うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)

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 彼女は晩年になってこの時のことをよく思い出した。
いい思い出とは言い難い、微妙びみょうな出来事だし、そこにいたほとんどの人はもう誰もいなくなってしまったと言うのに。

 



「だから、それでは寒いと申しましたのに。」

セシリアが自分の腕を抱きしめるように抱え込んでいると、エウラリアが小さな声でつぶやいた。

「このドレスは髪が綺麗に見えるのよ、寒いのは仕方ないわ。」

エウラリアはまだ何か言いたそうだったが、あきらめて口をつぐんだ。

夏には少し早く、夕暮れを過ぎるとかなり冷え込む。
彼女の水色のドレスは首元が少し大きめに開いていて、夜風が肌に冷たい。

セシリアはエウラリアのすすめに従い、ウールの肩掛かたかけけだけでも羽織ってくれば良かったかと後悔したが、せっかくのドレスの光沢を損なう訳にはいかない、これでいい、と思いなおして並木道の暗闇をにらむように見た。



はたが見えたぞ!伯爵様だ!」

誰かが叫ぶのを契機けいきに、ざわざわとしていた空気はしんと静まり、皆決められたように整列した。


 セシリアは結った髪の乱れを気にするようにでつけながらエウラリアを見た。

「ええ、セシリア様お綺麗ですよ、伯爵様もきっと驚かれます。」

言いたいことを察して、エウラリアが微笑んで言った。

「ええ、三年ぶりに会う奥方がこのように綺麗では、伯爵様もお困りになってしまいますでしょう。」

今まで、黙っていたオラフが剣から手を離さずに後ろから声をかけた。

「そうだといいけど、本当に…」

幼い頃から一緒にいる二人の評価は、あまり正確とは思えない。
セシリアは少し不安になった。


 並木道に目をらすと、暗闇にうっすらとハヤブサの軍旗ぐんきがはためくのが見えた。

一同から、小さく声が上がる。

セシリアの鼓動がにわかに早くなった。

松明たいまつに照らされたそれぞれの顔は皆一様に笑顔で、日付をまたいだ時刻とは思えぬほど覇気はきに満ちていた。

セシリアがもう一度大きく息をいた時、松明に照らされた女の顔が目に入った。

(どなたかしら?)

出迎えの最前列に近い位置にいる。
彼女以外は皆見知ったものばかりだ。
いつここへ来たのか、この場所で誰を出迎えるのか?

後ろのオラフも隣にいるエウラリアも同じように女に気がつき、警戒するように意識を集中した。

「ねえ──」

「嫌な感じがします。」

セシリアが、誰なのか尋ねようとする声に被せて、オラフが低くささやくように言った。

「私も…」セシリアはエウラリアとオラフにだけ聞こえるように小声で言った。





 ひづめの音が近くなり、並木道の方を見るとすぐ側の暗闇から、闇に溶けそうな漆黒の馬に乗った男が見えた。

エルムンド領の領主、セシリアの夫、三年前婚姻式から一月ひとつき程で戦地へ行き、三年ぶりに帰還した、ニールス・エルムンド。

ニールスはどんどん近づき、するりと馬から飛び降りた。

「セシリア!セシリアは?」

薄茶色の髪が汚れて、白っぽく見えた。



「ニールス様、おかえりなさいませ!」

かろうじて、飛びつくのはこらえた。
三年前とは違う、もう十歳の子供ではないのだ。エウラリアに言われた通りには出来なかったけれど、待ちに待った人の帰還に際しては、上出来だったはずだ。


「セシリア…なのか?」

今しがたまでの笑顔はどこかに消え、険しい顔で目の前のセシリアを見た。

「ニールス様…おかえりなさいませ…」

はしゃぎすぎたのがいけなかったのかと思い、セシリアはもう一度同じ台詞せりふを繰り返し、今度は静かに頭を下げた。


「──あ、ああ、今帰った。──もう、休め──」

険しい顔のまま、ニールスは背を向けてセシリアとは逆の方へ歩き出した。


「ニールス、会いたかったわ!」

けたたましい甲高い声が、エルムンド中にこだましそうだった。

ニールスの声は聞き取れないが、女と何か話している。

女がニールスの腕に触れた時、汚れたリボンがちぎれて落ちた。
元は水色で、リボンの端にはつたない刺繍で『N』と刺してあったはずだった。

女の靴がリボンを踏むのが見えた。

「セシリア様、参りましょう。」

エウラリアが言うが早いか、オラフが大きな体でニールスと女をさえぎるようにした。

「練習通り、きちんとご挨拶できなかったわ…」

セシリアの声が震える。

「ご立派でしたとも、ええ、立派でした!」

エウラリアがはっきりと、言い切った。

セシリアはそれには答えず、不意に立ち止まると、震える指先を擦り合わせるようにしながら二階へ続く廊下の奥を見るともなく見つめた。

「お疲れだったのね…」

誰に言うでもなく呟いた声は掠れて、二人にやっと聞こえるほど小さなものだった。


彼女が振り返ると、エントランスの人混みにニールスの背中が消えるのが見え、セシリアは振り払うように勢いをつけて部屋へ歩き出した。

その瞳は、水をたたえた湖のように揺れ、蝋燭ろうそくの灯りを反射した。









 暗い回廊を体の大きな護衛騎士が去ってゆくのが見えた。
セシリアが物心つく前からの専属護衛だ。さえぎられて姿は見えないが、護衛の前に小さな背中があるはずだ。
ニールスは美しく豊かな金の巻き毛を揺らし暗い廊下を二階へ進む姿を想像する。
暗闇でも、あの澄んだ水色の瞳は輝いているだろう。

(三年でこれほどに変わるものか…)

 戦場へ向かった頃の、十歳の少女ではない事は何となく理解し、予想もしていた。
しかし、セシリアの姿はその想像も理解も遥かに超えていた。

あの澄んだ瞳を真っ直ぐ見ることができなかった。
その理由がニールスには分からない。

「ねえ、ニールス!」

甲高い声で呼びながら、アンネが腕をゆすった。

「ああ、なんだ?」

きつい香水が、戦場帰りの鼻を突き刺す。

そっと、アンネの手を振り解いて距離を取ると、足元に目がいった。

「どいてくれ!」

思わず、アンネを突き飛ばした。

「痛い! ニールス、何するのよ!」

アンネはわめき続け、彼女の兄のカールは慌ててアンネに駆け寄り、ニールスに何か言ったが、何も聞こえない。

ニールスはそっと千切れたリボンを拾い上げて、もう読み取れなくなった刺繍のあとを指でなぞった。

三年前、出征の時にセシリアに結んでもらったリボンは、どんなに激しい戦闘にも耐え、決して千切れなかったというのに。


ニールスはリボンを握り締め立ち上がると兵士たちに声をかけた。

「皆、ご苦労だった!今日はゆっくり休め!後日、凱旋祝いをする、ぜひ皆集まってくれ!」

ニールスの声に男達の野太い歓声が上がった。


「カールお前も、よく休んでくれ。」

アンネをなだめているカールに声をかけてニールスは素早く立ち去った。

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