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「薬物の横流し───」「本部への移動なんて処罰とは言えない───」
訓練所で剣を振るっていると、あちこちからヒソヒソと聞こえる。
リューデルが剣を振る腕を止め、周りを見渡せば声はやむ。
朝の訓練所は人が多く、誰が言ったのか特定は難しい。
それでいて、その声は本人にきっちりと聞こえている。
(まるで夜会の貴婦人だな。)
リューデルは額の汗を手拭いで拭き取りながら、訓練所を後にした。
「アンスベルグ少尉!」
くさくさした気持ちで兵舎まで歩いていると物陰から男が出てきて、リューデルは思わず持っていた模造刀に手をやり構えた。
「おっと、勘弁してください。いくら模造刀でもこんなところで抜刀はいただけませんよ。」
背の高い男は、リューデルの知っている男だった。
「ビョルン殿───こんなところで、何を?」
リューデルは息を吐きながら姿勢を戻した。
「私などに声をかけなくても、ビョルン殿なら他に手の者を忍ばせているだろう?」
不貞腐れたようにそう言って、リューデルは手拭いで乱暴に額の汗を拭った。
「手の者なんて、そんないいものじゃありませんよ。知り合いがいるっていう程度で───あいつらじゃ、ちょっと役に立たないのでね…」
急に声が小さくなって、最後は聞き取れない。
「セシリア様のことは、ご存知ですよね?」
目の前の男は、どんなに簡素な着衣に身を包んでも貴族らしい優雅さを漂わせ、軟派な仕草も上品に見せていた。
リューデルとビョルンは遠縁に当たる。
歳が少し離れているのであまり交流はなかったが。
リューデルの少ない記憶の中にいるビョルンは、幼年ながら名門ヴァルクレン侯爵家の人間らしい優美さと明敏さを備えた少年だった。
「もちろん聞き及んでいる。お加減はどうだろうか?」
リューデルはセシリアの怪我のことを思い表情を曇らせた。
「かなりひどい怪我ですが熱も下がって、今は落ち着いていらっしゃいます。」
「奥方様のお役に立てそうな事があったら、遠慮なく言ってくれ。」
「では早速、お願いが。」
半分は本気で、もう半分は自分に出来ることなどない、と思いながら言った言葉はすぐに実行を求められた。
「屋敷の方から軍を通して伝令を何度もお願いしているんですが、伯爵様からの返答がないんです。」
「全くか?軍には“雨で橋が崩落した帰還を延期する。“と連絡があったぞ。」
「その連絡は一応ありました。」
「だったら───」
伝令は伝わっているだろう。そう言おうとして、東倉庫の責任者を外され本部へと戻ってすぐ、やさぐれた気持ちで酒場に向かった時のことを思い出した。
『ヒュドラ贔屓の生意気なガキ』『女のくせに事業だとかなんとかいけ好かねえ』『領主夫人だなんて、名前だけで何にも役目を果たせない』
安酒と不器量な女達の化粧の匂いに混じって聞こえてきた酔っ払いの声。
あろうことか、領民達が口々にこき下ろしていたのは伯爵夫人であるセシリアのことだった。
本来なら平民が貴族のことを話題にするのも憚られるはずなのに、自領の領主夫人を平然と侮辱する異様な光景に、安酒で自分の耳がおかしくなったかと本気で思った。
輿入れの際にも、兵士の一部からは“軍神様に子供の花嫁をあてがうなんて馬鹿にしている“と否定的な声が聞こえていた。
貴族として育ったリューデルにとっては政略結婚など当たり前で、その年齢が幼齢であることもさして珍しいとも思えなかった。
貴族の婚姻に口を挟むことの方が“馬鹿にしている“と呆れたものだった。
一言いってやろうと立ちあがろうとしたのを商人らしき老人に止められた。
「やめた方がいい、いくらあなたの腕っぷしが強くても、多勢に無勢だ。この状態は今に始まったことじゃない。領主様も何も手を打とうとなさらない。つまりは伯爵様の意向ってことなんだろう。触らぬ神に祟りなしだ───」
(カールだ。この騒動の渦中には絶対にあの男がいる。)
リューデルは私怨をたっぷり滲ませて、憎い男の顔を思い浮かべた。
「軍部の連絡は滞りないんですね?」
ビョルンの声にリューデルは記憶から引き戻された。
「その件は任せてくれないか?奥方様の怪我を東倉庫の伯爵様に必ず伝える。」
厄介な用件を突如として引き受けたリューデルに驚いたが、すぐにビョルンは佇まいを正した。
「頼みます。アンスベルグ少尉。」
ビョルンの表情には、主人への想いがこもっていた。
「伯爵様はまだ?」
ラースの言葉に、セシリアの部屋にいた者たちは一斉に苦い顔をした。
「あれから一週間、何度も早馬を出しましたが〝橋が崩落した帰還を延期する〝との軍への連絡を伝え聞いただけです。」
セシリアの額を拭うエウラリアがラースを睨みつけた。
「熱も下がったようですし、とりあえず山場は越えましたよ、セシリア様。」
俺が早馬を無視してるわけじゃない。そう言いたいのを我慢して、話を逸らすようにセシリアの怪我の話をした。
首を動かすのも傷に響くのか、セシリアは青い顔でラースを見ると瞼を一度しっかりと閉じた。
エウラリアはセシリアの額の汗を真っ白な布巾でそっと拭い、ひたいに張り付いた髪を優しく払うと、水の入った桶を持って部屋を出た。
寝台の足元ではマルタが血の滲んだ包帯と敷布を丸めるようにかき集めている。
「セシリア様、伺ってもよろしいでしょうか?」
ラースが小声で言うとセシリアは「どうぞ」と囁くように掠れた声で言った。
「事故のあった日のことを、セシリア様から伺いたいのです。」
あの日のセシリアの悲鳴がラースの耳に蘇った。
駆けつけたラースがざっと全身を診察したところ、怪我は足に集中していた。
頭を打った形跡がないのを確認するとラースの指示で、セシリアの上半身をオラフが抱き込むようにして抑え、折れていない左足をビョルンが抑えた。
ラースは一思いに右足を引っ張りセシリアの真後ろに曲がった脛の骨を真っ直ぐに戻した。
オラフの巨体に抱きしめられるように押さえつけられたセシリアの声が屋敷中に響いた。
セシリアはその晩から高熱を出し、一時は命も危うい状態だったが一週間経った今、熱は下がり傷口の状態も悪くない。
今も辛そうではあるが、記憶がはっきりしているうちにラースには確認したいことがあった。
「“事故“ではありません───」
事故、と言ったラースの言葉にセシリアが弱々しい声で抗議した。
「やはりそうですか…」
セシリアは目を見開いてラースを見た。
「怪我の状態を見るために、全身を診察いたしました。」
ラースはそこまで言うと迷うように言葉を切ったが、それを振り払うように一つ息を吐いて続けた。
「背中に大きな赤いあざがありました。」
セシリアは何の反応もせずラースの言葉を待った。
「そのあざは次の日の診察時にはほんの少し赤みを残すだけで、もう消えていましたが───あのあざは人の手の形に見えました。」
「先生……このことは誰にも仰らないで……お願いです…」
ラースは部屋の隅に控えているビョルンとオラフを見た。
全く反応がないので二人にこの会話が聞こえたどうかもわからない、ただセシリアの世話をしているエウラリアやマルタがあのあざに気づいていないとは思えない。
ビョルンとオラフも知っていてもおかしくはない。
知られたくないのは、セシリア側の人間ではないということかとラースは腑に落ちた。
ラースはセシリアの目を見て静かに頷いた。
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