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薄暗い牢から狭い階段を上がって表に出ると、春の日差しに目が眩んだ。
ビョルンは手をかざして日差しを避けると、屋敷に向かって歩き出す。
鼻の奥に残る男の獣のような体臭を外の空気で押し流すように、大きく息を吸った。
小さな窓からかろうじて入る光が、地下の牢獄をやけに鮮明に見せていた。
牢番の兵士に急かされながら、格子のついた小窓がついた重い扉を開けると、顔を赤らめた初老の男がいびきをかいて眠っていた。
昼間だというのに呑気に眠っている男は罪人とは思えないほど血色が良く、狭い牢は酒の匂いが充満している。
男の体の下には毛布が敷かれていて、上掛け用の毛布も二枚重ねてあり、枕元には差し入れの残りなのか、小さくなった干し肉とうっすらとワインの赤い輪染みを残す木の器が乱雑に置かれていた。
ビョルンは腹立たしくなり、男の寝台を蹴り飛ばした。
「何してるんだ。誰か来たらどうする!」
牢番の兵士が小声で咎めた。
罪人の男は一瞬いびきを止めて寝返りを打つと、また規則的な雑音を立て始めた。
真っ赤な炎を噴きながら、あっという間に燃え尽きた織物工房。
ビョルンは必死で消火活動に参加した。
しかし、火のまわりがあまりにも早く、手がつけられなかった。
水の入った桶から最後に水をかけ、ここまでかと手を止めた時、工房から少し離れたところにこの男が震えながら座り込んでいた。
男の胸ぐらを掴んで立たせる時に微かに松脂の匂いがした。
思わずその場で抜刀しそうになったが、なんとか堪えて近くにいた兵士に「付け火の犯人だ」と引き渡した。
あの火災から、セシリアは色々なものをなくした。
憔悴し、ふっくらと可愛らしかった頬は痩せて青白くなった。
当の罪人は牢に入れられたままだと聞いて様子を見に来れば、まるで客人のように牢で悠々と暮らしている。
付け火という大罪を犯しながら、領内では「ヒュドラを追い出した立役者」と言われ、英雄のように称える輩もいる。
赤らんだ男の顔を地面ですりつぶしてやろうか、いっそここで一思いに始末してやろうか。
物騒な考えをなんとか打ち消していると、牢番の兵士が泣きそうな声で「もうすぐ他の兵士が来る」と言うので、仕方なく牢を出た。
額に脂汗を滲ませた牢番に金を渡すと、ホッとしたように息を吐き出してへらりと笑った。
気分の悪さをなんとか抑え込みながらセシリアの部屋の前まで来ると、そこにいるはずの護衛の姿がない。
扉の取手に手をかけた時すごい勢いで扉が開き、エウラリアが飛び出してきた。
「セシリア様がいらっしゃらない!厩だわ!」
エウラリアの手に少し前からセシリアが集めていたエルサの毛が握られていた。
エウラリアを残してビョルンは走り出した。
楢の木のそばに、セシリアの部屋の前にいるはずの護衛が若いメイドの前髪をいじりながら話しているのが見えた。
ビョルンの視界が怒りで真っ赤になった。
「おい!セシリア様はそこにいるんだろうな!」
ビョルンの怒声にメイドは小さく叫び声をあげて、護衛は顔を真っ白にして口をぱくぱくさせている。
「お前の警護対象はそのメイドか?」
護衛の傍までたどり着いたビョルンは、胸ぐらを掴み上げた。
「セシリア様はどこだ?」
護衛はただ首を横に振るだけだった。
ビョルンは護衛を投げ捨て、飛び降りるように馬場への階段を降りた。
馬場にも厩の方にも人影はない。
厩の方に足を動かした瞬間、視界の端に薄紅色がちらりと見えた。
恐ろしさに、ビョルンの動きが遅くなる。
ゆっくりと薄紅色が見えた方へ顔を向けると、草陰に薄い金色の髪と薄紅のドレスが厩側に近い階段の下に何かの抜け殻のように横たわっていた。
気づくと走り出していた。
そばへ行き跪くと、金の髪をそっと指でかき分けた。
紙のように白い頬が金髪の下から現れる、そっと首筋に指をやると脈打つのを感じる。
口元に耳を近づける。
弱々しいが呼吸しているのがわかった。
「セシリア様」
大きな声で呼びかけた。
反応はない。
スカートから出ている白い足は血に塗れていて、脛から骨が飛び出している。
頭には出血は見られない。
「セシリア様!」
一層大きな声で呼びかける。
瞼が動いた。
「セシリア様!」
もう一度呼ぶと、薄く開いたまぶたから水色の瞳が見えて、またすぐに閉じた。
「ビョルン殿!」
メイドといちゃついていた護衛がやっと追いかけて来た。
「ラース先生を呼べ!」
ビョルンの叫びに護衛は走り出した。
それとすれ違うようにエウラリアが駆け寄ってきた。
「ああ、なんということ!セシリア様!」
管理棟の執務室の机に肘をつき眉間を指で揉み込むニールスを、アルヴェはなんとも言えない気持ちで見ていた。
三日前から降り続く雨は、ニールスに激しい頭痛をもたらしているらしい。
「どうせしばらくは足止めです。少し休んできたらどうですか、伯爵。」
室内にいる書記官や他の兵士の手前、アルヴェは同窓の友人ではなく部下として、目の下に濃い隈を張り付けたニールスに進言した。
「そうだな───」
そう言ったきり、ニールスはしばらく動かなかった。
室内には窓に打ちつける雨の音と、鎧戸が揺れて壁を叩く音だけが響く。
アルヴェも兵士達も、心配そうにニールスの様子を窺った。
ニールスは自分が発した言葉を忘れたのか、それとも言葉を発したことも意識になかったのか、机に肘をついた姿勢のまま動かない。
書記官も兵士もとりあえず意識をニールスから引き剥がして、それぞれの仕事を再開した。
(こんなにどうしようもないやつだったのだな。)
アルヴェは固まったように動かない上官を机越しに眺めた。
三日前、突然降り出した雨は瞬く間に勢いを増し、行きがけに通った古い橋を崩落させた。
屋敷に戻る道は、山越えか森を抜ける経路が残された。
ニールスが山越えで激しい雨の中を帰ろうとしていたのを、アルヴェとカールが他の兵士たちと必死に説得して、とどまらせた。
「ニールス、本当に少し休め。」
窓の外を睨みつけるように見ていたニールスがアルヴェを見た。
ニールスが執務室を見渡すと、アルヴェ以外は誰も残っていなかった。
「他の連中は飯を食いに行った。お前も食いに行くか?」
「いや、いい───」
そう言ってニールスはまた降り止まない雨を睨みつけた。
「眼力では雨は止まんぞ。」
アルヴェはニールスの前に錫のコップを二つ並べて、琥珀色の液体を注いだ。
「これを飲んで、休んで来い。いくら雨を眺めていても落ちた橋が元通りになるわけじゃないだろ?」
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