39 / 72
人ノ部 其之壱 神々の黄昏を先導する神の子
二. 翁と媼
しおりを挟む
まだまだ神々の影響力が色濃い神代のことである。農耕にしても漁業にしても、道具も技術も幼稚なままでも生活に困らないような、豊かな時代においては人々の気性は穏やかで優しいものだった。
故に、怪我をし川を流れていくヒルコを捨て置けなかった。見付けた媼も、相談された翁もだ。二人の子供は行商をし、海の物を運んではそれぞれの地の特産品と交換して戻ってくる。ちなみにこの時代はまだ貨幣が無いため物々交換である。
「おお、おお、可哀想に。腕は治るかなあ、目は、もう見えないのだろうか。」
媼から話を聞いて、翁はヒルコを抱えて悲しそうに眉を下げた。
傷の手当は媼がてきぱきと進め、息子の着物を残しておいて良かったわ、と言いながら衣装箱から取り出した着物に着替えさせられた。ここまで甲斐甲斐しく世話をやいてくれたのは、媼が初めてだとヒルコは思っている。翁も気にかけてくれている。すっかり荒んでいたヒルコの心が少し、温かくなった。
「そうだ、ワタツミ様なら怪我を治してくださるだろう。」
「そうね、ヒルコは私たちの子供になるのだもの、治してくださるわね。」
ヒルコの潰された片目と片腕に視線を落としながら、翁と媼は口々に言う。
「僕、治さなくていい。」
ヒルコは思わず口走っていた。
二人が氏神であるワタツミの名を口にしたことにより、ヒルコは自分がどこにいるのかを悟った。海辺の里、海の幸に恵まれた海神を氏神とする、ワタツミの里だ。いよいよ海に呑まれるところだったと知り、ヒルコは恐怖に襲われた。ほんの少し前まで、葦の舟で流されていた時は、憎悪と怨嗟で恐怖も感じなかったというのに。
「なんと、治さなくて良いと言うのか?」
ヒルコの言葉に、翁は目を剝いた。
「うん。今は…神サマには会いたくない。…悲しくなるから。」
言い訳を少し考えて、ヒルコは翁に答える。嘘を吐く疚しさか、神サマなどと呼ばなくてはならないことが気に入らないからか、ヒルコは視線を地に落とした。その姿は、翁と媼の心を打ち、誤解を孕んだまま二人はヒルコの要望を呑むことにした。
その実、この期に及んで氏神だろうと何だろうと、三貴神に連なるものと顔を合わせたくなかっただけである。海の彼方に消えることの無かった自分を、もしかしたら打ち取ろうとするかもしれない。目を潰し、腕を折られた恨みは忘れてはいないが、今となっては敵うはずもない。少なくとも目を合わせなければちょっかい迄は出してこないはずだ、と淡い希望を胸にヒルコは自分を抱き上げている翁の着物の袖をぎゅっと握った。
翁と媼は震えるヒルコを見て、多くを語らないが何か不幸なことがあって両親を失ったのだろうと思い込んだ。熊か山犬かに襲われでもしたのだろう。どうにかヒルコだけを舟に乗せて逃がしたのかもしれない。今はそっとしておいた方がヒルコのためなのかもしれないと、翁と媼は頷き合った。
どうやらワタツミの元へは連れていかれないのだと、翁と媼の雰囲気から悟ったヒルコはほっと一息ついた。恨みつらみは、きっと消えることは無いだろうと思っている。けれど、翁と媼を巻き込むことには抵抗を感じている。どのみち今のままでは、仮に目も腕も治ったところで兄弟神の足元にも及んでいないのだ。神格を剝奪されたわけではないのだから、もしかしたら報復出来るくらいには強くなれるかもしれない。自分もまた、神である。寿命なら腐るほどあるのだ。翁と媼に代わる代わる抱き上げられながら、ヒルコは心の内で復讐の日までできる限りのことをしようと誓ったのだった。
故に、怪我をし川を流れていくヒルコを捨て置けなかった。見付けた媼も、相談された翁もだ。二人の子供は行商をし、海の物を運んではそれぞれの地の特産品と交換して戻ってくる。ちなみにこの時代はまだ貨幣が無いため物々交換である。
「おお、おお、可哀想に。腕は治るかなあ、目は、もう見えないのだろうか。」
媼から話を聞いて、翁はヒルコを抱えて悲しそうに眉を下げた。
傷の手当は媼がてきぱきと進め、息子の着物を残しておいて良かったわ、と言いながら衣装箱から取り出した着物に着替えさせられた。ここまで甲斐甲斐しく世話をやいてくれたのは、媼が初めてだとヒルコは思っている。翁も気にかけてくれている。すっかり荒んでいたヒルコの心が少し、温かくなった。
「そうだ、ワタツミ様なら怪我を治してくださるだろう。」
「そうね、ヒルコは私たちの子供になるのだもの、治してくださるわね。」
ヒルコの潰された片目と片腕に視線を落としながら、翁と媼は口々に言う。
「僕、治さなくていい。」
ヒルコは思わず口走っていた。
二人が氏神であるワタツミの名を口にしたことにより、ヒルコは自分がどこにいるのかを悟った。海辺の里、海の幸に恵まれた海神を氏神とする、ワタツミの里だ。いよいよ海に呑まれるところだったと知り、ヒルコは恐怖に襲われた。ほんの少し前まで、葦の舟で流されていた時は、憎悪と怨嗟で恐怖も感じなかったというのに。
「なんと、治さなくて良いと言うのか?」
ヒルコの言葉に、翁は目を剝いた。
「うん。今は…神サマには会いたくない。…悲しくなるから。」
言い訳を少し考えて、ヒルコは翁に答える。嘘を吐く疚しさか、神サマなどと呼ばなくてはならないことが気に入らないからか、ヒルコは視線を地に落とした。その姿は、翁と媼の心を打ち、誤解を孕んだまま二人はヒルコの要望を呑むことにした。
その実、この期に及んで氏神だろうと何だろうと、三貴神に連なるものと顔を合わせたくなかっただけである。海の彼方に消えることの無かった自分を、もしかしたら打ち取ろうとするかもしれない。目を潰し、腕を折られた恨みは忘れてはいないが、今となっては敵うはずもない。少なくとも目を合わせなければちょっかい迄は出してこないはずだ、と淡い希望を胸にヒルコは自分を抱き上げている翁の着物の袖をぎゅっと握った。
翁と媼は震えるヒルコを見て、多くを語らないが何か不幸なことがあって両親を失ったのだろうと思い込んだ。熊か山犬かに襲われでもしたのだろう。どうにかヒルコだけを舟に乗せて逃がしたのかもしれない。今はそっとしておいた方がヒルコのためなのかもしれないと、翁と媼は頷き合った。
どうやらワタツミの元へは連れていかれないのだと、翁と媼の雰囲気から悟ったヒルコはほっと一息ついた。恨みつらみは、きっと消えることは無いだろうと思っている。けれど、翁と媼を巻き込むことには抵抗を感じている。どのみち今のままでは、仮に目も腕も治ったところで兄弟神の足元にも及んでいないのだ。神格を剝奪されたわけではないのだから、もしかしたら報復出来るくらいには強くなれるかもしれない。自分もまた、神である。寿命なら腐るほどあるのだ。翁と媼に代わる代わる抱き上げられながら、ヒルコは心の内で復讐の日までできる限りのことをしようと誓ったのだった。
0
あなたにおすすめの小説
私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。
小野 まい
恋愛
結婚記念日のディナーに夫のオスカーは現れない。
「マリアが熱を出したらしい」
駆けつけた先で、オスカーがマリアと息子カイルと楽しげに食事をする姿を妻のエリザが目撃する。
「また裏切られた……」
いつも幼馴染を優先するオスカーに、エリザの不満は限界に達していた。
「あなたは家族よりも幼馴染のほうが大事なのね」
離婚する気持ちが固まっていく。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
悪役令嬢に仕立て上げたいなら、ご注意を。
潮海璃月
ファンタジー
幼くして辺境伯の地位を継いだレナータは、女性であるがゆえに舐められがちであった。そんな折、社交場で伯爵令嬢にいわれのない罪を着せられてしまう。そんな彼女に隣国皇子カールハインツが手を差し伸べた──かと思いきや、ほとんど初対面で婚姻を申し込み、暇さえあれば口説き、しかもやたらレナータのことを知っている。怪しいほど親切なカールハインツと共に、レナータは事態の収拾方法を模索し、やがて伯爵一家への復讐を決意する。
処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!
秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。
民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。
「おまえたちは許さない」
二度目の人生。
エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。
彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。
1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。
「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」
憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。
二人の偽りの婚約の行く末は……
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる