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3. 瀬戸際ビル
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車を降りた松本は、少し戻って新町橋南詰を東に折れて東船場の一方通行道に入ると何の気もない素振りでスタスタ歩いていたが、銀行の角を曲がったとたん、すっと石造りの柱の陰に身を寄せた。たとえ彼に注目していた人物がいたとしても、一瞬で消えたと思いそうなほどの自然さと素早さである。
それから、カメラ・バッグをビルの犬走りに置いて黒いカメラを取り出すと、細めのストラップをさっと首にかけ、望遠レンズの付いた本体をコートの中に隠しながら、急に待ち合わせでもしているような手持ち無沙汰そうな顔になってふらりと突っ立った。耳には黒いイヤホンが入っている。
一方の三鬼は、対象者の車を追って駐車場に入ると、少し離れたところに空きを見つけて駐車した。ちょうど、松本から連絡が入った頃だ。
「こちらM、準備できました。 」
「こちらmimi。了解、今から車を降りる。 」
「了解。 」
対象者は尾行に気づく様子もなく、北側の階段を上がって地上に出ていく。(ちなみに、この駐車場にエレベータはない。)五十代のはずだが、ずいぶん軽い足取りだ。
「こちらmimi、今北通路を上がった。ベージュのボックス・コートに紺のスーツ」
「了解。」
ほどなく北通路から地上に出た対象者が、広い中央分離帯となっている緑地に姿を表した。ベージュのコートの内側に入れた襟巻きを直しながら、こちらに向かって信号待ちをしている。松本が柱の影からカメラを構えると、望遠レンズを通したファインダーの中に、資料で見た男性の顔が確認できた。即座に数枚撮って、また柱の陰に身を隠す。
「こちらM。対象者確認しました。 」
「了解。 」
信号が変わったタイミングで、それまで通路の出口に隠れていた三鬼も歩き出し、対象者と一定の間隔を取りながらこちらに向かっている。目的地と思われる瀬戸際ビルは、松本が隠れている銀行を通り過ぎてすぐ向かい側にある。新町川に沿ったこのあたりの通りは一方通行が多く、対岸の川上探偵事務所の前は西向き、目の前の道は東向きの一方通行だ。交通量もそんなにないから、男性は歩きながら車の間をすり抜けて斜め横断し、向こう側のビル沿いに歩いていく。
道幅もあまりないのに、大胆にも松本は真横からのショットを敢行した。しかし、男性は脇目もふらずに早足で歩き続け、気付く様子もなく瀬戸際ビルのエントランス・ホールに入っていった。松本が静かに連続シャッターを切ったのは、言うまでもない。
とはいえ、このビルに入るところを撮っても、単なる立ち寄り先の情報にしかならない。なぜなら、このビルの一階には喫茶店、二階には画廊、三階には美容院、四階にはヨガスタジオ、五階にはゲーム開発会社が入居していて、常識的に言って不倫現場とは考えにくいからだ。妻である依頼者からの情報でも、このビルにいるのはだいたい一時間半ぐらいで、その後鳴門のホテルに移動するらしい。撮り終わった松本がすっとしゃがんでバッグにカメラを仕舞っていると、尾行してきた三鬼が横に立ってビルを見ながら言った。
「金曜の夜とはいえ、よく入ってるよなあ。 」
確かに、人の出入りは多い。こうして見ている間にも次々と入って行く人があるし、ときどき出ていく人もある。
まだ夕方の六時だから、喫茶店はもちろん画廊も美容院もヨガスタジオも、普通に営業時間内だ。ゲーム開発会社だけは人の出入りがそれほどある職種でもないが、実はこのビルで一番遅くまで灯りがついている。深夜になって六階のオーナー宅の灯りが消えてもまだ点いていて、たまに早朝出勤した時も既に点いていたから、「ほぼ二十四時間やってるんじゃないか? 」というのは川上所長の弁である。
「ここでぼーっと待ってるのもなんだから、あたし、ちょっと喫茶店入ってみるわ。 もしかして、女といるかもしれないし。 」
「えっ!? 」
松本がぎょっとしたような声を上げたので三鬼が驚いて見下ろすと、若い後輩は眉間に皺(しわ)をよせて立ち上がり、小声で食って掛かってきた。
「そんなの、ずるいじゃないですか!? 僕だって食べたいですよ、あそこのフルーツ・タルト! 」
「だれがフルーツ・タルト食いに行くんだよ! 」
「でも、食べるんでしょ!? 」
「そりゃ……何も注文しないでいられる訳ないだろ? 」
「ほら、やっぱり! 」
そのとき後ろから男の手が伸びて、いきなりぐいっと松本の肩を掴(つか)んだ。
それから、カメラ・バッグをビルの犬走りに置いて黒いカメラを取り出すと、細めのストラップをさっと首にかけ、望遠レンズの付いた本体をコートの中に隠しながら、急に待ち合わせでもしているような手持ち無沙汰そうな顔になってふらりと突っ立った。耳には黒いイヤホンが入っている。
一方の三鬼は、対象者の車を追って駐車場に入ると、少し離れたところに空きを見つけて駐車した。ちょうど、松本から連絡が入った頃だ。
「こちらM、準備できました。 」
「こちらmimi。了解、今から車を降りる。 」
「了解。 」
対象者は尾行に気づく様子もなく、北側の階段を上がって地上に出ていく。(ちなみに、この駐車場にエレベータはない。)五十代のはずだが、ずいぶん軽い足取りだ。
「こちらmimi、今北通路を上がった。ベージュのボックス・コートに紺のスーツ」
「了解。」
ほどなく北通路から地上に出た対象者が、広い中央分離帯となっている緑地に姿を表した。ベージュのコートの内側に入れた襟巻きを直しながら、こちらに向かって信号待ちをしている。松本が柱の影からカメラを構えると、望遠レンズを通したファインダーの中に、資料で見た男性の顔が確認できた。即座に数枚撮って、また柱の陰に身を隠す。
「こちらM。対象者確認しました。 」
「了解。 」
信号が変わったタイミングで、それまで通路の出口に隠れていた三鬼も歩き出し、対象者と一定の間隔を取りながらこちらに向かっている。目的地と思われる瀬戸際ビルは、松本が隠れている銀行を通り過ぎてすぐ向かい側にある。新町川に沿ったこのあたりの通りは一方通行が多く、対岸の川上探偵事務所の前は西向き、目の前の道は東向きの一方通行だ。交通量もそんなにないから、男性は歩きながら車の間をすり抜けて斜め横断し、向こう側のビル沿いに歩いていく。
道幅もあまりないのに、大胆にも松本は真横からのショットを敢行した。しかし、男性は脇目もふらずに早足で歩き続け、気付く様子もなく瀬戸際ビルのエントランス・ホールに入っていった。松本が静かに連続シャッターを切ったのは、言うまでもない。
とはいえ、このビルに入るところを撮っても、単なる立ち寄り先の情報にしかならない。なぜなら、このビルの一階には喫茶店、二階には画廊、三階には美容院、四階にはヨガスタジオ、五階にはゲーム開発会社が入居していて、常識的に言って不倫現場とは考えにくいからだ。妻である依頼者からの情報でも、このビルにいるのはだいたい一時間半ぐらいで、その後鳴門のホテルに移動するらしい。撮り終わった松本がすっとしゃがんでバッグにカメラを仕舞っていると、尾行してきた三鬼が横に立ってビルを見ながら言った。
「金曜の夜とはいえ、よく入ってるよなあ。 」
確かに、人の出入りは多い。こうして見ている間にも次々と入って行く人があるし、ときどき出ていく人もある。
まだ夕方の六時だから、喫茶店はもちろん画廊も美容院もヨガスタジオも、普通に営業時間内だ。ゲーム開発会社だけは人の出入りがそれほどある職種でもないが、実はこのビルで一番遅くまで灯りがついている。深夜になって六階のオーナー宅の灯りが消えてもまだ点いていて、たまに早朝出勤した時も既に点いていたから、「ほぼ二十四時間やってるんじゃないか? 」というのは川上所長の弁である。
「ここでぼーっと待ってるのもなんだから、あたし、ちょっと喫茶店入ってみるわ。 もしかして、女といるかもしれないし。 」
「えっ!? 」
松本がぎょっとしたような声を上げたので三鬼が驚いて見下ろすと、若い後輩は眉間に皺(しわ)をよせて立ち上がり、小声で食って掛かってきた。
「そんなの、ずるいじゃないですか!? 僕だって食べたいですよ、あそこのフルーツ・タルト! 」
「だれがフルーツ・タルト食いに行くんだよ! 」
「でも、食べるんでしょ!? 」
「そりゃ……何も注文しないでいられる訳ないだろ? 」
「ほら、やっぱり! 」
そのとき後ろから男の手が伸びて、いきなりぐいっと松本の肩を掴(つか)んだ。
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