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第1話
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ーーー日本に生まれて27年。
まだまだ若年とも言える年齢ではあるが、若さを誇れる輝かしい時代は既に過去のものとなっていた。
ガタガタと揺れる電車の中、左手に革鞄を持ち右手で吊革を掴む眼鏡をかけた男は、深い隈ができている目で虚空を眺めている。
電車の窓から見える空はすっかり茜色に染まっており、車内には定時上がりの会社員や下校中の学生達等がいた。
男も女も社会人も学生も、ほとんどの人が手元のスマホに目を落とし、何やらポチポチと忙しく指を動かしていた。
疲労困憊の男は何ともなしに辺りを見回し、「つい10年程前まではスマホなんて持っている人の方が少なかったのにな……。」と考え、胸元から取り出したスマホを見て溜め息をこぼした。
そのスマホは周りの人々が使ってるものに比べ明らかに古く、何年も使い込まれているのは明らかだった。
彼が未だにこの古いスマホ使っているのは、何か拘りがあるとか、思い入れがあるとかいう訳ではなく、ただ単に機種変更する機会がなかったからである。
彼は大学を卒業して今の会社に就職して以来、ほぼ休日返上で仕事をこなしてきた。
それは自らの意思によるものではなく、半ば強要された勤務であったが、いずれにせよこの5年間、彼はマトモな休みを経験しなかった。
毎日の残業や休日出勤は当たり前、一年に数回貰える休みも、休日という名の自宅就労だ。
携帯会社に出向く余裕さえ、彼には無かった。
今日は仕事の都合上、奇跡的に定時上がりをする事ができた。
こんな事はもしかしたら就職以来の大事件かもしれない。
押し付ける仕事が見つからず、彼が定時上がりするのを恨めしそうに睨み付けてきた上司の顔を思い出すと、疲れきった彼の口角が少しだけ上がった。
電車を降りた彼は人波に流されながら改札を通り、小さく伸びをして帰路へ足を向けた。
彼の家は駅から徒歩で15分といった所にある、小さなアパートだ。
そこそこ築年数は経っているのだが、綺麗好きの大家のお陰で見た目はそこまで廃れていない。
彼は欠伸を噛み締めながら、今日の晩をどう過ごすか思案しつつ歩いていた。
久々の定時上がり、どうせならこの束の間の休息を満喫したい。
酒でも呑みながらテレビを眺めるか、少しでも長く眠るか、久々に風俗を利用してみるか。
どれも捨てがたいと思いながらも歩を進めていると、目前の信号が赤になりかけているのに気づいて走り出す。
しかし、左方から急加速した車が右折して横断しようとしているのに気づいた彼は足を止めようとする。
だが、止まろうとした彼の目に、横断歩道上で身をすくませて佇む黒猫の姿が映った。
このままでは間違いなくあの猫は車に引かれて死ぬだろう。
本能的にそんな事を感じ取った彼は、止めようとした足を再度動かして、猫の下へダッシュした。
彼は、自分は何をしているのだと困惑していた。
彼は悪人ではないが、人並み以上に正義感が強いという事はないし、動物の為に命を捨てられるような人間では決してない。
にも関わらず、彼は踏み出した。
久々の定時上がりに高揚していたからか、先程電車内で見た動物愛護の広告のせいか。
いずれにせよ、彼はもう走り出してしまった。
そして、その足はもう彼自身ですら止められない。
右折してくる車は慌ててブレーキを踏むも、後の祭り。
猫はこれでもかという程に目を見開き、向かってくる巨大な鉄の物体を見つめている。
その瞬間、覚悟を決めた……否、自棄になった彼は、猫に向かって飛び込んだ。
こちらに気付いた様子もない猫を掴み、やや乱暴に歩道に向けて投げ飛ばした。
無様に地面に転がった彼が最期に見たのは、見事な身体操作で着地した猫が、今更毛を逆立たせて鳴いている姿だった。
そんな光景を前に何らかの感想を抱く暇もなく、彼は一瞬の激しい痛みと共に、意識を失った。
まだまだ若年とも言える年齢ではあるが、若さを誇れる輝かしい時代は既に過去のものとなっていた。
ガタガタと揺れる電車の中、左手に革鞄を持ち右手で吊革を掴む眼鏡をかけた男は、深い隈ができている目で虚空を眺めている。
電車の窓から見える空はすっかり茜色に染まっており、車内には定時上がりの会社員や下校中の学生達等がいた。
男も女も社会人も学生も、ほとんどの人が手元のスマホに目を落とし、何やらポチポチと忙しく指を動かしていた。
疲労困憊の男は何ともなしに辺りを見回し、「つい10年程前まではスマホなんて持っている人の方が少なかったのにな……。」と考え、胸元から取り出したスマホを見て溜め息をこぼした。
そのスマホは周りの人々が使ってるものに比べ明らかに古く、何年も使い込まれているのは明らかだった。
彼が未だにこの古いスマホ使っているのは、何か拘りがあるとか、思い入れがあるとかいう訳ではなく、ただ単に機種変更する機会がなかったからである。
彼は大学を卒業して今の会社に就職して以来、ほぼ休日返上で仕事をこなしてきた。
それは自らの意思によるものではなく、半ば強要された勤務であったが、いずれにせよこの5年間、彼はマトモな休みを経験しなかった。
毎日の残業や休日出勤は当たり前、一年に数回貰える休みも、休日という名の自宅就労だ。
携帯会社に出向く余裕さえ、彼には無かった。
今日は仕事の都合上、奇跡的に定時上がりをする事ができた。
こんな事はもしかしたら就職以来の大事件かもしれない。
押し付ける仕事が見つからず、彼が定時上がりするのを恨めしそうに睨み付けてきた上司の顔を思い出すと、疲れきった彼の口角が少しだけ上がった。
電車を降りた彼は人波に流されながら改札を通り、小さく伸びをして帰路へ足を向けた。
彼の家は駅から徒歩で15分といった所にある、小さなアパートだ。
そこそこ築年数は経っているのだが、綺麗好きの大家のお陰で見た目はそこまで廃れていない。
彼は欠伸を噛み締めながら、今日の晩をどう過ごすか思案しつつ歩いていた。
久々の定時上がり、どうせならこの束の間の休息を満喫したい。
酒でも呑みながらテレビを眺めるか、少しでも長く眠るか、久々に風俗を利用してみるか。
どれも捨てがたいと思いながらも歩を進めていると、目前の信号が赤になりかけているのに気づいて走り出す。
しかし、左方から急加速した車が右折して横断しようとしているのに気づいた彼は足を止めようとする。
だが、止まろうとした彼の目に、横断歩道上で身をすくませて佇む黒猫の姿が映った。
このままでは間違いなくあの猫は車に引かれて死ぬだろう。
本能的にそんな事を感じ取った彼は、止めようとした足を再度動かして、猫の下へダッシュした。
彼は、自分は何をしているのだと困惑していた。
彼は悪人ではないが、人並み以上に正義感が強いという事はないし、動物の為に命を捨てられるような人間では決してない。
にも関わらず、彼は踏み出した。
久々の定時上がりに高揚していたからか、先程電車内で見た動物愛護の広告のせいか。
いずれにせよ、彼はもう走り出してしまった。
そして、その足はもう彼自身ですら止められない。
右折してくる車は慌ててブレーキを踏むも、後の祭り。
猫はこれでもかという程に目を見開き、向かってくる巨大な鉄の物体を見つめている。
その瞬間、覚悟を決めた……否、自棄になった彼は、猫に向かって飛び込んだ。
こちらに気付いた様子もない猫を掴み、やや乱暴に歩道に向けて投げ飛ばした。
無様に地面に転がった彼が最期に見たのは、見事な身体操作で着地した猫が、今更毛を逆立たせて鳴いている姿だった。
そんな光景を前に何らかの感想を抱く暇もなく、彼は一瞬の激しい痛みと共に、意識を失った。
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