うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)

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 くだんの報告書を受け取ったのは、ひと月ほど前のことだった。




「リュング副官。」

家名で呼ばれアルヴェは自分を呼ぶ人間が誰かを予想した。

家名で呼ぶのは、おおよそ貴族出身の兵士。

他では考えられないが、エルムンドでは平民出の兵士は、相手が貴族であっても自分と同じように苗字などないと思うのか、名前と階級で呼ぶ。

「アンスベルグ少尉、戻ったのか。」

書類から顔を上げると、アルヴェが予想した通り貴族の男が机の前に折り目正しく立っていた。

「本日、東倉庫からエルムンド軍本部に戻って参りました。」

リューデルはそう言いながら、ニールスのからの机にちらりと目をやった。

「伯爵は出ている。今日は遅いと思うが。」

リューデルは表情を変えずに、アルヴェを見据えた。

「いえ、リュング副官にお話が。」






 昼間の執務室では、書類をさばく書記官や事務官の手を止めて人払いをするのははばかられ、アルヴェは夜、自室にリューデルを呼んだ。

エルムンドの領主館の西側、ある程度の立場の者達に与えられた部屋。

広くはないが一人には十分な広さと、調度品。


「まあ、座ってくれ。」

小さな食卓に分厚いグラスを二つ置き、アクアヴィットを注いだ。


リューデルは促されるまま椅子に座り、グラスを手に取った。

酒は、曇ったグラスに馴染んでまるで何も入っていないように見えた。

「こんな時間に野郎と二人で酒を飲むなんて、妙な感じだな。」

アルヴェの軽口にリューデルは何も答えずグラスを呷った。

(こういうところが、受け入れられにくいのか…)

目の前で、強い酒に低くのどを鳴らしながら顔をしかめる男を、しげしげと見た。


 ニールスのこの男に対する評価は“凡庸ぼんよう“これに尽きた。

平民兵士たちからは“貴族であることを鼻にかけた嫌味な男“と煙たがられている。

しかし、アルヴェの彼への評価はそれほど悪くない。

融通の利かないところはあるが、年下のニールスやアルヴェにも上官に対する礼を欠くことはなかったし、それは他の者へも同じだった。

“凡庸“それが欠点とも思わない。
“無能“よりはずっといい。

それに“凡庸“が欠点とするなら、カールこそその筆頭だろう。


「リュング副官はカール副官をどのように思っておられますか?」

ちょうど考えていたその人の名前が出て、アルヴェはわずかに肩を揺らした。

「これを、ご覧になってください。」

リューデルが酒の入ったグラスの横に置いたのは、端がよれた紙束だった。


紙束には、薬物流用に関する証言が書き連ねてあった。

「自分の部下が集めてくれたものです。」

ヨレヨレの紙を捲っていく。


『薬物の数が合わないとされている月は、本当はヤラン軍曹が責任者だった。』

『はっきりした記憶は無いが、帳簿の数も自分が見たときと変わっている気がする。』

『ヤラン軍曹が補給庫に近い酒場の裏で、浮浪者のような男と話していた。』

『夜盗を取り逃した日、ヤラン軍曹の所在がつかめなかった。』

くたびれた紙がこの証言を集める苦労を物語っている。



「調査していた時には、こんな話は出なかったのだろう?なぜ今になって?」

「自分の処分に不承知な部下たちが、必死になってかき集めた証言です。」

リューデルの拳が膝の上で小刻みに震えている。

「しかしこれでは証拠にはならない。」

「心得ております。ですので、伯爵様には提出致しませんでした。しかし、ヤランの代わりに夜間責任者とされた者は私の部下です、彼への処遇の見直しを求めたいのです。」

「自分自身の処遇の改善は?」

「自分は東倉庫全体の責任者でした。部下たちの統制も取れず、薬物の流出などという失態を犯した責は自分にあります。」

リューデルは淀みなく答えた。

「カール副官の名は、なぜ出てきた?」

「分かっておいでのはず───」

リューデルの膝の上の拳が白くなるほど強く握られた。

「ヤラン軍曹は元より、関わっていると思しき兵士は全てカール副官の“子飼い“と言われる連中です。」











 セシリアは夢を見た。

熱に浮かされながら、幾つもの夢を。


 庭園を自分と同じ薄い色の金の髪を探して、自分より背の高い生垣を必死で走った。

走っても走っても、誰の姿もない。

だんだん呼吸が荒くなり、足がもつれた。

永遠に見つけられない、そう思った時、人影が見えた。

背の高い大人の男の人。

「お父様…」ささやくほどしか声が出ない。

振り返った父親は、幻でも見たように目を見開いた。

「セシリ───」

「父上!王子達とかくれんぼをしていたのです!」

兄が父親の前に飛び出した。

「父上、陛下との謁見えっけんはお済みですか?」

まだ少し舌っ足らずな少年の声が、王宮の庭園に響いた。

父親は愛おしそうに兄の髪に触れた。

「セシリア!父上に挨拶しろよ!」

兄は屈託くったくなくセシリアに笑いかける。

ほんの一瞬、セシリアと父親の目線がからむ。
父親の表情はゆがみ、勢いをつけて顔をそらした。

セシリアの小さな胸がきしむ。声が出ない。喉の奥が痛い。


うつむいて動けないセシリアの手を誰かが引っ張った。

どんどん生垣を進んでゆく。

セシリアの名を呼ぶ兄の声が聞こえるが、もう姿は見えない。

薔薇のアーチを一気にくぐり抜け、チューリップが咲く花壇まで来ると、セシリアを引っ張っていた手がほどかれた。

「大丈夫だよ、セシ。」

声の方を見上げると、探していた金の髪が日差しに輝いた。

「クリス───」



目を覚ますと見慣れた天井が、歪んで見えた。

エウラリアが何か話しかけている。

必死で答えようとしたが、瞼の重さに負けてセシリアはまた夢の中に戻っていった。





 暗い空に松明の灯りに照らされた軍旗がはためいた。

ニールスの帰還を待つアンネの横顔が見える。

ちぎれて踏みつけられた水色のリボン。


『ここへは来るな』

め付けるニールス、ケタケタと笑うアンネと兵士たち。


『都合が悪い───』

不機嫌な顔で馬車に乗るニールス。


『君は痩せすぎだ───』

き捨てるニールス。



次々に浮かぶニールスの顰めっ面。



体が熱い、息が苦しい、身体中が痛い。



「助けて!」

セシリアは声の限りに叫び、かすかに見える大きな背中に手を伸ばした。



眉根を寄せたニールスが振り返る。

ニールスに赤いドレスの女がピッタリと寄り添う。

女に優しく微笑むニールス。


『生きていたのか?』

ニールスはまた顔を顰めて、舌打ちをする。

『死ねばよかったのよ』

女の高笑いが響く。



「助けて!」叫びたいのに、声が出ない。

「誰か助けて!」唇も動かない。





 ───突然、目の前が真っ暗になった。



「大丈夫だよ、セシ───」

あの日の少年の声が聞こえた───



「セシリア様、気がつかれましたか?」

エウラリアの声が震えている。

「夢…だったの?……」

声はかすれてほとんど音にならなかった。

「もう大丈夫ですよ、セシリア様…」

エウラリアが額に当てた冷たい布に、セシリアは吐息といきを漏らした。

「生きてるのね…私…」


セシリアが意識を取り戻したことで、室内は一気に騒がしくなりセシリアの小さなつぶやきは誰にも届かなかった。







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