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騎士団長様を空の彼方へ殴り飛ばしてしまった一件以来、わたくしたちの訓練は一時中断となっておりました。
全身打撲で三日間寝込んだ騎士団長様が、「……訓練計画を、根本的に見直す必要がある」と、遠い目をして呟いたからです。
ええ、わたくしもそう思いますわ。
「少し、森を散策してきてもよろしいかしら? お菓子に使える木の実か何か、見つかるかもしれませんし」
手持ち無沙汰になったわたくしがそう提案すると、寝台から復活したばかりの騎士団長様が、ギプスを巻いた腕で、すっくと立ち上がりました。
「……無論だ。護衛する」
「まあ、お体はもうよろしいのですか?」
「問題ない。これしきの怪我、騎士にとっては掠り傷だ」
そう言って胸を張る彼の顔色は、まだ少し青白い気がいたします。
わたくしのせいですのに、本当に申し訳ないですわ。
ですが、彼の騎士としての矜持をこれ以上傷つけるわけにもいきません。わたくしは、素直にその申し出を受けることにいたしました。
屋敷の裏に広がる森は、深く、そして静かでした。
木漏れ日がきらきらと地面に模様を描き、鳥のさえずりが耳に心地よく響きます。
「まあ、綺麗なきのこですこと。これは食べられるのかしら?」
「やめておけ。毒キノコの可能性がある」
「あら、見てくださいませ、あそこに山ぶどうが」
「崖に近い。行くな」
わたくしが何かを見つけるたびに、騎士団長様が先回りして危険を摘み取っていきます。
その警戒心は、まるで雛鳥を守る親鳥のようですわ。
わたくしという名の、うっかりすると鉄骨をねじ曲げる雛鳥を。
そのちぐはぐな状況がおかしくて、わたくしはくすくすと笑ってしまいました。
「何がおかしい」
「いいえ? ゼノン様は、本当に頼りになる方ですわね、と思って」
わたくしがそう言うと、彼は「当然だ」とぶっきらぼうに答え、耳のあたりを少しだけ赤くしていました。
あらあら、可愛らしいところもあるのですね。
そんな和やかな雰囲気が、突如として切り裂かれました。
グルルルルル……!
地の底から響くような、低い唸り声。
空気が、びりびりと震えます。
わたくしたちの目の前の茂みが、ガサガサと大きく揺れ、そこから、巨大な影がぬっと姿を現しました。
「……っ!」
それは、クマでした。
ですが、ただのクマではありません。わたくしの背丈の倍はあろうかという巨体、血のように赤い瞳、そして背中からおどろおどろしい棘が何本も突き出した、明らかに普通の生き物ではない、魔獣と呼ばれる存在です。
「アイナ嬢、下がりなさい! ここは俺が!」
ゼノン様が、瞬時に剣を抜き、わたくしを庇うように前に立ちました。
その背中は、傷がまだ完治していないはずなのに、少しも揺らぎません。
さすがは、この国の最強の騎士様ですわ。
「グオオオオオオッ!!」
魔獣のクマが、咆哮を上げて突進してきます。
その勢いは、まるで城壁が迫ってくるかのようでした。
「はあっ!」
ゼノン様も、それに怯むことなく、正面から斬りかかります。
キィン!と甲高い音を立てて、彼の剣がクマの硬い皮膚に弾かれました。
ですが、彼はその勢いを利用して身を翻し、クマの攻撃を巧みにかわしていきます。
一進一退の、見事な攻防でした。
(まあ、大きなクマさんですこと。毛並みが素敵ですわ)
わたくしは、ゼノン様の頼もしい背中の後ろから、呑気にそんなことを考えておりました。
しかし、戦況は徐々にゼノン様にとって不利になっていきます。
相手の巨体とパワーは、あまりに規格外でした。
そして、ついに。
「しまっ……!」
クマの薙ぎ払うような一撃を避けきれず、ゼノン様の体が、くの字に折れ曲がって吹き飛ばされてしまいました。
彼の体は近くの大木に叩きつけられ、その手から愛剣が滑り落ちます。
「ぐっ……ぁ……」
「ゼノン様!」
魔獣のクマは、動けなくなったゼノン様にとどめを刺そうと、その巨大な爪を振り上げました。
もう、間に合わない。
そう、誰もが思った、その瞬間。
わたくしは、ゼノン様とクマの間に、滑り込むように立っていました。
「グルアアアッ!」
わたくしを、新たな獲物と認識したのでしょう。クマが、その巨大な顎を開けて襲いかかってきます。
わたくしは、ひらりと身をかわすと、その巨大な頭に狙いを定めました。
そして、優雅に、人差し指を立てて―――。
「……えい」
可愛らしい掛け声と共に、その額に、思いきりデコピンを叩き込みました。
ピシッ!!!!
森の中に、乾いた、岩でも砕けたかのような音が響き渡ります。
「……ぎゃんっ」
あれほど猛々しかった魔獣のクマが、子犬のような悲鳴を上げました。
その血のように赤い瞳が、ぐるりと白目を剥きます。
巨体が、ふらり、ふらりと二、三歩後ずさると、そのまま、地響きを立ててどさりと仰向けに倒れ、動かなくなってしまいました。
シーン……。
森は、再び、元の静けさを取り戻しました。
ただ、そこには、気絶して大の字になっている巨大な魔獣と、呆然とそれを見上げる騎士団長様と、指先をふーっと吹いているわたくしがいるだけです。
「もう大丈夫ですわよ、ゼノン様」
わたくしは、未だに状況が飲み込めていない騎士団長様に、にっこりと微笑みかけて、手を差し伸べました。
彼は、まるで操り人形のように、その手を取って立ち上がります。
「さあ、帰りましょう。このクマさんのお肉、シチューにしたら美味しいかしら?」
わたくしがそう言うと、ゼノン様は、自分の手と、わたくしの手を、何度も何度も見比べ、そして、力なく空を仰ぐのでした。
この日、彼の護衛としてのプライドは、完全に砕け散ってしまったようですわ。
全身打撲で三日間寝込んだ騎士団長様が、「……訓練計画を、根本的に見直す必要がある」と、遠い目をして呟いたからです。
ええ、わたくしもそう思いますわ。
「少し、森を散策してきてもよろしいかしら? お菓子に使える木の実か何か、見つかるかもしれませんし」
手持ち無沙汰になったわたくしがそう提案すると、寝台から復活したばかりの騎士団長様が、ギプスを巻いた腕で、すっくと立ち上がりました。
「……無論だ。護衛する」
「まあ、お体はもうよろしいのですか?」
「問題ない。これしきの怪我、騎士にとっては掠り傷だ」
そう言って胸を張る彼の顔色は、まだ少し青白い気がいたします。
わたくしのせいですのに、本当に申し訳ないですわ。
ですが、彼の騎士としての矜持をこれ以上傷つけるわけにもいきません。わたくしは、素直にその申し出を受けることにいたしました。
屋敷の裏に広がる森は、深く、そして静かでした。
木漏れ日がきらきらと地面に模様を描き、鳥のさえずりが耳に心地よく響きます。
「まあ、綺麗なきのこですこと。これは食べられるのかしら?」
「やめておけ。毒キノコの可能性がある」
「あら、見てくださいませ、あそこに山ぶどうが」
「崖に近い。行くな」
わたくしが何かを見つけるたびに、騎士団長様が先回りして危険を摘み取っていきます。
その警戒心は、まるで雛鳥を守る親鳥のようですわ。
わたくしという名の、うっかりすると鉄骨をねじ曲げる雛鳥を。
そのちぐはぐな状況がおかしくて、わたくしはくすくすと笑ってしまいました。
「何がおかしい」
「いいえ? ゼノン様は、本当に頼りになる方ですわね、と思って」
わたくしがそう言うと、彼は「当然だ」とぶっきらぼうに答え、耳のあたりを少しだけ赤くしていました。
あらあら、可愛らしいところもあるのですね。
そんな和やかな雰囲気が、突如として切り裂かれました。
グルルルルル……!
地の底から響くような、低い唸り声。
空気が、びりびりと震えます。
わたくしたちの目の前の茂みが、ガサガサと大きく揺れ、そこから、巨大な影がぬっと姿を現しました。
「……っ!」
それは、クマでした。
ですが、ただのクマではありません。わたくしの背丈の倍はあろうかという巨体、血のように赤い瞳、そして背中からおどろおどろしい棘が何本も突き出した、明らかに普通の生き物ではない、魔獣と呼ばれる存在です。
「アイナ嬢、下がりなさい! ここは俺が!」
ゼノン様が、瞬時に剣を抜き、わたくしを庇うように前に立ちました。
その背中は、傷がまだ完治していないはずなのに、少しも揺らぎません。
さすがは、この国の最強の騎士様ですわ。
「グオオオオオオッ!!」
魔獣のクマが、咆哮を上げて突進してきます。
その勢いは、まるで城壁が迫ってくるかのようでした。
「はあっ!」
ゼノン様も、それに怯むことなく、正面から斬りかかります。
キィン!と甲高い音を立てて、彼の剣がクマの硬い皮膚に弾かれました。
ですが、彼はその勢いを利用して身を翻し、クマの攻撃を巧みにかわしていきます。
一進一退の、見事な攻防でした。
(まあ、大きなクマさんですこと。毛並みが素敵ですわ)
わたくしは、ゼノン様の頼もしい背中の後ろから、呑気にそんなことを考えておりました。
しかし、戦況は徐々にゼノン様にとって不利になっていきます。
相手の巨体とパワーは、あまりに規格外でした。
そして、ついに。
「しまっ……!」
クマの薙ぎ払うような一撃を避けきれず、ゼノン様の体が、くの字に折れ曲がって吹き飛ばされてしまいました。
彼の体は近くの大木に叩きつけられ、その手から愛剣が滑り落ちます。
「ぐっ……ぁ……」
「ゼノン様!」
魔獣のクマは、動けなくなったゼノン様にとどめを刺そうと、その巨大な爪を振り上げました。
もう、間に合わない。
そう、誰もが思った、その瞬間。
わたくしは、ゼノン様とクマの間に、滑り込むように立っていました。
「グルアアアッ!」
わたくしを、新たな獲物と認識したのでしょう。クマが、その巨大な顎を開けて襲いかかってきます。
わたくしは、ひらりと身をかわすと、その巨大な頭に狙いを定めました。
そして、優雅に、人差し指を立てて―――。
「……えい」
可愛らしい掛け声と共に、その額に、思いきりデコピンを叩き込みました。
ピシッ!!!!
森の中に、乾いた、岩でも砕けたかのような音が響き渡ります。
「……ぎゃんっ」
あれほど猛々しかった魔獣のクマが、子犬のような悲鳴を上げました。
その血のように赤い瞳が、ぐるりと白目を剥きます。
巨体が、ふらり、ふらりと二、三歩後ずさると、そのまま、地響きを立ててどさりと仰向けに倒れ、動かなくなってしまいました。
シーン……。
森は、再び、元の静けさを取り戻しました。
ただ、そこには、気絶して大の字になっている巨大な魔獣と、呆然とそれを見上げる騎士団長様と、指先をふーっと吹いているわたくしがいるだけです。
「もう大丈夫ですわよ、ゼノン様」
わたくしは、未だに状況が飲み込めていない騎士団長様に、にっこりと微笑みかけて、手を差し伸べました。
彼は、まるで操り人形のように、その手を取って立ち上がります。
「さあ、帰りましょう。このクマさんのお肉、シチューにしたら美味しいかしら?」
わたくしがそう言うと、ゼノン様は、自分の手と、わたくしの手を、何度も何度も見比べ、そして、力なく空を仰ぐのでした。
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