うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)

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「ロハス神父とビビが出奔しゅっぽんしたらしいですよ。」

情報通のビョルンが朝の挨拶の後、セシリアに言った。


セシリアはあまりに衝撃的な知らせに、数日前のニールスとの話し合いに悶々もんもんと悩んでいたことを一瞬で忘れそうになった。

「ロハス神父とビビさんが……行く当てはあったのかしら……」

セシリアは恋をすると人は愚かになる、と言ったときのロハスの少し寂しげな顔を思い出した。

「教会が黙ってはいないわよね……」

ロハス神父に潤沢な逃走資金があるようには思えなくて、セシリアは心配で落ち着かない気持ちになる。

「ロハス神父はもともと布教活動の途中で詐欺に遭って、流れ着いたあの村に棲みついた人ですし、彼を帝国の教会が探している様子もありませんでしたからね、今更消えても誰も気にしませんよ。」

「前から思ってたんだけど、ビョルンはどうしてなんでも知っているの?」

「聞いたんですよ、本人に。」

ビョルンは当然だという風にさらりと言った。

「神父とあのビビが?セシリア様は知ってたんですか?出奔って、なんで?」

ビビは兵士の誰かと良い仲だと思っていたレイフは、聖職者と人妻の出奔という驚愕の出来事に、しどろもどろになりながら次々に質問してくる。

「ビビさんは美しかったもの、兵士たちも執拗しつように絡んでいたでしょう?」

セシリアも兵士がいやらしくビビに言い寄っているのを見かけたし、ビョルンもレイフも何度か止めに入った。

レイフは思い出して、深く頷いた。

「このままでは二人の関係に誰かが気がつくのも、時間の問題だったと思うわ。」

ビビとのことを教会に訴え出られたら、ロハスは処刑されることも考えられるのだ。

「セシリア様は、なんとも思わないんですか?神父が人妻とだなんて……神がお許しになりませんよ。」

レイフはどうにも納得がいかないようだった

「私はあの二人が好きだった。好きな人には幸せでいてほしいわ。それに、神はお忙しいもの、あの二人ぐらい許してくださるわよ。」

セシリアが本心からそう言うと、レイフは口を閉じた。

「心配いりませんよ、ロハス神父も男ですし、ビビだって意外にちゃっかりやってますよ。」

ビョルンがそう言うので、セシリアはなんとなく二人はうまく行くかもと楽観的な気持ちを抱きながら、あの楽園のような小さな村を恋しく思った。



「トビアスとリーネはどうしてるかしら……」

村の人たちは大事なものを次々に失ってしまった。

セシリアは、残った村人の今の生活が気がかりだ。

「村の方は心配ですね、エルムンド軍の兵士たちはしつけが悪い。」

レイフがビョルンに何か言い返そうとしたが、思い当たることがあり過ぎて、悔しそうに「人によります…」と小声で言うにとどまった。

「村を出る時、すぐに帰るつもりだったから、みんなに何も言ってこなかったわ。」

「トビアスに手紙を書いてやれば良いですよ、少し待ってろって。」

「少しね……」



関係を築いていきたいと、ニールスは言っていた。


今さらそんなことができるとは思えないし、セシリアはもう別の場所に心を預けてしまった。引き返せない。

アンネのことが誤解であったとか、そんなことはセシリアには最早重要なことではない。

ただもうニールスの隣に立ちたくないし、立てない。その資格ももうない。

いっそニールスに全て話して、村へ帰りたい。

でも不貞を理由に婚姻を無効にされれば、村に帰るどころか生家へ返されて、また父親の言うままにどこかへ嫁ぐことになるかもしれない。

だからといって、罪を犯した自分が王宮に身を寄せることはできない。


せめてなんとか、あの素晴らしい村の人々の安全を確保してから、自分の身の振り方を考えるべきか。


ニールスに対する追い目を感じる一方で、打算的な考えも浮かんで、セシリアはすっかり消耗していた。




 気分を変えたくてセシリアは久しぶりに、エルムンドの町へ出てみることにした。

軽めのドレスにしたけれど馬車の中で息苦しさを感じて、セシリアは何度も身じろぎをして楽な姿勢を探した。

それでも窮屈だしかかとの高い靴も歩きにくくて、エルムンドの暮らしに戻ってきたんだと実感した。



セシリアは馬車でエルムンドの街を大きく一周した。

途中でやっと建設が始まった劇場を見た。

建設技師らしき男の首元に、この国では見かけない鮮やかな緑色のスカーフが見えて、帝国人だとすぐにわかった。

「やっと、着工したんですね。」

マルタは窓の外を食い入るように見ている。


まだまだ始まったばかりで、やっと土台が出来る、といったところのようで、ニールスの言っていた通りだと思った。

ニールスとは彼が言った通り、何度か一緒に食事を摂った。

あれほど気まずい食事もそうそうない。



 急にマルタが馬車のカーテンを閉じたので、セシリアは隙間に指を滑らせてそっとカーテンをめくって外を見た。

建設現場の隅で人足たちがセシリアの乗った馬車をにらみつけている。

こちらをめ付けている人足たちは皆薄汚れている。


少し離れた場所で、その様子を見ている男は動きやすそうな薄手のシャツを着ていて、その意匠デザインからその男も帝国の人間だとわかった。

手に鶴嘴つるはしを持っていて、帝国人の男も人足のようなのに、身なりの違いが際立っていてセシリアは違和感に眉をひそめた。

「帝国の人と、地元の人とで給金が違うのかしら?」

マルタは「さあ、どうでしょう?」と興味なさげに言うだけだった。


騎乗しているビョルンがセシリアが覗いている窓を塞ぐようにぴったりと横についたので、セシリアはカーテンから指を離した。

久しぶりに悪意をまっすぐに向けられて、セシリアは忘れかけていた憂鬱な日々を思い出した。



 屋敷に戻る頃には馬車に乗っていただけなのに、セシリアはぐったりと疲れていた。

グラウスコーゲンでは一日中外で過ごしてもこれほどは疲れなかった。


馬車のステップに置いた爪先が、窮屈な靴に悲鳴をあげた。


よろけそうになりながら馬車から降りたところへ、厚化粧の見知らぬ女が走り寄ってきて、ビョルンが剣を抜いてセシリアの前に出た。

少し遅れてレイフも女に剣先を向けた。

「マッツを返して!」

厚化粧の女が叫んだ。

屋敷の護衛兵たちも駆け寄ってくる。

「この女はどこから入り込んだ!お前たちは何をしていた!」

ビョルンが普段の様子からは想像もつかない、どすの利いた声でどなって、セシリアの体が恐怖で硬直する。

セシリアを守るように、マルタとエウラリアが両脇に立った。

屋敷の馬車止めは、異様な雰囲気に包まれる。

「息子はここでいなくなったのよ!」

女は髪を振り乱して叫び続ける。


「セシリア様危険です、中に入りましょう。」

エウラリアに促されて、硬くなった体をなんとか動かして、屋敷に向かった。



振り返ると、女は護衛の兵士たちに捕まえられて、屋敷の外に引き摺られていくところだった。

「あの子を返して!生贄にするなんて人でなし!」

叫ぶ女はとうとう兵士たちに取り押さえられて、後ろ手に縛られていた。

「この屋敷は呪われてる!その女に皆呪い殺される!」

女の声が屋敷の中までこだまするようだった。



自室に戻りながら、セシリアは女の言ったことを思い出していた。

『生贄を捧げて呪詛を唱えている』こんなおかしな噂を立てられているのはセシリア自身も承知していた。

そのことよりもセシリアは女のことが気にかかった。

「あの方、どこかであった気がするのだけど…」

「あのような女と面識があるわけがありません、お忘れください。」

エウラリアはあの狂気に満ちた女の存在を、その気配ごと無視するつもりのようだ。

(息子、と言っていたわ、返してとも。息子さんがいなくなったの?)

どこかで聞いた…と思った時、階段で突き飛ばされた頃のことを思い出した。

(確かあの頃、屋敷の敷地内で子供がいなくなったと言っていたわ。)

「マッツ………アグネタさん?あの方はアグネタさんなの?いなくなった子供は、マッツ……」

病院の大部屋で、腕を失った父親に付き添い、ニールスから象牙細工の柄がついた小刀を譲り受けていた少年。

記憶から手繰たぐり寄せてみたが、顔までは思い出せない。

誇らしげに小刀を受け取ったあの少年の姿がおぼろげに思い出されて、セシリアは“少年の行方不明”が突然、現実的で身近なものに思えた。




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