この上ない恋人

あおなゆみ

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遅咲きのお姫様

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「今日もいたよ、あのお婆さん」

 更衣室では、今日もその話題で持ちきりでした。

「一人で来て、乗り物にも乗らないで⋯⋯っていうか、乗り物乗ってたらそれはそれで心配だけど。もう二週間になるよ」

 誰かがそう言えば、

「もしかして、認知症だったりしないよね?何かあってからじゃ遅いから」

 と言っている人もいて、

「毎回同じ場所に座ってるから、もしかして私にしか見えない幽霊かと思った」

 なんて、酷いことを言う人までいます。
確かに珍しいけれど、幽霊だなんて。



「こんにちは」

 園内を清掃中の私に、そんな風に声を掛けてくれた人は初めてでした。
案内で声を掛けられるにしても、「すみません」と呼ばれるだけで、向こうから挨拶をされることはありません。
「こんにちは」と言ってくれたのは、上品な風貌のお婆さんでした。
整えられた髪型に、シンプルで女性らしい洋服のチョイス。
ベンチ座り、こちらに頭を下げてくれたのです。

「こんにちは」

 私も挨拶を返し、少しは幸せな気持ちになったものの、その日は特別気に留めることもありませんでした。
 でも次の日、さらにその次の日も、そのお婆さんは同じベンチに座っていたのです。
そしてその度に挨拶を交わしました。
最初の日には、家族を待っているのかな、と思っていたけれど、毎日来ているとなると恐らく違うはずです。
一人でわざわざ遊園地に来ているとなると、理由が気になったし、正直目的が不明でした。
 お婆さんがいつも座っているベンチは、ジェットコースターやバイキング、メリーゴーランドや回転ブランコなど、人気のアトラクションが集中しているゾーンではなく、そこから少し離れた場所。
小規模なジェットコースターや、鑑賞系のアトラクションの近くです。
何かを見ていると仮定しても、そんなに楽しいとは思えませんでした。

 
「前田さん。声掛けてみてよ」

 お婆さんの話題に一度も加わっていなかった私に、誰かがそう言いました。

「私ですか?」

「うん。前田さん、人当たりいいし」

 それが本心とは思えません。
私は暗くて、つまらない人間だからです。
私を都合よく利用したいだけだろうと思いました。

「じゃあ、話せそうなら話してみます」

 断れないということが人当たりのいいという評価に変わるのなら、そこに縋るしかないのです。

「進展あったら教えてね」

「あの世に連れて行かれないようにね」

 誰かがまた酷いことを言いました。
冗談のつもりなら、私には全く笑えません。
せいぜい同調して微笑むくらいです。
いや、そんな私こそ酷い人間です。


 今日はいないことを願ったけれど、お婆さんはいつものベンチに座っていました。
いつものように、程よく素敵な装いで。
私は様子を伺いました。
話し掛ける最初の一言を考えながら。
 すると、お婆さんが手を振り始めます。
その視線は、明らかに私に向かっていました。
私は少し近づき、その手の動きの意味を確かめようとします。
 その手は振っているのではなくて、私を招いていました。
私に、こっちにおいでと、手招きしているのです。
呼ばれているのに、無視するわけにいかないし、向こうから呼んでくれるのなら、今日の私にとっては好都合です。
正直、全く怖くないのかと聞かれれば、少しだけ怖くもありました。
誰かが幽霊と言ったせいでしょう。

「こんにちは。どうかなさいましたか?」

 明るく声を掛けます。
お婆さんが笑顔だったからです。

「少し、聞きたいことがあるの。いいかしら?」

「はい」

「良かったら、座ってくれない?怒られちゃうかしら」

「仕事中ですし、このまま聞きます」

「そう⋯⋯でもやっぱり座ってくれる? お婆さんの耳が遠くて、隣に座って欲しいと言われたって言ってもいいから」

 座って欲しいということは、長い話になるという意味なのでしょうか。
よく分かりませんでしたが、混んでいるわけでもなく、この場所は特に静かだったので、お婆さんの言う通りにしました。

「じゃあ、失礼します」

 お婆さんは相変わらず、ニコニコと優しく微笑んでいます。

「あなたお名前は?」

「前田です」

「前田さんね。お仕事中に本当にごめんなさい。でも、あなたが良かったの。あなたが一番、話し掛けやすそうだったから」

 お婆さんまでもが私を人当たりがいいとでも言って、都合よく利用する気なのでしょうか。
でも、私の心の中の悪態はすぐに消えることになります。

「前田さんは手の抜かない、丁寧なお仕事をしているようだったから」

「私がですか?」

「ええ。私なんかが偉そうなことは言えないけれど、一応長く生きているから分かるわ」

「ありがとうございます」

 私は反省しました。
そんな風に言ってくれる人は初めてでしたから。

「少し恥ずかしいけれど、許してね。あの、観覧車について聞きたくて」

「観覧車ですか?」

「ええ」

 観覧車はここから少し坂を登った先にあり、このベンチから眺めているというのなら、お婆さんがここにこだわった理由になるかもしれません。
でも、何日も通って眺め続ける理由は想像できませんでした。

「前田さんは乗ったことあるの?」

「はい。最近はないですけど、小さい頃はよく」

「どういう人が乗ることが多い?」

「一番多いのは、小さなお子さんと親御さんですかね。あとは、カップルで」

「そう⋯⋯良いわね」

 話すにつれて、私を手招いた時に比べると、お婆さんの表情が少しだけ悲しそうに見えました。

「怖がる子はいない?」

「時々はいますけど、そんなに多くはありません」

「前田さんは、怖くなかった?」

「私は大丈夫でした。高い所も、ああいうジェットコースターみたいな速いのも平気でした」

「そうなの。遊園地が好きなのね」

「うーん。正直、好きなのかは⋯⋯あっ、すみません」

 ただ、肯定すれば良いのに、私はつい本音の会話みたいに答えてしまいました。

「いいのよ。会話に付き合わせているのは私なんだから。こう言えば、前田さんも話しやすくなるかしら⋯⋯私、ここに来るのは今日で最後なの。だから、私の話に付き合わせる代わりに、あなたも話したいこと、話してみない? その方が私も気楽よ」

 今日で最後⋯⋯
その理由も気になったけれど、お婆さんは私に何を話したいのでしょうか。

「手短に済ますわ。こんな年寄りの話を聞いてくれるのは、他人でなくちゃダメなの。それから、大切なプライベートの時間を過ごす人じゃなくて、仕事中の人。仕事での出来事だと思えば、少しは忘れやすいから。心配しないで。お婆さんは、お喋りがしたいだけなの」

 お婆さんの目には涙が浮かんでいるように見えました。
 その切実さに、

「お喋りしましょう」

 と答え、私はベンチに深く座り直します。


「私は今まで、遊園地に来たことがなくて。恥ずかしけれど、遊園地に憧れ続けていたわ。雑貨屋さんに行った時に、観覧車の置物があって、そんなのもつい買っちゃうくらいに」

「特に観覧車がお好きなんですか?」

「ええ。観覧車に憧れ続けているの。私、乗ったことないのよ」

「そうなんですか?」

 もしかして、一緒に観覧車に乗ってくれる人を探しているのだろうか。

「でも、乗れないわ⋯⋯いや、違う。乗らないの」

 お婆さんは、観覧車を見上げます。
私が観覧車を見上げる軽々しさとは違うように思えました。
届かない星でも見上げるような、儚さを感じます。

「ここからは少し、惚気って言うの? そういうのも含まれるけど、許してね」

「分かりました」

 お婆さんは、右手を観覧車に向けて伸ばします。
そして、触れられないことに今更気付いたみたいに溜め息をつきました。
腕を下ろし、左手薬指にはめられた指輪に触れます。

「夫は、城に閉じ込められた王子様。体の弱い王子様だったの」

 そう言って、今度こそ本当に悲しく微笑みました。

「笑っちゃうでしょ。こんな年寄りなのに、王子様なんて。でも、私にはそう思えてしまう程、素敵な人だった。ね? 惚気でしょう?」

 私は言葉を失いました。
こんな風に愛する人のことを話せる人に、初めて出会ったからです。
映画でも見たことがありません。

「もっと、聞かせて下さい」

「やっぱり前田さんで良かったわ。ありがとう」

 王子様というキーワードのせいもあるかも知れませんが、見慣れた遊園地が異国のように思えてきました。

「出会った頃は、勇敢な王子様だったわ。その時に遊園地に行っておくべきだったわ。結婚して、子宝にも恵まれて⋯⋯もう少しで娘たちを遊園地に連れて行っても良いかなっていう頃にね、夫が病気になってしまったの。安静だけが救いのそんな病気」

 私の想像力では足りない、どんな気持ちだったのでしょうか。

「命は奪われない、それに感謝したわ。でも、寂しいのは寂しい。私は夫とお城の中で静かに過ごした。正直、それはそれで何にも変え難い幸せだったの。問題は娘たちよね。家族で遊園地に行きたがったから。私一人で連れて行っても良かったんだけれど、ほら、私にとって夫はいつまでも王子様だから。夫と行けない遊園地は、嫌だった。他の場所より遊園地は特別に思えて」

 ほんの少しだけ、気持ちが分かる気がしました。
あくまで私の理想ですが、好きな人と遊園地に行くというのには、ロマンがあります。

「⋯⋯私の夢の一つです。好きな人と遊園地に行くのは」

「分かってくれるの? 嬉しいわ」

 誰にも話したことのない、私の夢の一つでした。
同じ気持ちが近くにあることを、とても嬉しく思いました。

「だから、私の姉の家族と一緒に娘たちも連れて行ってもらって、私は夫とお城の中で過ごしたの。夫は、そんな私の為に絵を描いてくれた。観覧車の絵よ。本当に嬉しかった」

 どんな絵だったのか、想像してみます。
どんな色使いなのか、想像してみます。

「本当は、一生来ないつもりだった。夫と一緒じゃなくちゃ悲しいから。でも、悲しすぎて、来てしまった⋯⋯夫が亡くなって、悲しくて」

「えっ」

「もう一年になるわ」

 悲しみの表情の理由が分かりました。

「遊園地に来ないのは、夫と一緒が良かったから。でも、夫が描いてくれた観覧車の絵だけを眺める日々にはもう、耐えられない」

「だからずっとここで?」

「ええ。それに、明日引っ越すの。施設に入ることになったわ。もう自由に出歩けなくなるから、本物の遊園地を目に焼き付けて、夫と一緒に乗る場面を想像しようと思って」

「そうだったんですか」

 乗らないという選択が、悲しく思えました。
でも、乗らないという選択が、愛の表現のようにも思えます。

「我慢できなくて今頃、遊園地デビューよ。あんなに小さな子でもデビューしてるのにね」

 観覧車への坂道を、小さな体で駆けて行く女の子がいました。

「そんな物語を誰かに聞いて欲しかった。本当にありがとう。聞いてくれて」

「いいえ、私は何も。素敵なお話でした。その⋯⋯悲しくもあるんですけど」

「素敵と思ってくれたなら、十分よ。それだけで。私には、叶えられなかった夢を想像し続けるという暇つぶしが残っているから。前田さん、あなたはない? もう二度と会わない私に、話してみたいこと」

 これ以上の物語が私の中には存在しません。
私は、物語を失い続ける人間なのです。
登場人物の名前を、忘れてしまう人間なのです。
人の名前が、覚えられないのです。
でも⋯⋯

「お名前を教えて貰ってもいいですか?」

「私の?」

「はい」

「それだけでいいの?」

「はい。忘れたくないんです」

「分かったわ。私の名前は⋯⋯」



 閉園後。

「前田さん、私見たよ。お婆さんと話してるの。どうだった?」

「何の話聞かされたの? 夫の悪口? 昔の自慢話?」

 誰が何を言おうと、どうでも良く思えました。
私に伝えられた物語を、私はいつか、私の王子様に出会えた時に初めて伝えようと思います。

「素敵な物語」

 それだけ答えると私は、名前を知らない人たちの集団から逃れました。

 あのお婆さんの名前⋯⋯
私に教えてくれた名前⋯⋯
それをどうしても、思い出せません。
忘れたくなかったのに、忘れてしまいました。
でも、名前は思い出せないけれど、あのお婆さんはお姫様でした。
永遠に王子様を愛する、お姫様⋯⋯
素敵な物語を私は、忘れたくありません。
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