うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)

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 マントを深く被っていても頬にあたる風が冷たく、セシリアは思わず手綱から手を離しそうになった。

「セシリア様、手を離さないで下さい。」

ビョルンがセシリアの手を手綱と一緒に握りしめた。

夕方まで降っていた雪がやみ、雲もなくなった夜空にはもうじきに満月になりそうな、ほんの少しいびつな丸い月が浮かんでいる。

「やっぱり、こんな遅くに突然訪ねたら、迷惑なんじゃないかしら?」

二人の乗った馬が足元の雪を踏みしめる音があたりに響き、セシリアは秘密のお出かけが誰かに見咎みとがめられないかと、そわそわと落ち着かない気分でいた。

「そう思わない?スコール。」

ふわふわとした冬毛に生え変わり、より一層大きく見えるビョルンの愛馬にセシリアは同意を求めた。

「スコールは楽しそうですよ。」

ビョルンの言う通り、スコールは歳を感じさせない軽やかな足運びで、白い息を吐きながら時折鼻を鳴らしている。




『春になったら馬の乗り方を教えてくれる?』




セシリアにそう言われたビョルンは「春を待つ必要はない」とすぐにセシリアをエルサに乗せようとした。


「エルサを勝手に連れ出して大丈夫かしら?」

セシリアはビョルンとオラフに、心配そうに聞いた。

「馬の一頭くらいで文句を言うほど、みみっちくはないでしょう、さすがに。」

ビョルンがそう言うと、オラフも大きく頷いた。

「でも、伯爵様はあの方にエルサをあげようとしてるのかもしれないわ。」

赤いドレスの女を思い出して、セシリアは喉が詰まるような嫌な感覚に襲われた。

「そんな馬鹿な話はない。」オラフにまでそう言われて、一応は納得したセシリアだったが、心のどこかでエルサはもう自分の馬ではない気がして、馬泥棒になったように気まずく感じた。

エルサが生まれた日のことも、セシリアの馬だと言ったことも、ニールスは忘れているだろうとセシリアは考えていた。

(エルサは嫌がっていたけれど、伯爵様はアンネさんを乗せようとしていたわ)

“ヒュドラ贔屓“     “生意気な小娘“      “伯爵様と恋人の間を引き裂く邪魔者“

領地内で囁かれるセシリアの噂に“馬泥棒“も加わるのかと思うと、あれほど心待ちにしていた乗馬の楽しさも半分ほどになり、セシリアの気持ちを暗くした。


結局セシリアは、砂糖をやったり体にブラシをかけてやることはしても、一度もエルサに乗っていない。





 月明かりが明るい夜空に、教会のとがった屋根が見えた。

すぐ隣には修道院の簡素な建物が隠れている。

昼間見るその姿より、暗く排他的はいたてきに見えてセシリアは手綱を持つ手に力を込めた。



ビョルンに手を引かれて小屋の裏手にまわった。

小屋にはガラスのない窓が並んでいて、ビョルンは迷わずその中の一つに小石を投げた。

「クララの部屋を知っているの?」

セシリアが小声で尋ねると、ビョルンは「調べておいた」と事も無げに言った。


三つ目の小石を投げようとした時、小さな木の窓が押し上げられるように開いた。

「誰?」

いつもより少しかすれたクララの声が聞こえた。

「俺だ。」

ビョルンが小声で囁いた。

「俺?───ビョルンさん?まさか夜這よばいですか?」

「するか!」

ビョルンの声が大きくなりそうになり、セシリアは慌てて「しーっ」と囁くように言った。

「セシリア様。」

クララは窓から体を半分出すようにして嬉しそうに名前を呼んだ。





 クララを小さな窓から外へ引っ張り出すと、ビョルンはスコールに二人を乗せ、修道院から少し離れた池のほとりまで連れて行った。

「こんなに遅くにごめんなさいね、クララ。」

大きな木の切り株に、セシリアはクララとピッタリとくっついて一つの毛布にくるまって座った。

「いいんです、ものすごくいけないことをしているみたいで楽しいです。」

夕方のビョルンとの会話とクララの言葉が重なった。




 セシリアが織物工房からも劇場建設からも退しりぞくと、修道院長のセシリアへの態度は手の平を返すように変わった。

いつもならセシリアが修道院へ行くとすっ飛んできていた院長は、突然忙しくなったようで、姿を現さなくなり、それならとクララといつものようにおしゃべりをしていると、修道女がすぐにやって来て、クララを激しく叱責しっせきするようになった。

クララは何も言わないが、彼女の手は今まで以上にあかぎれがひどくなっていて、指のあちこちが出血していた。

院長に寄進きしんを増やすと言ってみたが、当たり前だと言いたげに金貨の入った革袋を受け取るだけで、セシリアへの態度もクララのあかぎれも改善されることはなかった。

セシリアはクララを訪ねることをやめた。



 夕方、部屋の窓から修道院の方角をぼんやり眺めていると、ビョルンがセシリアを夜遊びに誘ってきた。

「夜遊びって何をするの?」

なんとなくその言葉の響きに胸を高鳴たかならせて尋ねた。

「何をしてもいいんですけど、セシリア様を酒場にお連れするわけにはいきませんし───ここはひとまず、クララの所へでも行きますか?」

セシリアの高鳴っていた胸はあっという間に静かになった。

「ダメよ、クララに迷惑をかけたくないわ。」

セシリアはクララの血だらけの手を思い出した。

「夜、修道女たちが寝静まってから会いに行くんですよ。なにせ夜遊びですからね。」

「クララだって、寝てるでしょう?」

「起こしますよ。」

「でも、エウラリアとオラフが許さないわ。」

「今日の夜の護衛は、俺ですよ。」

「でも、いいのかしら…そんなこと…」

「いけないことをするから楽しいんですよ。」

ビョルンはまんまとセシリアを夜遊びに連れ出した。





「ずっとセシリア様に会いたかったんです。」

クララはかさぶただらけの手をこすり合わせた。

「あっ、そうだったわ。」

セシリアは軟膏の入った小瓶の蓋を開けて指に取り、クララの手に丁寧に塗り込んだ。

「これ、よく効くらしいの。毎日塗ってね。」

セシリアが握らせた小瓶をクララはランタンの光にかざした。

「ありがとうございます、セシリア様。」


二人は「まるで秘密の恋人みたいだ」と笑い合い、他愛もない話を少ししてから別れた。





 クララを修道院へ送った後、スコールに揺られながらセシリアは久しぶりに暖かな気持ちでいた。

「ありがとうビョルン。とても楽しかったわ、とても。」

セシリアの後ろでビョルンは笑った。

「また、夜遊びに行きましょう。今度はもっと刺激的な所へね。」

「ふふ、楽しみ。───スコールもありがとう。」

声をかけると、スコールは先の方だけほんの少し白い毛が生えた耳をぴくぴくと動かした。

ひたいから鼻にかけての白いひし形の模様と耳の先以外は真っ黒の毛に覆われたスコールは、体から白い湯気を出していて、セシリアは冷えた体が少し温まった気がした。
 

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