うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)

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 夜明けの冷え込みが嘘のように、暖かな午前だった。

セシリアは軽く朝食を済ませて、厩舎きゅうしゃに向かっていた。


「三日と空けずうまやに通う必要などありませんでしょう?」

エウラリアは動物は苦手なようで、セシリアが厩舎へ行くのを嫌がり文句を言う。

「エウラリア、部屋で待っててくれればいいのに───エウラリアだけじゃなくて、こんなに大勢で動かなくてもいいのじゃないかしら?」

セシリアのすぐ後ろにはエウラリアとマルタ、さらにその後ろにオラフとビョルンが続いている。

「屋敷の敷地内なのに、大袈裟じゃない?」

「敷地内といっても、厩舎と倉庫それと訓練所を挟んで軍の本部がありますからね。」

ビョルンはセシリアの言い分にあり得ないと、首を横に振った。

工房の火災の後から、四人は片時も離れずに付いてまわった。

セシリアは大勢で出歩くことが好きではないが、兵士達はもちろん、領民の間にもセシリアへの不信が広がる現状に、わがままを通すことを諦めた。

とはいえ、工房も劇場の建設もセシリアの手を離れた今、出歩く機会もめっきり減って、四人を連れて歩くことの不自由は考えていたほどではなかった。





『もうじき、赤ん坊を産むんですよ。』

馬丁が言った言葉が、風に乗って聞こえた気がした。

セシリアは立ち止まって、自分が進んできた道を振り返った。

(こんなに遠かったかしら?)

とついで間もない頃、夜遅くにエウラリアとオラフの目を盗んで寝台から抜け出し、馬の出産を見るために今、通っているのと同じ道のりを、暗闇の中そろりそろりと歩いた。

あの晩は、夕方の雨で厩舎までの道のりはぬかるんでいて、跳ねた泥がセシリアの裸足はだしの足を膝まで汚した。


『生まれたわ!生まれましたよ伯爵様!』

母馬ははうまわらの上に仔馬を産み落とすと、セシリアは何度もそう叫んだ。

その度に、太い腕にセシリアを抱えたままのニールスは、優しく微笑んでうなずいた。


『この馬は君の馬だ、名前をつけてやるといい。』


数日経った頃ニールスは、仔馬が無事に育ちそうなことを確認すると、セシリアにそう言った。





「エルサ…」

小さく名前をつぶやいて、紙に包んだ茶色い小さな砂糖のかたまりを確かめるようににぎった。


「あの馬、セシリア様が乗るようになる前に、太りすぎで動けなくなるのではないですか?」

「エウラリア、あまり意地悪を言うと蹴飛ばされるわよ。」




 大きなならの木を境に斜面になっていて、そこを下れば厩舎がある。

馬のいななきが聞こえて、セシリアは思わず笑顔になった。

これまでも暇を見つけては厩舎へ行き、エルサに砂糖をあげるのがセシリアの密かな楽しみだった。

いつかニールスが戦争から戻ったら、約束した通りエルサに乗って二人で遠乗りに行くのだと、セシリアは厩舎に来るたびに楽しみにしていた。

(そんな約束、とうにお忘れでしょうけど…)

セシリアは頭の中から記憶を追い出すように、頭を左右に振った。


また馬のいななきが聞こえて、それと一緒に女の甲高い笑い声が響いてきた。

「セシリア様。」

吸い込まれるように、厩舎へと足を進めようとするセシリアをオラフが呼び止めた。

でもセシリアの足は止まらず、まっすぐ楢の木の下まで来ると、馬場を見下ろした。


馬場には、セシリアの予想した通りの人がいた。

たてがみと尻のあたりに灰色の毛を残した芦毛あしげの馬のそばに、ニールスとアンネ、カールの姿が見える。
 
手綱たづなを持つ幼年ようねん馬丁ばていがアンネに何か言っているが、カールがそれをさえぎるように馬丁から手綱を奪い取った。

芦毛の馬──エルサ、は頭を振って前足をく。

少し離れていたニールスが何か言いかけた時、アンネがカールの手を借りまたがろうとする。
エルサは耳をしぼるように下へ向け、尻尾を立てた。

セシリアも後ろにいるビョルンとオラフも思わず息をのんだ。

ニールスとカールがアンネを止めようと動いたが、それより早くエルサはアンネが背に乗ろうとしたところを弾くように落とした。

尻から落下したアンネは、赤いドレスの裾を頭の上までまくりあげ、開いた足をむき出しにして「痛い!」とドレスの下から叫んでいる。



セシリアは慌てて馬場に背を向け、急ぎ足でもと来た方へ歩いた。
後ろでビョルンが吹き出したのが聞こえた。

「ダメですよ、笑っちゃ…悪いわ…ふふ、ふふふ…」

「マルタ、お前も笑ってるぞ。」

ビョルンとマルタは必死で笑いを堪えながら、セシリアの後ろから付いてくる。

「無様でしたわね。」

エウラリアの一言で、皆が声を上げて笑った。


「エルサにもっと大きな砂糖を褒美にやらなきゃいけませんね、セシリア様。」

ビョルンは心底愉快そうに笑いながら、言った。

「そうね、エルサは災難だったわね───」

気もそぞろで、相槌を打った。

セシリアの頭の中に、思い出したくない記憶が蘇る。








『お前も馬に乗ってみたいか?』

王宮にいた頃、王子が馬に乗るのを見ていた。

第三王子はセシリアと同じ歳で、馬に乗り始めたばかりだった。


四歳年上のセシリアの兄と第二王子はもう立派に馬を乗りこなし、障害物もうまく飛び越えていた。

『乗りたいです、乗ってみたい…』

セシリアはたまらずそう答えた。

柵に手をかけ馬上の愛息子を見つめる父親は、セシリアを見ることはしない。

『もう少し背が伸びたら、乗せてやる。』

そう言った時の父親の顔は覚えていない。


セシリアの記憶では父親が話しかけてきたのはそれが初めてで、どうするのが正しいのか分からず俯いていたから。
ただセシリアはその時の高揚感を、今でもはっきりと覚えていた。


第三王子は乗馬が好きで、セシリアは度々付き合わされ、その度に柵の外から、王子が馬上で手を振るのに応えながら父を待っていた。

その後、父親がセシリアに必要以上に話しかけることはなく、もちろん約束が果たされることはなかった。




『戻ったら、乗馬を教えよう。うまく乗れるようになったら二人で遠乗りに行こう。』

ニールスの言葉が、父親の言葉と重なった。





『セシ、僕が馬に乗せてあげる。』

淡い金の髪の少年はそう言った。

『お父様が乗せてくださるって、私、待ってるわ。』

セシリアはいつもそう答えた。




エルサが一歳になった頃、ビョルンがセシリアに言った。

『俺が教えますよ、乗馬ぐらい。』

『ニールス様が教えてくださるって、約束したわ。』

セシリアはそう言い続けた。







 立ち止まって振り返ると、ビョルンはまだおかしそうにマルタと笑い合っている。

「ビョルン、春になったら馬の乗り方を教えてくれる?」

長身のビョルンとオラフの後ろに大きな楢の木が風で揺れるのが見えた。

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