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ヴァランタン城の朝は、これまでになく穏やかな陽だまりに包まれていた。
いつもなら、吐く息が白くなるほど冷え込むはずの廊下が、今は春の木漏れ日のような温かさに満ちている。
私はエプロンをきゅっと結び直し、厨房へと足を運んだ。
「おはようございます、皆様。調子はいかがかしら?」
「これはエルシア様! 見てください、このコンロを! 火力が安定しているどころか、私の意思を読み取っているかのように強弱が変わるんです!」
料理長が興奮した様子で、巨大な鍋を振っている。
昨日、私がコンロの魔導回路を「最適化」したおかげだ。
ただ燃やすのではなく、食材の水分量に合わせて熱伝導率を変える術式を組み込んだ。
「それは良かったですわ。お湯の出具合はどうかしら?」
「最高ですよ! 蛇口を捻った瞬間に適温のお湯が出るなんて、この城では奇跡です。メイドたちも『手が荒れなくて済む』と泣いて喜んでおります」
感謝の言葉を浴びながら、私は自分の朝食――ではなく、主人のための特別な茶葉を手に取った。
リュシアン様は、極度の冷え性……というわけではないが、強すぎる魔力のせいで体温が奪われやすい体質だと気づいたからだ。
「失礼いたします、リュシアン様。お目覚めのハーブティーをお持ちしました」
執務室の扉を開けると、そこには既に山のような書類と格闘する彼の姿があった。
銀色の髪を少し乱し、眼鏡をかけたその姿は、夜会での冷厳な雰囲気とはまた違う、知的な色気を放っている。
「……エルシアか。早いな。それと、その格好は……?」
リュシアン様が視線を上げ、私のエプロン姿を見て動きを止めた。
アステリア公爵家では、私が家事をすることなど「卑しい振る舞い」として固く禁じられていたけれど。
「家政魔導師ですから、当然ですわ。それよりも、こちらをどうぞ。私の魔力で温度を一定に保つよう細工した『熱循環の茶』です」
彼が差し出されたカップを受け取ると、指先が触れ合った。
以前よりも、彼の肌が温かい。
リュシアン様は一口飲み、驚いたように目を見開いた。
「……美味いな。胃の腑からじわりと熱が広がるようだ。それに、この部屋の空気も……君がやったのか?」
「ええ。リュシアン様の放出する魔力(冷気)を、そのまま熱エネルギーに変換して循環させていますの。いわば、自給自足の暖房システムですわ」
「私の冷気を、熱に変えるだと……? そんな術式、聞いたこともない。宮廷魔導師たちが数十年かけても成し遂げられなかった難問だぞ」
彼は呆れたように笑い、眼鏡を外して眉間を押さえた。
どうやら、私が当たり前だと思っていた技術は、この国では驚天動地の発明だったらしい。
「私にとっては、お茶が冷めないようにする工夫の延長に過ぎませんわ。……リュシアン様、顔色が良くなりましたね」
「そうか? ……ああ、確かに体が軽い。君が来てから、この城は別の場所になったようだ。冷え切っていた私の心まで、解されていく気がする」
彼は椅子から立ち上がり、窓際に立つ私に歩み寄った。
逆光の中で、彼の青い瞳が優しく揺れる。
「エルシア。君を賓客として迎えたつもりだったが、考えを改めなければならないな」
「まあ、クビでしょうか……?」
「まさか。……手放せなくなった、と言っているんだ。君のいない生活など、もう想像もしたくない」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも重く、私の胸に響いた。
ウィルフリード様には一度も言われたことのない、存在を肯定される言葉。
私は少し照れ隠しに、窓の外を指差した。
「……ふふ。それなら、もっともっと驚かせて差し上げますわ。庭園の枯れた花々も、来週には満開にしてみせますから」
「ふ、それは楽しみだ。君の魔法には、春を呼ぶ力があるようだな」
リュシアン様の唇に、微かな、けれど確かな笑みが浮かんだ。
その瞬間、私の心の中にあった「悪役令嬢」の棘が、一つ消えたような気がした。
だが、幸せな空気の中、私は不意に思い出した。
私が王城から引き上げた魔導式。
あれは、この国の「農業用水」を制御する基幹システムとも連動していたはずだ。
(そろそろ、あちらの国では『水不足』が始まっている頃かしら……)
自分の仕掛けた「ざまぁ」の芽が、着実に育っていることを確信しながら、私はリュシアン様の淹れてくれた二杯目のお茶を共に楽しむのだった。
いつもなら、吐く息が白くなるほど冷え込むはずの廊下が、今は春の木漏れ日のような温かさに満ちている。
私はエプロンをきゅっと結び直し、厨房へと足を運んだ。
「おはようございます、皆様。調子はいかがかしら?」
「これはエルシア様! 見てください、このコンロを! 火力が安定しているどころか、私の意思を読み取っているかのように強弱が変わるんです!」
料理長が興奮した様子で、巨大な鍋を振っている。
昨日、私がコンロの魔導回路を「最適化」したおかげだ。
ただ燃やすのではなく、食材の水分量に合わせて熱伝導率を変える術式を組み込んだ。
「それは良かったですわ。お湯の出具合はどうかしら?」
「最高ですよ! 蛇口を捻った瞬間に適温のお湯が出るなんて、この城では奇跡です。メイドたちも『手が荒れなくて済む』と泣いて喜んでおります」
感謝の言葉を浴びながら、私は自分の朝食――ではなく、主人のための特別な茶葉を手に取った。
リュシアン様は、極度の冷え性……というわけではないが、強すぎる魔力のせいで体温が奪われやすい体質だと気づいたからだ。
「失礼いたします、リュシアン様。お目覚めのハーブティーをお持ちしました」
執務室の扉を開けると、そこには既に山のような書類と格闘する彼の姿があった。
銀色の髪を少し乱し、眼鏡をかけたその姿は、夜会での冷厳な雰囲気とはまた違う、知的な色気を放っている。
「……エルシアか。早いな。それと、その格好は……?」
リュシアン様が視線を上げ、私のエプロン姿を見て動きを止めた。
アステリア公爵家では、私が家事をすることなど「卑しい振る舞い」として固く禁じられていたけれど。
「家政魔導師ですから、当然ですわ。それよりも、こちらをどうぞ。私の魔力で温度を一定に保つよう細工した『熱循環の茶』です」
彼が差し出されたカップを受け取ると、指先が触れ合った。
以前よりも、彼の肌が温かい。
リュシアン様は一口飲み、驚いたように目を見開いた。
「……美味いな。胃の腑からじわりと熱が広がるようだ。それに、この部屋の空気も……君がやったのか?」
「ええ。リュシアン様の放出する魔力(冷気)を、そのまま熱エネルギーに変換して循環させていますの。いわば、自給自足の暖房システムですわ」
「私の冷気を、熱に変えるだと……? そんな術式、聞いたこともない。宮廷魔導師たちが数十年かけても成し遂げられなかった難問だぞ」
彼は呆れたように笑い、眼鏡を外して眉間を押さえた。
どうやら、私が当たり前だと思っていた技術は、この国では驚天動地の発明だったらしい。
「私にとっては、お茶が冷めないようにする工夫の延長に過ぎませんわ。……リュシアン様、顔色が良くなりましたね」
「そうか? ……ああ、確かに体が軽い。君が来てから、この城は別の場所になったようだ。冷え切っていた私の心まで、解されていく気がする」
彼は椅子から立ち上がり、窓際に立つ私に歩み寄った。
逆光の中で、彼の青い瞳が優しく揺れる。
「エルシア。君を賓客として迎えたつもりだったが、考えを改めなければならないな」
「まあ、クビでしょうか……?」
「まさか。……手放せなくなった、と言っているんだ。君のいない生活など、もう想像もしたくない」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも重く、私の胸に響いた。
ウィルフリード様には一度も言われたことのない、存在を肯定される言葉。
私は少し照れ隠しに、窓の外を指差した。
「……ふふ。それなら、もっともっと驚かせて差し上げますわ。庭園の枯れた花々も、来週には満開にしてみせますから」
「ふ、それは楽しみだ。君の魔法には、春を呼ぶ力があるようだな」
リュシアン様の唇に、微かな、けれど確かな笑みが浮かんだ。
その瞬間、私の心の中にあった「悪役令嬢」の棘が、一つ消えたような気がした。
だが、幸せな空気の中、私は不意に思い出した。
私が王城から引き上げた魔導式。
あれは、この国の「農業用水」を制御する基幹システムとも連動していたはずだ。
(そろそろ、あちらの国では『水不足』が始まっている頃かしら……)
自分の仕掛けた「ざまぁ」の芽が、着実に育っていることを確信しながら、私はリュシアン様の淹れてくれた二杯目のお茶を共に楽しむのだった。
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