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地下鉄で

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 混雑する地下鉄に乗り込んだ。
吊り革に掴まり、窓の外の景色を眺める。
 仕事の疲れでも、この混雑に対する苛立ちでもない。
とにかく複雑な、悲しい気持ちが僕を囲っていた。

 隣に立つカップルが、楽しそうに話している。
僕よりも若そうだ。

大声で話してる訳でもないし、別に誰にも迷惑をかけていない。
でももし僕が当事者なら、こんな風に人前で楽しそうにできるだろうか。

 それから二駅。
停車する地下鉄。 

「じゃあね。また明日ね」

「うん。気を付けて帰ってね」

さっきのカップルの彼女の方が、名残惜しそうに一人、地下鉄を降りた。
彼女は、彼氏のいる位置の車窓の前に来ると、周りの目も気にせずに、手を降る。
それに応えるように彼氏も手を降る。
彼女は、

「またね」

と本当に声を出しているのか、口パクなのかは分からないが、一生懸命に伝えていた。
 僕は見ていないフリをしながらも、視界に入る位置にいるそのカップルを、視界の端で見続けてしまう。
 理由もあった。
幸せそうな二人を見て、あることを思い出していたからだ。
同じような場面が過去にあったことを。
この何とも言えない気持ちを、間違いなく僕の嫉妬として感じた時のことを。
忘れていた記憶ではない。
でも、どちらかと言えば、忘れたフリして、隠していたい記憶ではあった。

 
 確か、大学一年の冬だったと思う。
今ほど混んでいない地下鉄車内で、その時も僕は吊り革に掴まり立っていた。
 途中の駅で乗車してきた誰かの、何気ない笑い声が聞こえ、その方向を見るより前に、僕の中に予感があった。
君と陽介さんではないかと。
周りの人にも、そして声の主にもバレないように、こっそりと声の方を見る。
そこにはやはり、君と陽介さんがいた。
二人は僕から少しだけ離れたドアの近くに立っていた。
静かな地下鉄内では、会話も聞こえてしまうほどの距離。
僕は一人、気まずさを感じる。
二人には、僕に気付いて欲しくないと思った。
君が僕に気付いたところで、陽介さんが僕に気付いたところで、困ることはないはずだ。
それなのに気付いて欲しくないのは、間違いなく、僕の嫉妬のせいだ。
他の乗客の視線のせいもある。
僕は僕と君の存在や、二人の関係を出来るだけ、誰にも知られたくなかった。
たとえ他人でも、見られるのが嫌だった。

 他の車両に移るなり、どうせ時間もあったから地下鉄を途中で降りることもできた。
でも僕はそこに留まり続け、嫉妬を感じ続けた。

 僕よりも、陽介さんよりも先に、君の家の最寄り駅に着く。
僕と陽介さんは次の次の駅だ。
僕はてっきり、陽介さんも一緒に降りて、君を送っていくものだと思っていた。
そうしてくれた方が気が楽だった。
だけど、君は陽介さんに

「またね」

と言った。
陽介さんは優しい声で

「気を付けてね。今日は送っていけなくてごめん」

と謝る。

「いいの。帰ったら連絡する」

君は笑顔で、地下鉄から降りた。
僕は、何気ない視線で君と陽介さんを見るようにしていたものの、今思い返すと、平静を装えていたのか分からない。
怒り狂った顔や嫉妬にまみれた顔はしていなかった自信はある。
でも、叶わない恋を前に、切ない表情にはなってしまっていたかもしれない。

 君は閉まったドアの窓部分から、一つの照れもなく、陽介さんに向かって手を振った。
陽介さんも手を振り返す。
そんな二人を見た時、気付くべきだった。
気付けたはずだった。
僕にはそんな風にはなれないと。
あの頃の僕はまだ、自分にもそう変われる気がしていたのだ。
でも、僕は前にマスターから言われた通り、自分に酔っていただけだった。
君に切なく恋をし続けることに。
君への叶わない想いを抱える心に。

 君は僕じゃダメなんだ。
人目も気にしないほどに、恋をして変わった君、眩しいほどの恋をしている君に、僕の想いが届くはずがない。
分かりきっているのを無視しして、期待だけを描くようにして、僕は君に対する切ない恋を演じていた。
知らないうちに大きくなった嫉妬の塊を隠しながら。
何年も。
君に会えなくなってからも、自分に酔っていただけなのかもしれない。

 地下鉄が発車し、窓から見える景色の中から、君が一瞬で消えた。
陽介さんはその時でも、まだ幸せの中にいるようだった。
君とほんの少し前まで一緒にいた余韻を楽しんでいるように。
僕は、今頃君も、陽介さんと同じような表情で、幸せの中にいるのだろうと、胸の痛みを伴いながらも想像した。
そして、その時になってようやく、陽介さんから離れ、車両を移動したのを覚えている。



「舞人と付き合ってたらどうなってたかな」

君の声で再生させるその言葉は、一晩中僕を悩ませた。
嫉妬を思い出したせいもある。

 でも、眠りにつく直前には、いや、もしかするとマスターから君のその発言を聞いた時から本当は、許容しか僕の心にはなかったような気もする。
僕にただ縋ろうとした君を理解しながらも、すぐに許すのはさすがにみっともないと思っての悲しいフリもあったかもしれない。

 僕は、心だけは自由であろうとした。
自由に舞おうと、自分を崩さないように努力した。

 そして、結論づける。
君は間違いなく、陽介さんが好きだった。
僕を好きになった瞬間があったとしても、それは瞬間でしかない。
君は僕を好きじゃないのに、僕に縋ろうとした。
僕はそれを許す。
ただし僕は今、君と僕の関係をわきまえている。
僕らの関係にはしっかりとした名前がある。
その名前を決めたのは、僕ではない。
君だ。
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