32 / 74
32
ニールスはひときわ小柄な芦毛の馬が馬丁に引かれて、厩舎から出てくるのを眺めていた。
このところニールスはあまりよく眠れていない。
仕事に追われ、体は疲れていても妙に頭が冴え、目を閉じても眠りに落ちるのにずいぶんな時間を要するようになった。
やっと眠ったと思えば戦場の夢を見て飛び起き、強い酒を煽ってもニールスを安眠へと誘ってはくれない。
今朝も嫌な夢を見て飛び起き、早朝から執務室で机に向かっていた。
ぼんやりした頭では仕事ははかどらず、余計に時間の融通が利かなくなってきた。
少し体を動かそうと厩舎に来たが、なんとなくその場に立ってまだ幼い馬丁が次々と馬の世話をこなすのを眺めた。
芦毛の馬を引いていた馬丁が、何か言いたげにニールスを見たので近付くと、赤いドレスのアンネを連れたカールが親しげな笑みを浮かべてやって来た。
「ニールス、おはよう!」
アンネの声にニールスが仏頂面で振り返ると、カールが気まずそうに頭をかいた。
「着替えを届けてくれたんです。すぐに返しますので。」
アンネはあからさまに不満そうな顔をした。
(馬のそばに、赤い服で近付く気か?)
これ以上近付くなと言う前に、アンネが芦毛の馬に不躾に近付いた。
馬が前脚を掻き頭を振って、不満を表した。
カールはそれを、馬丁の扱いが悪いせいだと解釈したのか、手綱を無理やり取り上げた。
「私、馬に乗ったことないの。ねえ、乗ってもいい?」
「こいつは───」
「生意気な、黙ってろ。」
幼年の馬丁が何か言おうとするのを、カールが子供を躾けるように厳しくたしなめた。
「その形では、乗れんだろう?」
ニールスがアンネの赤いドレスを指差すと、アンネは頬を膨らませて拗ねたそぶりを見せた。
「ほんの少し乗せるだけです、伯爵様。」
カールは手を貸してアンネを馬に乗せた。
赤いドレスの向こうに馬が尻尾を立てたのが見え、ニールスは止めようと腕を伸ばしたが、次の瞬間には後ろ脚を高く上げた馬の尻に弾かれアンネは宙を舞い、地べたにあられもない姿をさらしていた。
ひっくり返したカエルのような姿で、アンネは「痛い、痛い!」と喚いていたが、ニールスは手を貸して起こすこともしなかった。
見たところ、アンネには大した怪我はない。
利口な馬だとニールスは感心しながら、カールがさっさと手を離した手綱をしっかりと握った。
「カール、早く連れて帰ってやれ。」
そう言った時、斜面の上から吹き出すような声が聞こえた。
見上げると、楢の木のそばに去ってゆく男の背中が見えた。
長身のその背中は、セシリアの護衛のものだとすぐに分かった。
(セシリアもいたのか?)
ニールスは楢の木をもう一度見た。
「大丈夫だったか、エルサ。かわいそうに、大丈夫だ、もう大丈夫だぞ。」
カールに抱えられて帰っていくアンネを睨みながら、馬丁が馬の首元を撫でて落ち着かせながらつぶやく。
「エルサ───この馬はエルサか?」
馬丁はニールスにうなずいた。
「芦毛だったのか…」
『君の馬だ、名前をつけてやるといい。』
そう言ったニールスにセシリアはほんの少しの沈黙の後、まだ幼子の高い声で、『エルサ』と言って微笑んだ。
『“月の王妃“のか?』
『はい、月の王妃はとても強いですから。』
誰もが知る童話の王妃の名をもらった仔馬は、母馬と同じ栗色をしていた。
『戻ったら、乗り方を教えよう。うまく乗れるようになったら二人で遠乗りに行こう。』
自分の言葉がよみがえる。
「セシリアは、この馬──エルサに会いに来るのか?」
「よくおいでなさいます。近ごろは三日と空けずに。」
馬丁はまだ髭も生えぬ、ふっくらとした横顔を背けた。
「セシリアは馬に乗れるのか?」
つぶやくように聞いたニールスに馬丁の少年は、キッと顔を向けて口を開いたが、諦めたように大きく息をついた。
「いいえ、セシリア様はまだ馬にはお乗りになれません。」
口調は使用人のそれだったが、その瞳ははっきりとニールスを責めていた。
「そうか─────」
邪魔をした、そう言ってニールスはエルサの手綱を馬丁に渡し、屋敷に戻った。
イニゴは目の前の女に辟易して書類を机の上に置いた。
「とにかくこれで私の仕事は終わりましたので。」
出来るだけ事務的に、そう言って工房を出ようとしたところへ、怪しい髭の男が入り口を塞ぐようにして手を振っていた。
「ロレンツォさん、まだこちらにいらしたんですか?」
イニゴはまだ何か言いたそうにしていたそばかすの事務員の隣をすり抜けるように通り過ぎた。
「ええ、王都に戻る前に工房に必要なものを確認しておきたくてね。」
ロレンツォの頭に巻いた布がいつもより派手で、イニゴは目が痛くなった。
燃えてしまった工房の代わりに、倉庫として使っていた建物を仮の工房とし、領民達から古い織り機を貸し出してもらって、小規模ながら工房は活動を再開していた。
責任者がニールスになったことで、工員達はひとまず元通りの生活を送れるようになった。
「ロレンツォさんからもなんとか言ってください。イニゴさんが工房の仕事から抜けるって言うんです!」
そばかすの事務員フリータはイニゴの後ろからロレンツォに助けを求めた。
「ちょうどよかった、私も今回のご注文を最後にこちらとの取引を終わりにしようと思ってます。」
ロレンツォは笑顔を崩さずに、フリータに言った。
「どうしてですか?」
フリータは夢にも思わなかったという風に、口を大きく開けて唖然としている。
「当然でしょう?セシリア様とのお取引だったんですから。それに、エルムンドの人達は異教徒がお嫌いのようなのでね。」
フリータは気まずそうにロレンツォから目を逸らした。
「そもそも私は、セシリア様の秘書官ですから、今後いっさい工房の仕事は致しません。セシリア様からは手伝ってやってくれと頼まれましたが、ごめん被ります。」
イニゴはフリータに振り返ると、にべもなく言い捨て、ロレンツォに挨拶をするとさっさと仮の工房を出て行った。
「エルムンドの人間は感謝を知らないようですね。」
イニゴの後ろ姿を見ていたフリータに、ロレンツォはにっこりと笑って言った。
「あんた達、少し自惚れすぎなんじゃないか?──確かに、エルムンド織りの絨毯はいい品物だ。」
フリータは嬉しそうにロレンツォを見た。
「でも、セシリア様がいたから、たった二年でここまでになったんだ。」
そばかすの事務員が不思議そうに自分を見上げる様子に、ロレンツォはため息をついた。
「セシリア様は王妃様の姪御様だ、だから王妃様が広告塔になって王都の貴族達にエルムンド織りの絨毯を広めてくださっていた──織り糸の絹糸もセシリア様の帝国との伝手があったからあれだけのものが格安で手に入っていた。」
ロレンツォは大きな体をかがめて、フリータの耳元に口を寄せた。
「火災の損失分までセシリア様に費用を出していただいたんだ、感謝して、せいぜい慎ましくやっていくんだな。」
慇懃に頭を下げてロレンツォは去って行った。
フリータは窓もない埃だらけの仮の工房を見ながら、しばらくその場に突っ立ったままでいた。
あなたにおすすめの小説
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
始まりはよくある婚約破棄のように
喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」
学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。
ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。
第一章「婚約者編」
第二章「お見合い編(過去)」
第三章「結婚編」
第四章「出産・育児編」
第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始
【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」
そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。
彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・
産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。
----
初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。
終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。
お読みいただきありがとうございます。
私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ
みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。
婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。
これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。
愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。
毎日20時30分に投稿
【完結】あなたに嫌われている
なか
恋愛
子爵令嬢だった私に反対を押し切って
結婚しようと言ってくれた日も
一緒に過ごした日も私は忘れない
辛かった日々も………きっと………
あなたと過ごした2年間の四季をめぐりながら
エド、会いに行くね
待っていて
【完結】あなたは、知らなくていいのです
楽歩
恋愛
無知は不幸なのか、全てを知っていたら幸せなのか
セレナ・ホフマン伯爵令嬢は3人いた王太子の婚約者候補の一人だった。しかし王太子が選んだのは、ミレーナ・アヴリル伯爵令嬢。婚約者候補ではなくなったセレナは、王太子の従弟である公爵令息の婚約者になる。誰にも関心を持たないこの令息はある日階段から落ち…
え?転生者?私を非難している者たちに『ざまぁ』をする?この目がキラキラの人はいったい…
でも、婚約者様。ふふ、少し『ざまぁ』とやらが、甘いのではなくて?きっと私の方が上手ですわ。
知らないからー幸せか、不幸かーそれは、セレナ・ホフマン伯爵令嬢のみぞ知る
※誤字脱字、勉強不足、名前間違いなどなど、どうか温かい目でm(_ _"m)
心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。
私の婚約者は誰?
しゃーりん
恋愛
伯爵令嬢ライラは、2歳年上の伯爵令息ケントと婚約していた。
ところが、ケントが失踪(駆け落ち)してしまう。
その情報を聞き、ライラは意識を失ってしまった。
翌日ライラが目覚めるとケントのことはすっかり忘れており、自分の婚約者がケントの父、伯爵だと思っていた。
婚約者との結婚に向けて突き進むライラと、勘違いを正したい両親&伯爵のお話です。