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第三章 魂の在処

第三章(06)

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 そうして、全て終えて。
 ルチフはぐったりと、壁によりかかった。

 ……だがやるべきことは、まだ残っていた。
 ふと思い出し隣を見れば、ベアタは膝を抱えてうずくまっていた。
 乾いていた唇を舐めて、ルチフはやがて、口を開いた。

「……何の説明もしないで、モルさんの、人の肉を食わせて、本当に悪かった」

 ――遠くにある、他の村ではしないと聞いた。昨日まで会話していた人間を、食べるなんて。
 忌むべき行為だと思われていると聞いた。昨日まで生きていた人間を食べるなんて。その上、本来人が死んだなら、その死体を全て燃やし、魂を天に昇らせなければいけないのだから。

 村の外から来たベアタが驚いてしまうかもしれないことは、十分にわかっていた。
 ……それが、これほどにショックを与えてしまうなんて。

「意思を尊重するべきだった……食べるか食べないか聞くべきだし、説明するべきだった……チャーロを許してくれ……あいつは、善意だったんだ」

 ルチフはそう言うが、ベアタからは返事がない。聞いているのか、いないのか。
 焚き火の爆ぜる音が洞窟に響く。外の吹雪の騒音は、遠い。

「……どうして死者の肉を食べるの?」

 と、ベアタがゆっくりと顔を上げた。青い瞳に焚き火が映り、赤い炎が踊っていた。しかしベアタの顔は蒼白で、夢を見ているようだった。

「……この世界に、残されたから。魂を吸収して、共に生きるため」

 ルチフは何もない天井を見上げた。焚き火の光が届かない場所。

「食べることによって、死んだものの意思や力を受け継ぐ。それが村の考えだ。それは人間も同じで、死んでも、魂を残された人に渡すことで……共に生きていけるんだ」

 死んでも共にいるために。死んでも力になるために。

「だから……葬式では、身体の一部をみんなで食べる。死者がそう望んだのなら。そして残された人々もそう望んだのなら……残されたのだからこそ……」

 望んだからこそ。望まれたからこそ。
 残したからこそ。残されたからこそ。
 決して、死んだから食べようという、単純な話ではないのだ。それを知ってもらいたかった。

「魂の一部は天へ。魂の一部はこの世界に残し、みんなの力に……互いに互いの命が尊いからこその、この村での、魂の紡ぎ方だ……」

 焚き火は明るく温かいものの、身体はなかなか温まらない。
 外では相変わらず吹雪が騒がしく、死の白色に染まっている。

 ――こんな世界だからこそ。
 ……だから、ネサの肉も、ルチフは食べたのだ。
 ――ベアタは、理解してくれるだろうか。

「……でも人を食べてるのよ。昨日まで生きていた同じ人を……。獣じゃ、ないのよ?」

 ベアタはじっと焚き火を見つめていた。どこを見たらいいのか、わからないといった様子で。

「……あの雪原にいた狼は、共食いをしない」

 ルチフは淡々と答えた。

「オビスもだ……俺達だけがする。人間の俺達だけが。俺達にしか、できないことだ……」

 魂を受け継ごうと考えられるから、そうする。
 それからしばらくは、外の吹雪の音と、焚き火の音だけが、洞窟を満たしていた。徐々に温かくなってくる洞窟内だが、それでも身体は温まらない。出血のせいだろうか、と、ふとルチフが自身の足を見れば、止血のために巻いた布が、すっかり血の色に染まっていた。

 ルチフはそれをぼうっと見つめてしまって、やがて深呼吸した――焚き火があるからといっても、油断はできない。眠るのが、恐ろしい。

 ベアタを見れば、ベアタはうずくまったままだった。腕に巻いたマフラーは、血に染まってはいない――具合は良さそうだ。だが動かない。ベアタはこちらを見ない。

「……お前がどこから来たのかわからないから、死者をどうしていたのかは知らない……でも、本当に悪かった。もっと早く、話しておくべきだった」

 もう一度、ルチフは謝った。そうすることしかできなかった。
 しかし理解してほしかった。理解してくれたのならば。
 ――もしもの時。食べられたかったし、食べたかった。

 と、寒さにルチフは身体を震わせた。気付けば足はもう痛まなかった。これほどに、血が出ているにもかかわらず。

 ――だめかもしれない。

「……吹雪は、数日続くかもしれない。けど止めば、チャーロ達が探しに来てくれる」

 瞼がゆっくりと落ちてくる。頭がぼうっとする。
 その中で――ルチフはネサのことを思い出した。この血のにおいのせいだろうか。

 ――狼数匹に襲われ、ぼろぼろになってもかろうじて生きていた育て親。雪が降り始めた中、手当をしなければと、ルチフは彼を背負って村を目指したのだ。
 けれどもネサは、血を吐きながらも言ったのだ。

 ――もう、無理だ。俺を、置いていけ、ルチフ。吹雪になる前に、お前一人でも村に……。
 ――何を言ってるんですか! こんなところ置いていったら、また狼がきて……それに弱気になってどうするんですか! まだ間に合う……村についたら、すぐに手当を……。

 そうは言っても、ルチフにも、わかっていたのだ。
 ネサは恐ろしいほどに、血を流していたのだから。
 しかしここで置いていっては、吹雪の間に、狼に遺体を全て食べられてしまうだろう。
 そうなってしまえば、ネサの魂は。

 ――血を……。

 と、ネサはルチフの背で笑っていた。

 ――俺の血を、飲むんだ、ルチフ。俺の、魂を……肉が食えなくても、血だけでも……。

「……血を」

 発した声は弱々しいもので、ルチフ自身で驚いたものの、表情は動かなかった。

 ……ネサはあの後、無事に村まで連れて帰ることができたけれども。
 もしもいま、このまま、自分もベアタも、死んでしまうのであれば。
 そしてもしも、ベアタよりも先に自分が死ぬのならば。

「俺の血を……飲んでくれ、ベアタ。もし俺が先に死ぬようなことがあれば……血を飲んで、俺の魂を……肉をすぐに食べられないのなら、血を……」

 ――魂を受け継いでもらいたかった。

 チャーロ、ケイ、ほかにも繋がりのある村人はたくさんいる。
 けれどもやっと、同じ人間であるベアタを見つけたのだ。出会えたのだ。

 一人きりだと思っていたのだ。
 一人にしないでほしかった。

「ルチフ……?」

 ベアタが困惑した表情でこちらを見て、わずかに口を開けた。

「ルチフ……!」

 ――自分はどれだけ、弱った姿をしていたのだろうか。

「……ルチフ……しっかり……!」

 ベアタはルチフのすぐ隣にくると、抱きつくかのようにぴったりと寄り添った。
 その体温が、温かくて。

「ベアタ……」

 ルチフはそのまま、意識を手放した。
 ベアタの温もりと、握ってくれた手の感覚だけが、最後まで残っていた。
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