。……兄上が商家の娘と懇意にしている、とか」
月明かりの下で、デュクセルは肩をすくめた。
「そして当然、僕の名前も出てくる」
予想通りだった。
「母上は、必ず動くよ。いや、もう動いているのかも」
その一言は、軽くなかった。
「今はまだ急いでないみたいだけどね。でも、あの人が“何もしない”はずがない」
剣の柄を、無意識に握り直す。
「……それで、お前はどう考えている」
デュクセルは少しだけ考え、率直に答えた。
「可愛いと思うよ」
拍子抜けするほど、素直な声だった。
「礼儀正しくて、控えめで。
でも、目がちゃんと前を向いてる」
胸の奥に、ちくりと痛みが走る。
「一緒にいると、落ち着くし、……兄上が惹かれる理由も、分かる」
風が吹き、魔導灯の炎が揺れた。
「じゃあ、婚約の話も――」
「“話”としては、頷くしかないさ。僕は母上の操り人形なんだから」
即答だった。
「でも」
デュクセルは、表情を引き締める。
「母上のやり方は気に入らない」
彼は、空を見上げた。
「シャロンが兄上から離れたのをいいことに、公爵家ごと僕の側に引き寄せる。それは政治としては正しい。……でも、人の心を置き去りにしてる」
(……気づいているのか)
「僕は、兄上と敵対する気はないよ」
デュクセルは、こちらを見る。
「シャロンのことも、政治のことも。でもね」
皇帝譲りの金色の瞳でじっと俺を捉え、一歩、こちらへ踏み出す。
「兄上が彼女を選ばないなら、もちろん僕がそばに置きたい」
胸に、重く落ちる言葉。
「シャロン嬢は、決して弱くない。とても聡明な女の子だ」
訓練場に、しばし沈黙が落ちた。
「兄上」
デュクセルは、柔らかく言った。
「僕は、彼女の気持ちを尊重したい」
それは宣言だった。
「母上の思惑通りに動く気はない。でも、もし彼女が僕を選ぶなら、正面から受け止める」
そして、少しだけ困ったように笑う。
「……選ばれなかったら、その時は諦めるよ」
それが、俺には出来なかった。
(未来を知っているから)
失う結末を、見てしまったから。
「兄上は、どうするの?」
問いかけられ、言葉に詰まる。
守りたい。
失いたくない。
だが――
(選択を奪うことだけは、したくない)
「……まだ、分からない」
正直な答えだった。
デュクセルは、それ以上追及しなかった。
「まあ、まだ時間は残ってる」
踵を返し、回廊へ向かう。
「でも、何もしなければ、母上が全部決めちゃうよ」
立ち止まり、振り返る。
「それだけは、覚えておいて」
夜の闇に、彼の背中が溶けていく。
一人残された訓練場で、剣を下ろし、空を仰ぐ。
(シャロン)
もし彼女が、誰かを選ぶなら。
俺は、その選択を、見届けなければならない。
それが、皇太子としてではなく――
一人の人間としての、責任だ。
夜風が、静かに吹き抜けた。
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