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〜猫とお化けトンネル~ACT8
「何を言ってるんですか。秋山さん」
ワゴン車のヘッドライトを落とした事で余裕が出てきたのか、そう言って、こちらに視線を移した浅井陽一は、いつもの柔らかい表情に戻っていた。
「そこに咲ちゃんがいるんでしょ」
そう言った秋山佳奈美は、浅井を睨みつけながら一歩前に踏み出していた。
「本当に何を言っているんですか」
もう一度、同じようなセリフを口にした浅井は、変わらない柔らかい表情のまま続けた。
「先程皆さんで、この周りを探したじゃないですか」
浅井は、更に両手を広げながら言う。
「あれだけ皆で探したのですから、このトンネル付近ではなくて、もう少し離れた場所を探すべきですよ」
少し話をそらすように浅井が話すのに対して、佳奈美が答える。
「じゃあ、その小屋の中には咲ちゃんはいないって言う事」
そう尋ねる佳奈美に浅井が言う。
「あれだけ皆で探したんですから、こんな目立つ小屋、誰かが確認してますよ」
そう言った浅井は、自身に満ちた表情で続ける。
「私はただこの辺りを、一応もう一度見回っていただけですよ」
そう言っている浅井の表情は、変わらず柔らかいままである。
「私達が咲ちゃんを探し回ったトンネルがここならね」
佳奈美は、核心をつく言葉を浅井に向けて発していた。
「それはどういう意味ですか」
そう答えた浅井の表情は、柔らかいままであったが、わずかに引きつったような変化を、私は見逃さなかった。人間では、その変化に気付かないかもしれない。猫である私だから気付いた変化だと言える。
もっとも、私は人間の表情の変化を見ているというより、雰囲気の変化を感じとっているのであるが。実際、猫である私に人間の顔の識別は難しい。私達猫は、顔で人間を識別している部分はあるが、それ以外の部分で識別している事が多いのだ。
「さっき私達が咲ちゃんを捜索したトンネルは、ここじゃなかったって事よ」
そのような事を考えている私の横で、佳奈美は、さらに浅井を追い詰める言葉をはなっていた。
この少し前、私達は浅井と別れてトンネルから一時離れた。最初は、トンネルのある山道を下りて、町にある警察署に向かうためであった。先に下りたスタッフ達が、すでに通報しているはずであるが、佳奈美や私達も合流するためである。
先に下りたスタッフ達は、他のアイドルの女達や共演者を送っていく必要がある。そのため、警察に通報した後、一部のスタッフのみが警察署に残り、他の演者を帰宅させるため、この場所を離れている。
警察署から先に帰るという時も、他のアイドルの女達は、警察署に残って、咲の帰りを待つつもりだったようだが、スタッフ達の説得でなんとか帰路についたようであった。
しかし、私達は、山道を下りずに、このトンネルに引き返してきた。それは、途中このようなやり取りがあったからである。
「もう一度トンネルに戻れっていうの」
帰りの車内での健吾の言葉に、佳奈美は少しイラ立ちながら答えた。
「はい、もう一度トンネル付近を探すべきです」
「もう十分探したでしょ!もう少し離れた場所を探すなら解るけど、同じ所をまた探すっていうの」
佳奈美は、健吾の提案に対して更にイラ立ちながら答えた。
「もう、ここからは、警察にお願いするしか方法がないわ」
さらに、まくし立てるように佳奈美が続けた。
「オレ達は勘違いしていたんです」
健吾は、佳奈美がさらに言葉を続けようとするのを遮るように言う。そして、そう言った後、健吾はすぐに言い直した。
「いや、勘違いさせられていたんです」
その健吾の言葉に、佳奈美は意味がわからないという顔で尋ねる。
「勘違いって何が」
健吾は、佳奈美の目をジッと見つめながら言う。
「さっきオレ達が伊藤さんを探したトンネルと、撮影したトンネルは別の場所だったんです。」
健吾の言葉に、佳奈美だけでなく、高梨あさ美や周りのスタッフも疑問の顔を浮かべていた。
「だから、トンネルは二つあったんです」
健吾は、そう力強く言った後、さらに続けた。
「撮影していたトンネルで、伊藤さんは行方不明になりました」
皆が理解できるように、健吾は言葉をくぎるように話し始めた。
「オレ達は、一度撮影していたトンネルから帰路につきましたが、途中で伊藤さんがいない事に気付いた。」
健吾の話す勢いは止まらない。
「そして、伊藤さんを探すためにトンネルに引き返しました。でも、その時に撮影したトンネルとは別の、似たトンネルに誘導されたんです」
健吾の顔は真剣で、周りのスタッフ達は、健吾の圧倒的な雰囲気に呑まれているようであった。
「そして、オレ達は、別のトンネルを撮影したトンネルと思い込まされて、伊藤さんの捜索をした」
「サブトン」
不意にそう呟いたのは、高梨あさ美であった。
「サブトンって」
そう、あさ美に尋ねたのは、佳奈美である。
「地元の人間なら皆知ってる事なんですけど、お化けトンネルとは別に、いくつかトンネルがあるんです」
あさ美は、健吾や佳奈美だけでなく、周りのスタッフに目をやりながら話し始めた。
「撮影に使ったトンネルと同じくらいの大きさの物や、もっと小さい、人が一人やっと通れるくらいの物もあるみたいです」
今も私はあさ美に抱かれたままであるが、わたしを抱く腕に力が入っているのが感じられた。
おそらくあさ美には、伊藤咲を行方不明にしてしまったという責任と恐怖があるのであろう。元々今回の企画は、あさ美が地元にお化けトンネルがあると、番組内で紹介した事が始まりになっていると言えなくもない。
その責任を感じているのであろう。その責任の重圧を乗り越えるべく、勇気を出して言葉を発している。それが腕の力に表れていた。
おそらく、本来の高梨あさ美という人物は、このように率先して発言するタイプではないのであろう。
「他のトンネルても心霊現象とかがあったみたいで、地元ではサブのお化けトンネルって意味で、サブトンって呼んでるんです」
「じゃあ、私達は撮影に使ったトンネルに似たサブトンの周りを探し回っていたって事?」
佳奈美がすかさずあさ美の言葉に続ける。
「そうです。そして、オレ達を他のサブトンに誘導できる人間は一人しかいません」
健吾の続けた言葉に対して
「浅井陽一」
佳奈美がそう呟いた。
「はい、彼が伊藤咲さんを拐った犯人です」
健吾の言葉に、佳奈美の顔はみるみる青くなっていった。
「状況的に考えて、伊藤さんは撮影に使ったトンネル付近にいると思います。そうでなければ、捜索する場所を別の場所にする必要はありませんから」
「わかったわ。戻りましょうお化けトンネルに」
佳奈美はすぐに決断した。実際、時間の猶予はそれほどない。浅井陽一が伊藤咲を違う場所に移してしまえば、見つけ出す事は難しくなる。そのため、早くトンネルに向かう必要があったのだ
ワゴン車のヘッドライトを落とした事で余裕が出てきたのか、そう言って、こちらに視線を移した浅井陽一は、いつもの柔らかい表情に戻っていた。
「そこに咲ちゃんがいるんでしょ」
そう言った秋山佳奈美は、浅井を睨みつけながら一歩前に踏み出していた。
「本当に何を言っているんですか」
もう一度、同じようなセリフを口にした浅井は、変わらない柔らかい表情のまま続けた。
「先程皆さんで、この周りを探したじゃないですか」
浅井は、更に両手を広げながら言う。
「あれだけ皆で探したのですから、このトンネル付近ではなくて、もう少し離れた場所を探すべきですよ」
少し話をそらすように浅井が話すのに対して、佳奈美が答える。
「じゃあ、その小屋の中には咲ちゃんはいないって言う事」
そう尋ねる佳奈美に浅井が言う。
「あれだけ皆で探したんですから、こんな目立つ小屋、誰かが確認してますよ」
そう言った浅井は、自身に満ちた表情で続ける。
「私はただこの辺りを、一応もう一度見回っていただけですよ」
そう言っている浅井の表情は、変わらず柔らかいままである。
「私達が咲ちゃんを探し回ったトンネルがここならね」
佳奈美は、核心をつく言葉を浅井に向けて発していた。
「それはどういう意味ですか」
そう答えた浅井の表情は、柔らかいままであったが、わずかに引きつったような変化を、私は見逃さなかった。人間では、その変化に気付かないかもしれない。猫である私だから気付いた変化だと言える。
もっとも、私は人間の表情の変化を見ているというより、雰囲気の変化を感じとっているのであるが。実際、猫である私に人間の顔の識別は難しい。私達猫は、顔で人間を識別している部分はあるが、それ以外の部分で識別している事が多いのだ。
「さっき私達が咲ちゃんを捜索したトンネルは、ここじゃなかったって事よ」
そのような事を考えている私の横で、佳奈美は、さらに浅井を追い詰める言葉をはなっていた。
この少し前、私達は浅井と別れてトンネルから一時離れた。最初は、トンネルのある山道を下りて、町にある警察署に向かうためであった。先に下りたスタッフ達が、すでに通報しているはずであるが、佳奈美や私達も合流するためである。
先に下りたスタッフ達は、他のアイドルの女達や共演者を送っていく必要がある。そのため、警察に通報した後、一部のスタッフのみが警察署に残り、他の演者を帰宅させるため、この場所を離れている。
警察署から先に帰るという時も、他のアイドルの女達は、警察署に残って、咲の帰りを待つつもりだったようだが、スタッフ達の説得でなんとか帰路についたようであった。
しかし、私達は、山道を下りずに、このトンネルに引き返してきた。それは、途中このようなやり取りがあったからである。
「もう一度トンネルに戻れっていうの」
帰りの車内での健吾の言葉に、佳奈美は少しイラ立ちながら答えた。
「はい、もう一度トンネル付近を探すべきです」
「もう十分探したでしょ!もう少し離れた場所を探すなら解るけど、同じ所をまた探すっていうの」
佳奈美は、健吾の提案に対して更にイラ立ちながら答えた。
「もう、ここからは、警察にお願いするしか方法がないわ」
さらに、まくし立てるように佳奈美が続けた。
「オレ達は勘違いしていたんです」
健吾は、佳奈美がさらに言葉を続けようとするのを遮るように言う。そして、そう言った後、健吾はすぐに言い直した。
「いや、勘違いさせられていたんです」
その健吾の言葉に、佳奈美は意味がわからないという顔で尋ねる。
「勘違いって何が」
健吾は、佳奈美の目をジッと見つめながら言う。
「さっきオレ達が伊藤さんを探したトンネルと、撮影したトンネルは別の場所だったんです。」
健吾の言葉に、佳奈美だけでなく、高梨あさ美や周りのスタッフも疑問の顔を浮かべていた。
「だから、トンネルは二つあったんです」
健吾は、そう力強く言った後、さらに続けた。
「撮影していたトンネルで、伊藤さんは行方不明になりました」
皆が理解できるように、健吾は言葉をくぎるように話し始めた。
「オレ達は、一度撮影していたトンネルから帰路につきましたが、途中で伊藤さんがいない事に気付いた。」
健吾の話す勢いは止まらない。
「そして、伊藤さんを探すためにトンネルに引き返しました。でも、その時に撮影したトンネルとは別の、似たトンネルに誘導されたんです」
健吾の顔は真剣で、周りのスタッフ達は、健吾の圧倒的な雰囲気に呑まれているようであった。
「そして、オレ達は、別のトンネルを撮影したトンネルと思い込まされて、伊藤さんの捜索をした」
「サブトン」
不意にそう呟いたのは、高梨あさ美であった。
「サブトンって」
そう、あさ美に尋ねたのは、佳奈美である。
「地元の人間なら皆知ってる事なんですけど、お化けトンネルとは別に、いくつかトンネルがあるんです」
あさ美は、健吾や佳奈美だけでなく、周りのスタッフに目をやりながら話し始めた。
「撮影に使ったトンネルと同じくらいの大きさの物や、もっと小さい、人が一人やっと通れるくらいの物もあるみたいです」
今も私はあさ美に抱かれたままであるが、わたしを抱く腕に力が入っているのが感じられた。
おそらくあさ美には、伊藤咲を行方不明にしてしまったという責任と恐怖があるのであろう。元々今回の企画は、あさ美が地元にお化けトンネルがあると、番組内で紹介した事が始まりになっていると言えなくもない。
その責任を感じているのであろう。その責任の重圧を乗り越えるべく、勇気を出して言葉を発している。それが腕の力に表れていた。
おそらく、本来の高梨あさ美という人物は、このように率先して発言するタイプではないのであろう。
「他のトンネルても心霊現象とかがあったみたいで、地元ではサブのお化けトンネルって意味で、サブトンって呼んでるんです」
「じゃあ、私達は撮影に使ったトンネルに似たサブトンの周りを探し回っていたって事?」
佳奈美がすかさずあさ美の言葉に続ける。
「そうです。そして、オレ達を他のサブトンに誘導できる人間は一人しかいません」
健吾の続けた言葉に対して
「浅井陽一」
佳奈美がそう呟いた。
「はい、彼が伊藤咲さんを拐った犯人です」
健吾の言葉に、佳奈美の顔はみるみる青くなっていった。
「状況的に考えて、伊藤さんは撮影に使ったトンネル付近にいると思います。そうでなければ、捜索する場所を別の場所にする必要はありませんから」
「わかったわ。戻りましょうお化けトンネルに」
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