37 / 74
37
件の報告書を受け取ったのは、一月ほど前のことだった。
「リュング副官。」
家名で呼ばれアルヴェは自分を呼ぶ人間が誰かを予想した。
家名で呼ぶのは、おおよそ貴族出身の兵士。
他では考えられないが、エルムンドでは平民出の兵士は、相手が貴族であっても自分と同じように苗字などないと思うのか、名前と階級で呼ぶ。
「アンスベルグ少尉、戻ったのか。」
書類から顔を上げると、アルヴェが予想した通り貴族の男が机の前に折り目正しく立っていた。
「本日、東倉庫からエルムンド軍本部に戻って参りました。」
リューデルはそう言いながら、ニールスの空の机にちらりと目をやった。
「伯爵は出ている。今日は遅いと思うが。」
リューデルは表情を変えずに、アルヴェを見据えた。
「いえ、リュング副官にお話が。」
昼間の執務室では、書類を捌く書記官や事務官の手を止めて人払いをするのは憚られ、アルヴェは夜、自室にリューデルを呼んだ。
エルムンドの領主館の西側、ある程度の立場の者達に与えられた部屋。
広くはないが一人には十分な広さと、調度品。
「まあ、座ってくれ。」
小さな食卓に分厚いグラスを二つ置き、アクアヴィットを注いだ。
リューデルは促されるまま椅子に座り、グラスを手に取った。
酒は、曇ったグラスに馴染んでまるで何も入っていないように見えた。
「こんな時間に野郎と二人で酒を飲むなんて、妙な感じだな。」
アルヴェの軽口にリューデルは何も答えずグラスを呷った。
(こういうところが、受け入れられにくいのか…)
目の前で、強い酒に低く喉を鳴らしながら顔を顰める男を、しげしげと見た。
ニールスのこの男に対する評価は“凡庸“これに尽きた。
平民兵士たちからは“貴族であることを鼻にかけた嫌味な男“と煙たがられている。
しかし、アルヴェの彼への評価はそれほど悪くない。
融通の利かないところはあるが、年下のニールスやアルヴェにも上官に対する礼を欠くことはなかったし、それは他の者へも同じだった。
“凡庸“それが欠点とも思わない。
“無能“よりはずっといい。
それに“凡庸“が欠点とするなら、カールこそその筆頭だろう。
「リュング副官はカール副官をどのように思っておられますか?」
ちょうど考えていたその人の名前が出て、アルヴェは僅かに肩を揺らした。
「これを、ご覧になってください。」
リューデルが酒の入ったグラスの横に置いたのは、端がよれた紙束だった。
紙束には、薬物流用に関する証言が書き連ねてあった。
「自分の部下が集めてくれたものです。」
ヨレヨレの紙を捲っていく。
『薬物の数が合わないとされている月は、本当はヤラン軍曹が責任者だった。』
『はっきりした記憶は無いが、帳簿の数も自分が見たときと変わっている気がする。』
『ヤラン軍曹が補給庫に近い酒場の裏で、浮浪者のような男と話していた。』
『夜盗を取り逃した日、ヤラン軍曹の所在がつかめなかった。』
くたびれた紙がこの証言を集める苦労を物語っている。
「調査していた時には、こんな話は出なかったのだろう?なぜ今になって?」
「自分の処分に不承知な部下たちが、必死になってかき集めた証言です。」
リューデルの拳が膝の上で小刻みに震えている。
「しかしこれでは証拠にはならない。」
「心得ております。ですので、伯爵様には提出致しませんでした。しかし、ヤランの代わりに夜間責任者とされた者は私の部下です、彼への処遇の見直しを求めたいのです。」
「自分自身の処遇の改善は?」
「自分は東倉庫全体の責任者でした。部下たちの統制も取れず、薬物の流出などという失態を犯した責は自分にあります。」
リューデルは淀みなく答えた。
「カール副官の名は、なぜ出てきた?」
「分かっておいでのはず───」
リューデルの膝の上の拳が白くなるほど強く握られた。
「ヤラン軍曹は元より、関わっていると思しき兵士は全てカール副官の“子飼い“と言われる連中です。」
セシリアは夢を見た。
熱に浮かされながら、幾つもの夢を。
庭園を自分と同じ薄い色の金の髪を探して、自分より背の高い生垣を必死で走った。
走っても走っても、誰の姿もない。
だんだん呼吸が荒くなり、足がもつれた。
永遠に見つけられない、そう思った時、人影が見えた。
背の高い大人の男の人。
「お父様…」囁くほどしか声が出ない。
振り返った父親は、幻でも見たように目を見開いた。
「セシリ───」
「父上!王子達とかくれんぼをしていたのです!」
兄が父親の前に飛び出した。
「父上、陛下との謁見はお済みですか?」
まだ少し舌っ足らずな少年の声が、王宮の庭園に響いた。
父親は愛おしそうに兄の髪に触れた。
「セシリア!父上に挨拶しろよ!」
兄は屈託なくセシリアに笑いかける。
ほんの一瞬、セシリアと父親の目線が絡む。
父親の表情は歪み、勢いをつけて顔をそらした。
セシリアの小さな胸が軋む。声が出ない。喉の奥が痛い。
俯いて動けないセシリアの手を誰かが引っ張った。
どんどん生垣を進んでゆく。
セシリアの名を呼ぶ兄の声が聞こえるが、もう姿は見えない。
薔薇のアーチを一気に潜り抜け、チューリップが咲く花壇まで来ると、セシリアを引っ張っていた手が解かれた。
「大丈夫だよ、セシ。」
声の方を見上げると、探していた金の髪が日差しに輝いた。
「クリス───」
目を覚ますと見慣れた天井が、歪んで見えた。
エウラリアが何か話しかけている。
必死で答えようとしたが、瞼の重さに負けてセシリアはまた夢の中に戻っていった。
暗い空に松明の灯りに照らされた軍旗がはためいた。
ニールスの帰還を待つアンネの横顔が見える。
ちぎれて踏みつけられた水色のリボン。
『ここへは来るな』
睨め付けるニールス、ケタケタと笑うアンネと兵士たち。
『都合が悪い───』
不機嫌な顔で馬車に乗るニールス。
『君は痩せすぎだ───』
吐き捨てるニールス。
次々に浮かぶニールスの顰めっ面。
体が熱い、息が苦しい、身体中が痛い。
「助けて!」
セシリアは声の限りに叫び、かすかに見える大きな背中に手を伸ばした。
眉根を寄せたニールスが振り返る。
ニールスに赤いドレスの女がピッタリと寄り添う。
女に優しく微笑むニールス。
『生きていたのか?』
ニールスはまた顔を顰めて、舌打ちをする。
『死ねばよかったのよ』
女の高笑いが響く。
「助けて!」叫びたいのに、声が出ない。
「誰か助けて!」唇も動かない。
───突然、目の前が真っ暗になった。
「大丈夫だよ、セシ───」
あの日の少年の声が聞こえた───
「セシリア様、気がつかれましたか?」
エウラリアの声が震えている。
「夢…だったの?……」
声は掠れてほとんど音にならなかった。
「もう大丈夫ですよ、セシリア様…」
エウラリアが額に当てた冷たい布に、セシリアは吐息を漏らした。
「生きてるのね…私…」
セシリアが意識を取り戻したことで、室内は一気に騒がしくなりセシリアの小さな呟きは誰にも届かなかった。
あなたにおすすめの小説
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
始まりはよくある婚約破棄のように
喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」
学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。
ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。
第一章「婚約者編」
第二章「お見合い編(過去)」
第三章「結婚編」
第四章「出産・育児編」
第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始
【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」
そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。
彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・
産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。
----
初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。
終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。
お読みいただきありがとうございます。
私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ
みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。
婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。
これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。
愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。
毎日20時30分に投稿
【完結】あなたに嫌われている
なか
恋愛
子爵令嬢だった私に反対を押し切って
結婚しようと言ってくれた日も
一緒に過ごした日も私は忘れない
辛かった日々も………きっと………
あなたと過ごした2年間の四季をめぐりながら
エド、会いに行くね
待っていて
【完結】あなたは、知らなくていいのです
楽歩
恋愛
無知は不幸なのか、全てを知っていたら幸せなのか
セレナ・ホフマン伯爵令嬢は3人いた王太子の婚約者候補の一人だった。しかし王太子が選んだのは、ミレーナ・アヴリル伯爵令嬢。婚約者候補ではなくなったセレナは、王太子の従弟である公爵令息の婚約者になる。誰にも関心を持たないこの令息はある日階段から落ち…
え?転生者?私を非難している者たちに『ざまぁ』をする?この目がキラキラの人はいったい…
でも、婚約者様。ふふ、少し『ざまぁ』とやらが、甘いのではなくて?きっと私の方が上手ですわ。
知らないからー幸せか、不幸かーそれは、セレナ・ホフマン伯爵令嬢のみぞ知る
※誤字脱字、勉強不足、名前間違いなどなど、どうか温かい目でm(_ _"m)
心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。
私の婚約者は誰?
しゃーりん
恋愛
伯爵令嬢ライラは、2歳年上の伯爵令息ケントと婚約していた。
ところが、ケントが失踪(駆け落ち)してしまう。
その情報を聞き、ライラは意識を失ってしまった。
翌日ライラが目覚めるとケントのことはすっかり忘れており、自分の婚約者がケントの父、伯爵だと思っていた。
婚約者との結婚に向けて突き進むライラと、勘違いを正したい両親&伯爵のお話です。