うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)

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 ニールスはひときわ小柄な芦毛の馬が馬丁に引かれて、厩舎から出てくるのを眺めていた。

このところニールスはあまりよく眠れていない。
仕事に追われ、体は疲れていてもみょうに頭がえ、目を閉じても眠りに落ちるのにずいぶんな時間をようするようになった。

やっと眠ったと思えば戦場の夢を見て飛び起き、強い酒をあおってもニールスを安眠へといざなってはくれない。

今朝も嫌な夢を見て飛び起き、早朝から執務室で机に向かっていた。

ぼんやりした頭では仕事ははかどらず、余計に時間の融通が利かなくなってきた。

少し体を動かそうと厩舎に来たが、なんとなくその場に立ってまだ幼い馬丁が次々と馬の世話をこなすのを眺めた。


芦毛の馬を引いていた馬丁が、何か言いたげにニールスを見たので近付くと、赤いドレスのアンネを連れたカールが親しげな笑みを浮かべてやって来た。

「ニールス、おはよう!」

アンネの声にニールスが仏頂面ぶっちょうづらで振り返ると、カールが気まずそうに頭をかいた。

「着替えを届けてくれたんです。すぐに返しますので。」

アンネはあからさまに不満そうな顔をした。

(馬のそばに、赤い服で近付く気か?)

これ以上近付くなと言う前に、アンネが芦毛の馬に不躾に近付いた。

馬が前脚まえあしき頭を振って、不満を表した。

カールはそれを、馬丁の扱いが悪いせいだと解釈したのか、手綱を無理やり取り上げた。

「私、馬に乗ったことないの。ねえ、乗ってもいい?」

「こいつは───」

「生意気な、黙ってろ。」

幼年の馬丁が何か言おうとするのを、カールが子供をしつけるように厳しくたしなめた。

「そのなりでは、乗れんだろう?」

ニールスがアンネの赤いドレスを指差すと、アンネは頬をふくらませてねたそぶりを見せた。

「ほんの少し乗せるだけです、伯爵様。」

カールは手を貸してアンネを馬に乗せた。

赤いドレスの向こうに馬が尻尾を立てたのが見え、ニールスは止めようと腕を伸ばしたが、次の瞬間には後ろ脚を高く上げた馬の尻に弾かれアンネは宙を舞い、地べたにあられもない姿をさらしていた。

ひっくり返したカエルのような姿で、アンネは「痛い、痛い!」とわめいていたが、ニールスは手を貸して起こすこともしなかった。


見たところ、アンネには大した怪我はない。
利口な馬だとニールスは感心しながら、カールがさっさと手を離した手綱をしっかりと握った。

「カール、早く連れて帰ってやれ。」

そう言った時、斜面の上から吹き出すような声が聞こえた。

見上げると、楢の木のそばに去ってゆく男の背中が見えた。

長身のその背中は、セシリアの護衛のものだとすぐに分かった。

(セシリアもいたのか?)

ニールスは楢の木をもう一度見た。


「大丈夫だったか、エルサ。かわいそうに、大丈夫だ、もう大丈夫だぞ。」

カールに抱えられて帰っていくアンネを睨みながら、馬丁が馬の首元を撫でて落ち着かせながらつぶやく。

「エルサ───この馬はエルサか?」

馬丁はニールスにうなずいた。

「芦毛だったのか…」





『君の馬だ、名前をつけてやるといい。』

そう言ったニールスにセシリアはほんの少しの沈黙の後、まだ幼子の高い声で、『エルサ』と言って微笑んだ。

『“月の王妃“のか?』

『はい、月の王妃はとても強いですから。』

誰もが知る童話の王妃の名をもらった仔馬は、母馬と同じ栗色をしていた。


『戻ったら、乗り方を教えよう。うまく乗れるようになったら二人で遠乗りに行こう。』

自分の言葉がよみがえる。



「セシリアは、この馬──エルサに会いに来るのか?」

「よくおいでなさいます。近ごろは三日と空けずに。」

馬丁はまだ髭も生えぬ、ふっくらとした横顔を背けた。

「セシリアは馬に乗れるのか?」

つぶやくように聞いたニールスに馬丁の少年は、キッと顔を向けて口を開いたが、諦めたように大きく息をついた。

「いいえ、セシリア様はまだ馬にはお乗りになれません。」

口調は使用人のそれだったが、その瞳ははっきりとニールスを責めていた。

「そうか─────」

邪魔をした、そう言ってニールスはエルサの手綱を馬丁に渡し、屋敷に戻った。












 イニゴは目の前の女に辟易へきえきして書類を机の上に置いた。

「とにかくこれで私の仕事は終わりましたので。」

出来るだけ事務的に、そう言って工房を出ようとしたところへ、あやしいひげの男が入り口を塞ぐようにして手を振っていた。

「ロレンツォさん、まだこちらにいらしたんですか?」

イニゴはまだ何か言いたそうにしていたそばかすの事務員の隣をすり抜けるように通り過ぎた。

「ええ、王都に戻る前に工房に必要なものを確認しておきたくてね。」

ロレンツォの頭に巻いた布がいつもより派手で、イニゴは目が痛くなった。


燃えてしまった工房の代わりに、倉庫として使っていた建物を仮の工房とし、領民達から古い織り機を貸し出してもらって、小規模ながら工房は活動を再開していた。

責任者がニールスになったことで、工員達はひとまず元通りの生活を送れるようになった。


「ロレンツォさんからもなんとか言ってください。イニゴさんが工房の仕事から抜けるって言うんです!」

そばかすの事務員フリータはイニゴの後ろからロレンツォに助けを求めた。

「ちょうどよかった、私も今回のご注文を最後にこちらとの取引を終わりにしようと思ってます。」

ロレンツォは笑顔を崩さずに、フリータに言った。

「どうしてですか?」

フリータは夢にも思わなかったという風に、口を大きく開けて唖然あぜんとしている。

「当然でしょう?セシリア様とのお取引だったんですから。それに、エルムンドの人達は異教徒がお嫌いのようなのでね。」

フリータは気まずそうにロレンツォから目をらした。

「そもそも私は、セシリア様の秘書官ですから、今後いっさい工房の仕事は致しません。セシリア様からは手伝ってやってくれと頼まれましたが、ごめんこうむります。」

イニゴはフリータに振り返ると、にべもなく言い捨て、ロレンツォに挨拶をするとさっさと仮の工房を出て行った。


「エルムンドの人間は感謝を知らないようですね。」

イニゴの後ろ姿を見ていたフリータに、ロレンツォはにっこりと笑って言った。

「あんた達、少し自惚うぬぼれすぎなんじゃないか?──確かに、エルムンド織りの絨毯じゅうたんはいい品物だ。」

フリータは嬉しそうにロレンツォを見た。

「でも、セシリア様がいたから、たった二年でここまでになったんだ。」

そばかすの事務員が不思議そうに自分を見上げる様子に、ロレンツォはため息をついた。

「セシリア様は王妃様の姪御めいご様だ、だから王妃様が広告塔になって王都の貴族達にエルムンド織りの絨毯を広めてくださっていた──織り糸の絹糸もセシリア様の帝国との伝手つてがあったからあれだけのものが格安で手に入っていた。」

ロレンツォは大きな体をかがめて、フリータの耳元に口を寄せた。

「火災の損失分までセシリア様に費用を出していただいたんだ、感謝して、せいぜい慎ましくやっていくんだな。」

慇懃いんぎんに頭を下げてロレンツォは去って行った。


フリータは窓もないほこりだらけの仮の工房を見ながら、しばらくその場に突っ立ったままでいた。

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