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馬車が激しく左右に揺れ、私は座席から転げ落ちそうになるのを必死で堪えた。
窓の外からは、獣の低い唸り声と、木々がなぎ倒される凄まじい音が響いてくる。
アルフレッドが必死に馬を制御しようとしているが、馬たちは恐怖に狂ったように嘶いている。
「お嬢様、外へ! 馬車が狙われています!」
アルフレッドの叫び声と同時に、馬車の屋根が鋭い爪によって引き裂かれた。
私は咄嗟に鞄を掴み、開いたドアから外へと飛び出す。
転がり込んだ地面の冷たさが、現実の厳しさを突きつけてくるようだった。
目の前にいたのは、体長三メートルはあろうかという「シャドウベア」だった。
闇を凝固させたような漆黒の毛並みと、血のように赤い瞳。
それは、並の魔法師が数人がかりでようやく倒せるほどの大物だ。
「……こんなところで、終わるわけにはいかないわ」
私は震える指先を魔物のほうへ向けた。
公爵令嬢として、護身用の魔導構築は叩き込まれている。
だが、今の私には杖もなければ、魔力を増幅させる触媒もない。
「火よ、集いて矢となれ――『フレイム・アロー』!」
放たれた数条の火矢が魔物の顔面を捉える。
しかし、シャドウベアは僅かに顔を背けただけで、その勢いを止めることはなかった。
逆に怒りを買ったのか、魔物は咆哮を上げ、巨大な前足を振り上げた。
(ああ、ここまでなの……?)
私は反射的に目を閉じた。
死への恐怖よりも、理不尽に追い出したあの者たちへの怒りが一瞬だけ勝る。
だが、待てど暮らせど、衝撃は訪れなかった。
代わりに聞こえてきたのは、すべてを凍てつかせるような、硬質な音。
そして、肌を刺すような冷気だった。
「……無粋な魔物だ。私の領地で、客人を怖がらせるとは」
低く、心地よく響く男の声。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
さっきまで猛威を振るっていたシャドウベアが、一瞬にして巨大な氷像へと変貌していたのだ。
月の光を反射して、美しくも禍々しく輝く氷の彫刻。
その横に立っていたのは、漆黒の外套を羽織った一人の男だった。
銀色の髪が夜風に揺れ、冷徹さを象徴するような鋭い青い瞳が私を射抜く。
「……リュシアン、様?」
私の口から、無意識にその名前が零れた。
男は僅かに眉を動かし、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。
その足音が雪を踏むような静かな音で、私の心臓を激しく叩いた。
「やはり、君か。エルシア・フォン・アステリア」
リュシアン様は私の前で立ち止まり、跪いた。
そして、土で汚れた私の手を取り、恭しくその甲に唇を寄せた。
冷たいはずの彼の唇が、なぜか熱く感じられて、私は息を呑む。
「……私のことを、覚えていらしたのですか?」
「忘れるはずがない。あの時、君がくれた言葉を支えに、私はこの北の地を治めてきたのだから」
あの時――十年前、両国の親睦会で迷子になった私を助けてくれた少年。
弱気になっていた私に「君は誰よりも強い」と言ってくれた彼。
まさか、本当に覚えていてくれたなんて。
「酷い有様だな。……アステリアの王太子は、よほど目が腐っているらしい」
リュシアン様は私の背後に転がっている、無惨に壊れた馬車を一瞥した。
彼の瞳に、一瞬だけ苛烈な怒りの炎が宿るのを私は見た。
けれど、彼が私に向き直ったときには、そこには静かな慈しみが戻っていた。
「エルシア。君が国を捨てたというのなら、私の元へ来ないか?」
「え……?」
「私の城には、君のような優秀な魔導師が必要だ。……いや、訂正しよう。私自身が、君を必要としている」
あまりにも直球な言葉に、頬が熱くなるのを感じる。
婚約破棄され、家族に捨てられ、どん底にいた私に差し伸べられた手。
それは、どんな魔法よりも救いのように見えた。
「ですが、私は『悪役令嬢』として追放された身ですわ。お側にいれば、貴方の名に傷がつくかもしれません」
「フン、冷徹公爵と恐れられる私に、今さら何を恐れることがある。それに……君を悪役にした世界など、私が凍らせてしまえばいいだけの話だ」
彼は事も無げにそう言うと、私の鞄をひょいと持ち上げた。
そして、もう片方の手で私の腰を引き寄せ、守るように抱き寄せる。
「……ひとまずは、私の城へ。君には温かい食事と、ふかふかのベッドが必要だ。話は、それからでいい」
「……ありがとうございます、リュシアン様」
私は彼の胸に顔を埋めた。
漂ってくるのは、冬の朝のような清涼な香り。
アルフレッドも無事なようで、リュシアン様の部下たちに介抱されているのが見える。
こうして私は、故郷を捨てたその足で、隣国の「氷の城」へと向かうことになった。
新しい生活が、どのようなものになるのか。
不安よりも、期待のほうがずっと大きく胸を膨らませていた。
窓の外からは、獣の低い唸り声と、木々がなぎ倒される凄まじい音が響いてくる。
アルフレッドが必死に馬を制御しようとしているが、馬たちは恐怖に狂ったように嘶いている。
「お嬢様、外へ! 馬車が狙われています!」
アルフレッドの叫び声と同時に、馬車の屋根が鋭い爪によって引き裂かれた。
私は咄嗟に鞄を掴み、開いたドアから外へと飛び出す。
転がり込んだ地面の冷たさが、現実の厳しさを突きつけてくるようだった。
目の前にいたのは、体長三メートルはあろうかという「シャドウベア」だった。
闇を凝固させたような漆黒の毛並みと、血のように赤い瞳。
それは、並の魔法師が数人がかりでようやく倒せるほどの大物だ。
「……こんなところで、終わるわけにはいかないわ」
私は震える指先を魔物のほうへ向けた。
公爵令嬢として、護身用の魔導構築は叩き込まれている。
だが、今の私には杖もなければ、魔力を増幅させる触媒もない。
「火よ、集いて矢となれ――『フレイム・アロー』!」
放たれた数条の火矢が魔物の顔面を捉える。
しかし、シャドウベアは僅かに顔を背けただけで、その勢いを止めることはなかった。
逆に怒りを買ったのか、魔物は咆哮を上げ、巨大な前足を振り上げた。
(ああ、ここまでなの……?)
私は反射的に目を閉じた。
死への恐怖よりも、理不尽に追い出したあの者たちへの怒りが一瞬だけ勝る。
だが、待てど暮らせど、衝撃は訪れなかった。
代わりに聞こえてきたのは、すべてを凍てつかせるような、硬質な音。
そして、肌を刺すような冷気だった。
「……無粋な魔物だ。私の領地で、客人を怖がらせるとは」
低く、心地よく響く男の声。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
さっきまで猛威を振るっていたシャドウベアが、一瞬にして巨大な氷像へと変貌していたのだ。
月の光を反射して、美しくも禍々しく輝く氷の彫刻。
その横に立っていたのは、漆黒の外套を羽織った一人の男だった。
銀色の髪が夜風に揺れ、冷徹さを象徴するような鋭い青い瞳が私を射抜く。
「……リュシアン、様?」
私の口から、無意識にその名前が零れた。
男は僅かに眉を動かし、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。
その足音が雪を踏むような静かな音で、私の心臓を激しく叩いた。
「やはり、君か。エルシア・フォン・アステリア」
リュシアン様は私の前で立ち止まり、跪いた。
そして、土で汚れた私の手を取り、恭しくその甲に唇を寄せた。
冷たいはずの彼の唇が、なぜか熱く感じられて、私は息を呑む。
「……私のことを、覚えていらしたのですか?」
「忘れるはずがない。あの時、君がくれた言葉を支えに、私はこの北の地を治めてきたのだから」
あの時――十年前、両国の親睦会で迷子になった私を助けてくれた少年。
弱気になっていた私に「君は誰よりも強い」と言ってくれた彼。
まさか、本当に覚えていてくれたなんて。
「酷い有様だな。……アステリアの王太子は、よほど目が腐っているらしい」
リュシアン様は私の背後に転がっている、無惨に壊れた馬車を一瞥した。
彼の瞳に、一瞬だけ苛烈な怒りの炎が宿るのを私は見た。
けれど、彼が私に向き直ったときには、そこには静かな慈しみが戻っていた。
「エルシア。君が国を捨てたというのなら、私の元へ来ないか?」
「え……?」
「私の城には、君のような優秀な魔導師が必要だ。……いや、訂正しよう。私自身が、君を必要としている」
あまりにも直球な言葉に、頬が熱くなるのを感じる。
婚約破棄され、家族に捨てられ、どん底にいた私に差し伸べられた手。
それは、どんな魔法よりも救いのように見えた。
「ですが、私は『悪役令嬢』として追放された身ですわ。お側にいれば、貴方の名に傷がつくかもしれません」
「フン、冷徹公爵と恐れられる私に、今さら何を恐れることがある。それに……君を悪役にした世界など、私が凍らせてしまえばいいだけの話だ」
彼は事も無げにそう言うと、私の鞄をひょいと持ち上げた。
そして、もう片方の手で私の腰を引き寄せ、守るように抱き寄せる。
「……ひとまずは、私の城へ。君には温かい食事と、ふかふかのベッドが必要だ。話は、それからでいい」
「……ありがとうございます、リュシアン様」
私は彼の胸に顔を埋めた。
漂ってくるのは、冬の朝のような清涼な香り。
アルフレッドも無事なようで、リュシアン様の部下たちに介抱されているのが見える。
こうして私は、故郷を捨てたその足で、隣国の「氷の城」へと向かうことになった。
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不安よりも、期待のほうがずっと大きく胸を膨らませていた。
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