天使

亀沢糺

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 入り組んだ路地をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている内に、いつか町を抜け、森の中に迷い込んでいた。ぐねぐねとうねった木々の黒い影が、いかにも気味悪い。絵本なら悪い魔女か恐ろしい魔物が潜んでいることは間違いない。
 木々の枝にはまるで木の実のように明かりがぶら下がっていた。暖色のぼんやりとした光は時々線香花火みたいにパチパチとスパークした。あまりに心許ない明かりではあったものの、それのおかげで森の中までお祖父さんを追うことができていた。それのせいでこんなところまで来てしまったともいえるが。それに、明かりが照らし出すのはお祖父さんだけではなく、あの亡霊のような影も浮かび上がらせていた。
不安定な明かりの中に徘徊する亡霊の姿がぼんやりと映し出されては消えて行く様は、酷く不気味だった。そして、いつかお祖父さんの姿はその中に紛れて分からなくなってしまった。少年の言うように、最初からお祖父さんではなかったのかもしれない。
 戻った方が良いだろうかと振り返ると、さっきまでそこに灯っていた明かりは消え、町へ続く道は暗闇に閉ざされていた。残った明かりは瞬きながら森の奥へと向かっている。誘い込まれているみたいでなんだか気味が悪いけれど、このまま進むしかなさそうだ。
 コートが水を含んで重たくなってきた。ただでさえ柔らかい森の土もたっぷりと雨を吸い込んで、踏み出した足を受け止める度に少しずつ靴の隙間から水を染み込ませてくるようになっていた。最初は濡れた靴下が酷く気持ち悪かったけれど、それももうどうでもよくなってしまった。いつの間にか地面は土というよりも泥に近くなっていた。
 目の前には、湿地というのか沼地というのか、大きな水たまりみたいなものがいくつもあり、その水面に暖色の明かりを映している。気味悪くうねった木々は、水の中からも生えていて、やはりその枝に明かりをぶら下げているのだった。
 水たまりの中には藻や水生の草花が茂り、ところどころに白や薄紅の花が寄り集まってぱっぱっと咲いているのが、闇の中に浮かんで見える。沼の中心にはねじくれた木をいくつもねじり合わせたような大木が立ち、その枝にはいくつもの明かりがぶら下がっていた。それは幻想的な光景と言ってもいいかもしれなかった。薄気味悪い亡霊が明かりの中をうろついていなければ見惚れていたかもしれない。
 少年の目が、ここを行くのかと問い掛けていた。もう足元はぐしょぐしょで、全体に明かりが滲んで地面と水面の区別もつきにくく、踏む場所を間違えれば水の中に落ちてしまいそうだった。見ただけでは水の深さも分からない。
 さすがにここを突っ切るのは無謀かなと考えていると、沼の中心の大木の下に、ぼんやりと立つ人影を見つけた。
「あれ、見て」
 ついにお祖父さんを見つけたと思って、少年を振り返った。少年が目を細める。見えないのだろうか。向き直った時にはもう、その姿は闇の中へと溶けて行くところだった。
 私は駆け出していた。今度こそ、見失ってはいけない。ばしゃばしゃと足元で水が跳ねる。背後から、危ないぞ、と声がする。その注意もむなしく、泥に足を取られてすっ転びそうになり、たむろしていた亡霊に肩が触れる。その瞬間、背筋を悪寒が突き抜け、へたりとその場に膝をついてしまった。
 亡霊たちはそこで初めて私の存在に気がついたかのように、一斉にこちらを向いた。ふらふらと近寄ってくる姿は不気味で、何かを求めるようにこちらへ手を伸ばす様は恐怖でしかなかった。ゆらりと伸びてきた手が、胸の傷に触れようとする。咄嗟にうずくまり、傷を守るように両腕を掻き抱く。その手が、肩に、腕に、頬に、触れる。その度に、まるで雨が染み込んでくるように胸が冷たくなった。全身の熱が奪われていく。
 逃げようとうずくまったままじりじりと移動を試みるも、ついに必死の防御をかいくぐった亡霊の指先が、傷口に触れた。血が凍り、傷口が乾いていくような、その奥の熱や痛みが吸い取られていくような、大事な何かが失われていくような……。
 亡霊の指先が傷口の奥をまさぐる。
「だめ!」
 逃れようと身をよじった瞬間、ばしゃん。水の中に落ちていた。同時に銃声が響く。必死に状況を探る視線が、少年の放った銃弾が亡霊の体をすり抜けていくのを捉えた。どうやら亡霊に対して少年の銃は役に立たなかったらしい。
 幸い水深は浅かった。亡霊たちがじっとこちらを見ている。もしかして、水の中には入ってこられないのだろうか。ひとまずほっとし、亡霊たちから距離を取ろうと後退りした、と、急に水深が深くなる。
 そのまま仰向けに倒れて、頭まで水に浸かってしまった。慌てて水面に顔を突き出す。ぎりぎり足がつかないような深さ。じたばたと手足を動かす。
 少年が何か叫んでいる。自分で立てる水音のせいで、何を言っているのか全然聞こえなかった。私はあまり水泳が得意じゃないのだ。しかも今は、服が、コートが、酷く、重い……。このままでは……、
 ――溺れる!
 口の中に水が流れ込む。吐き出そうとすると余計に水が入ってくる。苦しい。いっそこのまま意識を手放してしまえば、楽になれそうな……。
 と、一瞬すべてを受け入れそうになったところに、シャツを脱いだ少年が泳いでくる。
 どうやら水泳が得意なようで、少年につかまって岸まで連れて行ってもらう。必死にしがみつくあまり、危うく少年まで溺れさせるところだったけれど、何とか岸に上がることができた。亡霊たちは足が遅く、まだ追いついてこない。
「コイツら相手じゃ銃も意味がないみたいだな」
 早く逃げよう、と言った少年の視線が森の奥に向けられ、そこで固まった。私はげほげほと咳き込みながら、まだ激しく肩を上下させていた。
「アイツだ!」
 叫ぶと同時に少年は走り出していた。私はわけも分からずその後を追い掛ける。どうしたのと聞いても、アイツって誰と聞いても、私のことなんて忘れてしまったかのように恐ろしい剣幕で森の中を駆け回っては、亡霊には効かないはずの銃を何かに向かって撃ち放つ。なんて暴力的で耳障りな音なのだろう。思わず耳をふさいだ。その音に引き寄せられるように、森中の亡霊がぞろぞろと集まってきていた。
「早くどこかへ逃げようよ」
 今度は私が言った。雨が凌げる場所まで行けば、亡霊も手が出せないはずだ。けれど少年は、眉間にしわを寄せ、拒むように首を振った。
「アイツは、アイツは俺が殺さなきゃいけないんだ」
 そう言って少年はまた銃を撃った。銃弾の飛んで行った先を見ても、私には何も見えない。少年には彼の敵の姿が見えているのだろうか。それは私が見つけることができなかっただけなのか、それとも彼にしか見えていないのか。私が見たお祖父さんみたいに?
少年は再び走り出した。
「危ないよ!」
 まるでこちらの声など聞こえていないみたいだ。彼は亡霊たちが伸ばしてくる手を巧みにかわしながら駆けていく。彼みたいに身のこなしが軽くない私は、亡霊たちの間をうまくすり抜けることができずにあたふたしている内に、いつの間にか逃げ場を失っていた。どこかでまた銃声がしたけれど、私に狙いを定めた亡霊たちはそちらには気を取られる様子もなく、緩慢な動作でじわじわと迫ってくる。
 胸元へ伸ばされた手を避けようとしてよろけ、しりもちをつく。手近にあった石を投げつけてもみても、銃弾と同じようにすり抜けていくだけだった。絶体絶命だ。
最後のあがきとばかり、拾った枝をむちゃくちゃに振り回す。すると、枝に当たった亡霊の指先がしぶきを上げて弾けた。
 そうか、銃弾や石ころみたいなものはすり抜けてしまうけれど、雨のスクリーンに映し出された亡霊たちは、その雨を散らすようにされるとかたちを保っていられないのだ。そういえば亡霊たちは水の中にも入れないようだった。
 急いでコートを脱ぐと、水を吸って重たくなったそれを力いっぱい横に薙いだ。赤色が重たい軌跡を描く。何とか包囲に穴を開け、そこから抜け出す。
 またどこかで銃声がした。手に持ったコートが重たかったけれど、ビショビショのドロドロになってしまっても、元は気に入りのコート、その上に今は強力な武器でもあるのだから、捨てていくわけにもいかなかった。
 はぐれてしまった少年を探してあっちへ耳を傾け、こっちへ視線を向け、行きつ戻りつしながら森の中をさ迷っている間、木の枝に吊るされた明かりがパチパチと盛大に火花を飛ばし、忙しく点滅した。まるで私が思い通りに動かなくて慌てているみたいだった。
少年は銃声のするところにいるに違いないと耳を澄ましてみても、それは森の中に反響してどこから聞こえてくるのかよく分からなかった。私は恐ろしい森の中を一人で右往左往していた。明かりは怒ったようにチカチカと瞬いている。
どこかで雄叫びが聞こえた。近くだ、と思い、振り向く。明かりの中に銃を構えた少年の小柄な影が浮かび上がる。やっと見つけたと思った瞬間、その暴力的な音が少年の胸を貫いた。
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