うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)

文字の大きさ
38 / 74

38


「薬物の横流し───」「本部への移動なんて処罰とは言えない───」

訓練所で剣を振るっていると、あちこちからヒソヒソと聞こえる。

リューデルが剣を振る腕をめ、周りを見渡せば声はやむ。

朝の訓練所は人が多く、誰が言ったのか特定は難しい。

それでいて、その声は本人にきっちりと聞こえている。

(まるで夜会の貴婦人だな。)

リューデルは額の汗を手拭いで拭き取りながら、訓練所を後にした。




「アンスベルグ少尉!」

くさくさした気持ちで兵舎まで歩いていると物陰から男が出てきて、リューデルは思わず持っていた模造刀に手をやり構えた。

「おっと、勘弁してください。いくら模造刀でもこんなところで抜刀はいただけませんよ。」

背の高い男は、リューデルの知っている男だった。

「ビョルン殿───こんなところで、何を?」

リューデルは息をきながら姿勢を戻した。

「私などに声をかけなくても、ビョルン殿なら他に手の者を忍ばせているだろう?」

不貞腐れたようにそう言って、リューデルは手拭いで乱暴に額の汗を拭った。

「手の者なんて、そんないいものじゃありませんよ。知り合いがいるっていう程度で───あいつらじゃ、ちょっと役に立たないのでね…」

急に声が小さくなって、最後は聞き取れない。

「セシリア様のことは、ご存知ですよね?」

目の前の男は、どんなに簡素な着衣に身を包んでも貴族らしい優雅さをただよわせ、軟派なんぱな仕草も上品に見せていた。


リューデルとビョルンは遠縁に当たる。

歳が少し離れているのであまり交流はなかったが。

リューデルの少ない記憶の中にいるビョルンは、幼年ながら名門ヴァルクレン侯爵家の人間らしい優美ゆうびさと明敏めいびんさを備えた少年だった。


「もちろん聞き及んでいる。お加減はどうだろうか?」

リューデルはセシリアの怪我のことを思い表情を曇らせた。

「かなりひどい怪我ですが熱も下がって、今は落ち着いていらっしゃいます。」

「奥方様のお役に立てそうな事があったら、遠慮なく言ってくれ。」

「では早速、お願いが。」

半分は本気で、もう半分は自分に出来ることなどない、と思いながら言った言葉はすぐに実行を求められた。

「屋敷の方から軍を通して伝令を何度もお願いしているんですが、伯爵様からの返答がないんです。」

「全くか?軍には“雨で橋が崩落した帰還を延期する。“と連絡があったぞ。」

「その連絡は一応ありました。」

「だったら───」

伝令は伝わっているだろう。そう言おうとして、東倉庫の責任者を外され本部へと戻ってすぐ、やさぐれた気持ちで酒場に向かった時のことを思い出した。


『ヒュドラ贔屓びいきの生意気なガキ』『女のくせに事業だとかなんとかいけ好かねえ』『領主夫人だなんて、名前だけで何にも役目を果たせない』

安酒やすざけ不器量ぶきりょうな女達の化粧の匂いに混じって聞こえてきた酔っ払いの声。

あろうことか、領民達が口々にこき下ろしていたのは伯爵夫人であるセシリアのことだった。

本来なら平民が貴族のことを話題にするのも憚られるはずなのに、自領の領主夫人を平然と侮辱ぶじょくする異様な光景に、安酒で自分の耳がおかしくなったかと本気で思った。

輿入こしいれの際にも、兵士の一部からは“軍神様に子供の花嫁をあてがうなんて馬鹿にしている“と否定的な声が聞こえていた。

貴族として育ったリューデルにとっては政略結婚など当たり前で、その年齢が幼齢であることもさして珍しいとも思えなかった。

貴族の婚姻に口を挟むことの方が“馬鹿にしている“とあきれたものだった。


一言ひとこといってやろうと立ちあがろうとしたのを商人らしき老人に止められた。

「やめた方がいい、いくらあなたの腕っぷしが強くても、多勢たぜい無勢ぶぜいだ。この状態は今に始まったことじゃない。領主様も何も手を打とうとなさらない。つまりは伯爵様の意向ってことなんだろう。触らぬ神にたたりなしだ───」

(カールだ。この騒動の渦中かちゅうには絶対にあの男がいる。)

リューデルは私怨しえんをたっぷり滲ませて、憎い男の顔を思い浮かべた。



「軍部の連絡はとどこおりないんですね?」

ビョルンの声にリューデルは記憶から引き戻された。

「その件は任せてくれないか?奥方様の怪我を東倉庫の伯爵様に必ず伝える。」

厄介な用件を突如として引き受けたリューデルに驚いたが、すぐにビョルンはたたずまいを正した。

「頼みます。アンスベルグ少尉。」

ビョルンの表情には、主人への想いがこもっていた。












「伯爵様はまだ?」

ラースの言葉に、セシリアの部屋にいた者たちは一斉に苦い顔をした。

「あれから一週間、何度も早馬を出しましたが〝橋が崩落した帰還を延期する〝との軍への連絡を伝え聞いただけです。」

セシリアの額をぬぐうエウラリアがラースを睨みつけた。

「熱も下がったようですし、とりあえず山場は越えましたよ、セシリア様。」

俺が早馬を無視してるわけじゃない。そう言いたいのを我慢して、話を逸らすようにセシリアの怪我の話をした。

首を動かすのも傷に響くのか、セシリアは青い顔でラースを見るとまぶたを一度しっかりと閉じた。

エウラリアはセシリアの額の汗を真っ白な布巾でそっと拭い、ひたいに張り付いた髪を優しく払うと、水の入った桶を持って部屋を出た。

寝台の足元ではマルタが血の滲んだ包帯と敷布しきふを丸めるようにかき集めている。

「セシリア様、うかがってもよろしいでしょうか?」

ラースが小声で言うとセシリアは「どうぞ」と囁くように掠れた声で言った。

「事故のあった日のことを、セシリア様から伺いたいのです。」



あの日のセシリアの悲鳴がラースの耳に蘇った。




 駆けつけたラースがざっと全身を診察したところ、怪我は足に集中していた。

頭を打った形跡がないのを確認するとラースの指示で、セシリアの上半身をオラフが抱き込むようにして抑え、折れていない左足をビョルンが抑えた。


ラースは一思いに右足を引っ張りセシリアの真後ろに曲がったすねの骨を真っ直ぐに戻した。

オラフの巨体に抱きしめられるように押さえつけられたセシリアの声が屋敷中に響いた。


セシリアはその晩から高熱を出し、一時いちじは命も危うい状態だったが一週間経った今、熱は下がり傷口の状態も悪くない。


今も辛そうではあるが、記憶がはっきりしているうちにラースには確認したいことがあった。


「“事故“ではありません───」

事故、と言ったラースの言葉にセシリアが弱々しい声で抗議した。

「やはりそうですか…」

セシリアは目を見開いてラースを見た。

「怪我の状態を見るために、全身を診察いたしました。」

ラースはそこまで言うと迷うように言葉を切ったが、それを振り払うように一つ息をいて続けた。

「背中に大きな赤いあざがありました。」

セシリアは何の反応もせずラースの言葉を待った。

「そのあざは次の日の診察時にはほんの少し赤みを残すだけで、もう消えていましたが───あのあざは人の手の形に見えました。」

「先生……このことは誰にも仰らないで……お願いです…」

ラースは部屋のすみに控えているビョルンとオラフを見た。

全く反応がないので二人にこの会話が聞こえたどうかもわからない、ただセシリアの世話をしているエウラリアやマルタがあのあざに気づいていないとは思えない。

ビョルンとオラフも知っていてもおかしくはない。

知られたくないのは、セシリア側の人間ではないということかとラースはに落ちた。


ラースはセシリアの目を見て静かにうなずいた。








あなたにおすすめの小説

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

始まりはよくある婚約破棄のように

喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」 学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。 ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。 第一章「婚約者編」 第二章「お見合い編(過去)」 第三章「結婚編」 第四章「出産・育児編」 第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始

【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」 そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。 彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・ 産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。 ---- 初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。 終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。 お読みいただきありがとうございます。

私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ

みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。 婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。 これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。 愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。 毎日20時30分に投稿

【完結】あなたに嫌われている

なか
恋愛
子爵令嬢だった私に反対を押し切って 結婚しようと言ってくれた日も 一緒に過ごした日も私は忘れない 辛かった日々も………きっと……… あなたと過ごした2年間の四季をめぐりながら エド、会いに行くね 待っていて

【完結】あなたは、知らなくていいのです

楽歩
恋愛
無知は不幸なのか、全てを知っていたら幸せなのか  セレナ・ホフマン伯爵令嬢は3人いた王太子の婚約者候補の一人だった。しかし王太子が選んだのは、ミレーナ・アヴリル伯爵令嬢。婚約者候補ではなくなったセレナは、王太子の従弟である公爵令息の婚約者になる。誰にも関心を持たないこの令息はある日階段から落ち… え?転生者?私を非難している者たちに『ざまぁ』をする?この目がキラキラの人はいったい… でも、婚約者様。ふふ、少し『ざまぁ』とやらが、甘いのではなくて?きっと私の方が上手ですわ。 知らないからー幸せか、不幸かーそれは、セレナ・ホフマン伯爵令嬢のみぞ知る ※誤字脱字、勉強不足、名前間違いなどなど、どうか温かい目でm(_ _"m)

心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。

しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。 理由は他の女性を好きになってしまったから。 10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。 意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。 ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。 セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。

私の婚約者は誰?

しゃーりん
恋愛
伯爵令嬢ライラは、2歳年上の伯爵令息ケントと婚約していた。 ところが、ケントが失踪(駆け落ち)してしまう。 その情報を聞き、ライラは意識を失ってしまった。 翌日ライラが目覚めるとケントのことはすっかり忘れており、自分の婚約者がケントの父、伯爵だと思っていた。 婚約者との結婚に向けて突き進むライラと、勘違いを正したい両親&伯爵のお話です。