悪役令嬢は、婚約破棄されたので自由に生きます!

きららののん

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マリアンヌ嬢が、狂乱の果てに連れ去られていった謁見の間は、水を打ったような静寂に包まれていました。
貴族たちは、皆、声も出せずに、ただ、わたくしのことを見ています。
その視線に宿っているのは、もはや、好奇や侮蔑の色ではありません。
得体のしれないものを見る、畏怖。
短剣を、指一本で止めた、この女は、一体、何者なのだ、と。
そんな、無言の問いが、謁見の間に満ちていました。

その、重苦しい沈黙を破ったのは、国王陛下の、深く、厳かな声でした。

「……アルフォンス」

「は……はい」

玉座の下で、抜け殻のように立ち尽くしていたアルフォンス殿下が、びくりと肩を震わせました。
彼の顔は、血の気を失い、まるで死人のようです。

「そなたから、アイナ嬢に、言うべきことがあるのではないか」

「……」

アルフォンス殿下は、しばらくの間、唇を噛みしめて俯いていました。
やがて、意を決したように、ゆっくりと、わたくしの前へと歩み出てきます。
そして、数歩手前で立ち止まると、彼は、その場で、深く、深く、頭を下げました。

「アイナ嬢……いや、アイナ。すまなかった」

その声は、か細く、そして、深い悔恨に満ちていました。

「私は、君という、かけがえのない存在に、気づくことができなかった。愚かな女の嘘偽りに惑わされ、君を傷つけ、君の誇りを踏みにじり、そして、君の命までも、危険に晒してしまった。どんな言葉を使っても、謝罪しきれるものではない。本当に……申し訳なかった」

彼の、心からの謝罪。
わたくしは、ただ、黙って、それを受け止めました。
彼を、許すとか、許さないとか、そういう感情は、もはや、わたくしの中には、ひとかけらも残っておりませんでしたから。

アルフォンス殿下は、頭を上げたかと思うと、さらに、信じられない行動に出ました。
彼は、この国の次期国王であるというのに。
全ての貴族たちが見守る、この謁見の間で。
わたくしの目の前で、ゆっくりと、片膝をついたのです。

「アイナ」

彼が、縋るような目で、わたくしを見上げました。
その瞳は、涙で潤んでいます。

「私は、愚かだった。君という、国にとって、そして、私にとって、最高の宝物を、自らの手で手放してしまった。もし……もし、許されるのなら……」

彼の声が、震えます。

「もう一度、私と、やり直してはくれないだろうか。君こそが、私の、そして、この国の、唯一無二の妃だ!」

その、あまりに衝撃的な言葉に、謁見の間が、どよめきました。
まさか、この場で、皇太子殿下が、追放した婚約者に、復縁を申し込むなどと、誰が想像したでしょう。

(まあ……今更、何を仰っているのかしら)

わたくしの心は、驚くほど、冷めていました。
彼の言葉は、もはや、わたくしの心には、少しも響きません。
わたくしの脳裏に浮かぶのは、王妃教育に明け暮れた、息の詰まるような王宮での日々。
そして、それとは対照的な、辺境の地での、自由で、あたたかで、愛おしい、あの日々でした。

わたくしは、膝をついたままのアルフォンス殿下に、静かな、そして、少しだけ、哀れむような笑みを向けました。

「アルフォンス殿下。お言葉ですが、そのお申し出は、お受けできません」

「……なぜだ?」

彼の顔が、絶望に歪みます。

「私の罪は、償えないほど、重いというのか……?」

「いいえ、そういうことではございません。殿下のお気持ちは、有り難く頂戴いたします。ですが……」

わたくしは、そこで、言葉を切りました。
そして、ずっと、わたくしの隣で、石像のように、しかし、力強く、そこに立ち続けてくれていた、愛しい人へと、向き直ります。
ゼノン様。
わたくしは、彼の、鎧に覆われた、大きな手を、そっと、両手で取りました。
彼は、驚くでもなく、ただ、力強く、わたくしの手を握り返してくれます。
その、確かなぬくもりに、勇気をもらって。

わたくしは、アルフォンス殿下と、そして、謁見の間にいる全ての貴族たちに向かって、はっきりと、宣言しました。
わたくしの、新しい人生の、始まりを。

「今のわたくしには、この人がいますので」

その言葉は、最後の一撃でした。
アルフォンス殿下は、わたくしたちが固く結んだ手と、わたくしの、一点の曇りもない笑顔を、ただ、呆然と見つめています。
そして、彼の瞳から、最後の光が、すうっと、消えていきました。
彼が本当に失ったものが何だったのかを、今、この瞬間、心の底から、理解したのでしょう。

彼は、その場に、力なく、崩れ落ちました。
その姿は、国を背負う次期国王ではなく、ただの、恋に破れた、哀れな一人の男でしかありませんでした。

わたくしは、ゼノン様の手を、より一層、強く握りしめます。
もう、迷いはありません。
わたくしの未来は、この人の隣に、あるのですから。
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