この上ない恋人

あおなゆみ

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クマさんとウサギさん

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 地方の遊園地で働く私の元にやって来たのは、超有名なイケメン俳優だった。
クマの着ぐるみを着た私に、彼は言った。

「ここで働かせてくれませんか」

 着ぐるみのクマとしてここにいる私には、言葉で伝えるという選択肢がない。
だから、大きなジェスチャーで、私には分からないということを伝える。

「ダメですか」

 そう言われて次は、事務所のある方を指して、そこに行ってと懸命に伝えた。
少しして、私の必死のジェスチャーが伝わったのか、

「ああ、なるほど。じゃあ、向こうに行って聞いてみますね。ありがとうごさいます」

 と言い、その後も何度もお礼を言ってくれた。

 遠くなる彼の後ろ姿を眺めながら、やっぱり見間違いだったかなと思い直す。
似ている人なんて、簡単に見つからないであろうビジュアルだけど、可能性がゼロとも言い切れない。
私は、着ぐるみを着ている視界のせいの勘違いだと思い込もうとし、駆け寄ってきた子供にとびきりの動きで愛嬌を振りまいた。

 休憩中。
勘違いだと思い込もうとしたものの、外のベンチで涼みながら私は、彼の名前を検索した。
そういえば、最近はあまり見ていないなと思ったが、確かに最新の出演作でも二年もの間が空いていた。
まあ、映画の撮影から公開までは期間があったり、何かの稽古をしているとかで、作品に出ていないからと休んでいるとも言えないだろう。
 そんなことを考えていると、

「もしかして、クマさんですか?」

 と声を掛けられた。
そこには、どう考えても見間違いではない、超有名イケメン俳優がいた。

「は、はい⋯⋯」

 答えてから、私が着ぐるみのクマの正体だったことを明かして良かったのか、と不安になった。
でも、私の横にはクマさんの頭があるし、もう隠せないと気付く。
それよりも、彼に話しかけられている今が信じられなかった。

「僕、ウサギさんに任命されました。これから、よろしくお願いします」

 彼はそう言って、私に握手を求めてくる。

「ウサギさん?」

 聞き返すと、

「はい。バイトです」

 と、笑顔で答えてきた。

「よろしくお願いします」

 私は、彼が私に向けて伸ばした手を不憫に思い、すぐに握手に応じた。
彼が握手に応じる側なら分かるけど、私が応じる側になるとは。
なんとも不思議な世界だった。

「見るつもりはなかったんですけど⋯⋯僕のこと調べてました?」

 彼は私のスマホを指さすと、照れくさそうに微笑む。

「ごめんなさい。さっき話しかけられた時に、そうかなと思って。その、確認というか。心配しないで下さい。私、そういうネットで呟くみたいなのしたことないですから」

「いいんです。それは僕で間違いないです。そして明日からは、ウサギさんとして、学ばさせてもらいます。先輩」

 明らかに私に対して、その言葉は発せられた。
先輩⋯⋯
私は、映画のヒロインにでもなってしまったような、そんな錯覚の中に一瞬で落ちた。

「先輩、大丈夫ですか?」

 その声で現実とは思えない現実に戻される。

「あ、はい。でもここは冬の間、雪で閉園してるので、私だってまだ三シーズン目ですし。そんな大したものじゃないです」

「でも、子供たちの笑顔を見てたら、クマさんは本当に凄いなって感動しました。愛らしい動きといいますか」

 過大評価だと思いながらも、嬉しいに決まっている。

「ありがとうございます」

 そうして、超有名イケメン俳優が私の後輩として、ウサギさんになったのだ。


 私たちは常に行動を共にした。
セットで、相棒で、ペアだ。
彼の動きは最初はぎこちなかったものの、日数をこなすうちに軽やかなものに変わっていった。
ただ、ネットで見た出演作の中にあったアクション映画での経験が生きているのか、ウサギさんというよりも、その中身自体のキレの良さが強く伝わり過ぎてしまっていた。
ウサギさんよりも、戦隊モノの中身になる方が向いているような。

「もう少し、ウサギさんのイメージで動いた方が良いかもしれません」

 私が言うと、

「ウサギさんのイメージ? どんな感じでしょう?」

 と彼の顔は見えないものの、真剣さの伝わる声で聞いてきた。

「はい。なんというか、ウサギはピョンピョン跳ねるイメージが強いですけど、もう少しこう⋯⋯近づいて来てくれる子供たちに寄り添うイメージですかね? そして、もっと可愛らしく」

 本物の俳優によくアドバイスができたものだなと、着ぐるみの中で私は顔をしかめた。

「なるほど。アドバイスありがとうございます!」

 彼は素直に受け止め、懸命に実践してくれた。
可愛らしさを演じるためか、ウサギさんの中の方から、籠った鼻歌が聞こえてきた。
その鼻歌に合わせた小躍りが、彼の着ぐるみの中身としての優秀さを感じさせた。
 まさかあの超有名イケメン俳優が、ウサギさんの中身だとは思っていない子供と両親が、ウサギさんの動きを見て、

「可愛い~」

「面白い~」

 と言って、笑っていた。
そのリアクションでテンションが上がったのか、彼は可愛らしくレベルアップして踊り続けた。
私はもう、ウサギさんに魅せられてしまったクマさんとして、ただその隣にいた。
そして、ウサギさんの踊りに手拍子しているクマさんは、傍から見たらどうかは分からないけれど、とにかく幸せを感じていたのだった。


 ウサギさんが仕事に慣れていくと、私たちは単独でも働くことになってしまった。
私としては、元の仕事に戻っただけなのに、一人の日にはすごく寂しくなった。
それは、ウサギさんの正体が、超有名イケメン俳優だからという理由も少しはあったが、仕事中の私たちはあくまでも、相性抜群のクマさんとウサギさん。
それに実際、私たちはお互いをクマさん、ウサギさんと呼び合ってもいた。
私は、ウサギさんと仕事するのが楽しかったのだ。
暑苦しい着ぐるみを着るのが、前よりも苦ではなかった。
仲間がいないのは、寂しい。
 自分の本当の見た目なんか関係のない、クマさんとウサギさん。
私は、自分の気に入らない目も、低い鼻も気にせずに済んだ。
彼は彼で、多くの人に顔を知られていることを気にせずに、自由に振る舞うことが出来ているはずだ。



「クマさん」

 一緒に働いた日の帰り。
見た目がクマさんではなくなってしまってからの私を、ウサギさんではない超有名イケメン俳優の彼が呼んだ。

「クマさんは、次のシーズンもここで働くんですか?」

 ウサギさんを脱いだ彼を、私は直視できなかった。
私がまだクマさんを着ていたら、何の躊躇いもなく直視できていたと思うけれど。

「はい。私は目標もなく、なんとなく生きてるんで。急に夢とか目標が出来ない限りは、そして、この遊園地が潰れない限りはきっとここにいます」

「そうですか。僕も、目標とか夢なんてなかったんですよ。ただ、流れのままに来たというか⋯⋯その流れが、人目につきやすくて、目立つ、そういうのだっただけで。でも、ここで働いている今という選択だけは、僕の意思だったんです。実は、しばらくこっそり休んでたんですけど、もう一度ちゃんと芝居の仕事がしたいなって思ってます。まあ、ウサギさんも芝居の仕事ではあるんですけどね。ただ、前の場所に戻って、役者として。次は自分の意思で、そう思ってます」

 彼がそのうち、ここを去ることは、最初から分かっていたつもりだった。
彼はここに、留まるような人間ではない。
私は、ウサギさんに永遠を求めてはいけないのだと。

「じゃあウサギさんは、雪が降るまでの今シーズンいっぱいで終わりですか? それとも、もっと早く?」

「最後まではいられなくて。ちゃんと伝えてなくてすみません。冬は働けない、この期間限定の仕事を、さらに期間限定でさせてもらってるんです。あと、一ヶ月です」

「そうでしたか。すぐ元の生活に⋯⋯」

「はい。ウサギさんを経験できたお陰で、なんだか頑張れそうなんです。ここで働くの楽しかったし、あと“一ヶ月も”働けると思ったら嬉しいんです」

 爽やかな笑顔だった。
芸能界がどんなところか知らないけど、そういう所に戻したくなくなってしまう純粋な笑顔だった。
私は、あと“一ヶ月しか”ないという悲しみを隠して言った。

「じゃあ、残り一ヶ月。クマさんとウサギさんとして頑張りましょうね」

「はい。よろしくお願いします」

 残り一ヶ月は、ウサギさんの余命とでも言うのだろうか。
いつか、中身違いのウサギさんと働く日が来たとしても、私からすれば全く違うウサギさん。
ここに、ただ遊びに来た人には分からないであろう、ウサギさんの変化。
私だけが何も変わらないクマさん。
中身が変わらない、向上心のないクマさん。
そうなってしまうのだろうか。


 クマさんとウサギさんがセットで働く日。
この日は開園して一時間も経たないうちに雨が降ってきた。
天気予報は外れ。
突然の大雨に、外にいた私達は一旦退散した。
 控え室に行き、濡れてしまった着ぐるみを脱いで、それぞれがそれぞれの着ぐるみをタオルで拭いた。
並んで座り、一つだけあるドライヤーを交互に使い合う。
腕が怠くなる頃合いでパスして、同じようなペースでクマさんもウサギさんも少しずつ乾いていく。
私がドライヤーでクマさんを乾かしている間、彼がちゃんと届くようにいつもより大きな声で言った。

「きっと、どんなに好きな仕事でも、急な中止とかって嬉しくなるものなんでしょうね」

「そうですね」

 私も大きめの声で答える。

「でも、あと少しで止む予報になってます。当たるかは分からないですけど」

 スマホを見ながら彼は言った。
私は、ドライヤーを止める。

「もう、交代ですか?」

「はい」

 彼にドライヤーを渡すと、受け取った彼は何かを迷うようにしてから、ドライヤーを椅子に置いた。

「どうしました? 疲れました?」

 私が聞くと、

「いや、違います。せっかくだから、休める時間を延長しようと思いまして。だから、まだ乾かなくていいかな、なんて⋯⋯」

 なんとも人間らしいことをズルい笑顔で言った。
私の方ももちろん賛成ではあったけれど、着ぐるみではない状態で二人きりでいるのは正直照れた。
雨の音が聞こえ続けているのが、沈黙を埋めるようで良いような、むしろ気持ちをざわつかせるような、不思議な効果となっていた。

「じゃあ、延長しましょうか。クマさんとウサギさんには申し訳ないですけど」

 半端に濡れている着ぐるみを横目に、私達は中身として、そこでじっとしていた。

 いくらでも聞きたいことはあった。
彼も話したいことがあったのかもしれない。
私を信用しているからというよりも、今のこの現状でしか話せないこと。
芸能界に戻ったら、こんな一般人とは話す機会もないだろうから、話してみたいこと。
話したいことが一つもなかったら、二人きりのある意味気まずい時間を延長しようとはしなかったはずだから。
 でもお互いに何も言わずにいた。
雨の音が強くなったり、弱まって、止んでしまったかと悲しくなったり、そういう変化をただ感じながら。
同じ国にいても、全く違う世界を生きてきた二人の、束の間の同じ世界。
同じ音の中に閉じ込められた私達は、互いの存在を意識しながら、次第に明るくなる部屋の中で休憩時間を満喫した。
 嘘でも偽りでも、その場の空気のためでも。
語ろうと思えば何かを語れた時間を、敢えて語らずにいた二人は凄いと思う。
だから、話さなかったことが特別だった。
特別な思い出になった。

 雨が完全に止み、ようやく

「働きますか」

 と、先輩として私が言った。

「働きましょうか」
 
 彼は正しい笑顔で、そう答えた。


 それから一人で働く日も、二人一緒の日も、私は懸命に働いた。
もちろん、彼が辞めてしまう日をいつも意識しながら。
そして、沢山のことを考えた。
彼という存在が、そうさせたんだと思う。

 私は最初この仕事を、自分という姿が見えないからこそ手を抜けると思って始めた。
確かに気楽な面はある。
でも、それだけではない。
自分だと分かってもらえないからこそ、頑張れることもある。
自分じゃないからこそ、伝えられることがある。
自分以外のキャラクターとして、誰かを楽しませることが出来るのだ。
自分以外のキャラクターだけど、ほんの少しは自分が含まれてもいるのだ。
 「全然違います」とウサギさんに思われてしまいそうで、決して言えないけれど、俳優というのはもしかすると、そういう喜びを感じられる仕事なのではないかと感じた。
“自分”としては救えない誰かを救えるかもしれない、そんな仕事。
“自分”としては伝えられない気持ちを伝えられるかもしれない、そういう仕事。
 私はそんな風に、クマさんの中で何かを求め始めている⋯⋯


 そして私の想像通り、“一ヶ月も”というウサギさんの表現が間違っていたかのように、“一ヶ月しか”なかった期間は、驚くスピードで過ぎていった。
でも彼からすると、長い一ヶ月だった可能性もある。
戻る場所、つまり目的地が決まった彼にとっては、そこに行くまでの道は“途中”でしかないのだから。
いくら、過程が大事と謳っても、それはただの過程でしかない。
ちゃんとした目的地のない私と、目的地がある彼とでは、見えている世界も感じている時の流れも違うのだろう。
 
 彼の最後の出勤の日。
運が良かったのは、二人一緒に働ける日だったこと。
こういう類の運の良さを感じたのは、小学生の時、好きな男の子の後ろの席になれた時以来だと思った。
 
 クマさんとウサギさんはきっと、傍から見れば、これまで通りのクマさんとウサギさんだった。
中身の彼は、明るい未来を思い描きながら。
中身の私は、隣に彼のいない生活に戻ることを忌み嫌いながら。
 でも、ウサギさんが一人の少女に赤い風船を渡して、可愛らしいジェスチャーをした時。
そんな彼を見ていたら、今はウサギさんとして生きる最後の時間だけを楽しんでいるように思えた。
未来ではなく、ウサギさんという役として生きる今。
ウサギさんという芝居を、全うしていた。

 お昼休憩は入れ替わりで取ったから、彼の本当の顔をようやく見ることができたのは閉園してからだった。
ウサギさんを脱ぎ、彼の顔を見た瞬間。
この人は、何かスキャンダルでも起こしてくれない限り、ここには戻ってこないだろうと悟った。
私が何度も見たことのある、でも自分がこの表情になったことはないと確信できる、あの表情。
夢を抱き、夢を追う者だけが放つ輝きがそこにはあった。
期間限定のウサギさんだった彼が永遠のスーパースターになることは間違いないと、クマさんでもない、ただの私は見せつけられた。

「本当にお世話になりました。最高に楽しかったです」

 礼儀正しい彼は、綺麗にお辞儀をした。
私は最後の機会に伝える決意をする。
彼を見て感じた、そのままの気持ちを。

「私はここで、クマさんを続けます。そして、ウサギさんだったあなたを応援しますね」

 その言葉は、私の純粋な言葉だった。
クマさんを続ける宣言も、彼を応援する宣言も。
私が初めて誰かに伝えた、思いを込めた宣言だったかも知れない。
そして、少しの欲望でもあった。
せめて自分の居場所を知っていてほしいと願った、そういう欲望。

「僕もクマさんのあなたを応援し続けます」

 彼は、私のこの寂しさを知る由もない。
でも私だって、万が一彼が寂しがっていたとしても、その寂しさを知る由もない。
ジェスチャーがどんなに上手でも、言葉を丁寧に扱っても。
クマさんとウサギさんとして生き続けたとしても。
それぞれの道で、素顔で生き続けたとしても。
二人が一緒にいた時間が、どれほど素敵なものだったのかを理解できるのは私だけ。
そして、彼だけ。
それぞれの中身だけ。
私達は期間限定の、クマさんとウサギさん。
ただ、それだけだった。
そして私は、戻ってくることのない彼というウサギさんを、心のどこかで待ち続けてしまうのだろう。

 もしも⋯⋯
これは、着ぐるみを着ていようが、与えられた役があろうが伝えられないこと。
伝えたくても、伝えなかったこと。
自分の中だけで語られる台詞。
 もしも、ウサギさんだったあなたがもう一度、ここに来ることがあるのなら。
あなたがスーパースターだろうと、落ちぶれていようと、一人だろうと、恋人と一緒であろうと。
クマさんの私はあなたに赤い風船を渡して、とびっきり愛らしく、身振り手振りをする。
私が何を伝えようとしているのか、その解釈はあなたの自由。
でもただ一つ。
この一つだけは譲れない。
私は絶対に、あなたを笑顔にしてみせる。
クマさんとしてあなたを、笑わせてみせるから⋯⋯
 だから、そうやって私が勝手に夢を描くことだけは許してほしい。
あなたは超有名なイケメン俳優で、永遠のスーパースターなんだから。
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