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35 冥界からの使者

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 メフィストフェレス調査隊のことをまだ知らないロディユは、身動きできない状況が耐えられず、吸血鬼の村の外へ出ていた。

「キュー、キュー!」

 ロディユは岩場の石を椅子にして、アクアをぼーっと眺めていた。
 アクアは楽しそうに魔虫を狩り、ガリガリと音を立てて美味しそうに食べている。

「——アクア、あまり遠くへ行くなよ」
「キュー」

『——あら、しけた表情してるわね』
「うわっ!!!」

 ロディユの足元から、クレアが現れた。
 嬉しそうにロディユの足首を握りしめ、地面から顔を覗かせている。

『ロディユー』
『いたー』
『おどろいてたー』

 同じく地面から出てきた死精霊は、ロディユの顔の周りをうようよ漂い始める。

「はぁ……。何か用ですか?」

 ロディユはクレアに冷たい視線を送る。

『あら、久しぶりの対面なのに冷たいわね。一時間くらい探し回っていたんだから、その分喜んでほしいわ』
「え?」

 ロディユは首を傾げた。

『冥界人だって、全ての場所へ行けるわけではないのよ。特殊な結界がこの周囲に張られていて、誰か出てくるまで待つしかなかったの。ちなみに、この場所はルシファー経由でハデス様から教えてもらったわ』
「そうですか。でも、この場所は漏らさないでくださいね?」
『もちろんよ。それで、ここに来た理由だけど……』

 クレアの顔は、急に真面目な表情へ。

『人間街が破壊されたことは冥界も知っているわ。とても許されることじゃない……。それでね、そのことについてハデス様から伝言を預かっているの。ハデス様の親友とまだ行動を共にしているでしょう?』
「うん」

 クレアが口を開きかけた時、一体の死精霊が少し離れたところで突然声を上げる。

『——やめー! たべるなー』

 ロディユとクレアは慌ててそこへ視線を向けると——。
 ロディユの顔は真っ青になる。
 死精霊がアクアに咀嚼されていたからだ。

「アクア! それは食べのもじゃないよ!?」
「キュ?」

 アクアは首を傾げながら、死精霊をゴクリと飲み込んだ。

「あ!? クレアさん、ごめん!」

 ロディユは、クレアに深く頭を下げて謝罪した。

『大丈夫よ~。だって私たち死なないもの。ほら……』

 クレアは笑顔を浮かべていた。
 食べられた死精霊は、『もー。だめー』と言いながら、アクアの腹から抜け出していた。
 ロディユはホッとした表情を浮かべて「よかった……」とぼやく。
 アクアは食べた感触がなかったので、不満げに逃げ出した死精霊を見つめていた。

『ね? さて、ちょっと邪魔が入ったけど、伝言を伝えるわね——』





 ロディユはクレアと別れるとすぐ、イリヤの家に向かった。

「——イリヤさん! ……あれ? みんなもいたんだ?」

 イリアに声をかけながら扉を開けると、そこにはイリヤだけでなく、ポセとミカエルもいた。

「ロディユ、ちょうどいいところに戻ってきてくれた。新しい情報について話していたところだ」
「ポセさん、それはもしかして、魔人が希望の塔を調査して襲撃を受けた、という話ですか?」
「どうして知っている? 先ほど報告を受けたばかりなのだが?」

 三人とも驚きの表情を浮かべていた。

「実は、村の外でクレアさんに会ったんだ。その時、ハデス様からの伝言を受け取った」
「聞かせてくれ。我らにはハデスの話は届いていない」
「うん」

 ロディユはミカエルが座る二人用のソファーに座った。

「人間街が襲撃された後、被害者は冥界に誰一人落ちてこなかったらしいよ」
「新たな情報では、希望の塔が人間の魂を取り出して魔力を抽出していることがほぼ確定している。魂を抽出された時点で冥界に行くのではないか?」

 ポセはロディユの説明に納得していなかった。

「魂と身体が切り離された状態では、完全な死とは言えないんだ。真の魂を持たない吸血鬼やアンデッドと同じような状態なんだよ」

 ロディユの代わりにイリヤがポセの疑問に答えた。

「魂を取られた体はどうなってるんだろう……? まさか、アンデッド兵器として神域に利用されるんじゃ……?」
「可能性は高い。それを考えて冥界のハデスは動いたんだろう。生命の禁忌に触れているからな」

 吸血鬼だからこそ知る情報をイリヤは付け加えた。

「生命の禁忌? 『転化』とは違うの?」

 イリア以外は聞き覚えのない言葉だった。

「吸血鬼やアンデッドに変える『転化魔法』は、生命の禁忌の一つだ。一般的には、その方法しか知られていない。他の方法がもう一つだけあるんだが、それが使えるのは、冥界人の二人しかいないと言われている」
「まさか……その一人はハデス様……?」
「たぶんね。誰が使えるのかまでは知らないけど、ベルセポネがもう一人の人物だと思う」

 イリヤの言葉にポセが口を開く。

「ハデスはそんな禁忌を犯さないだろう。可能性が高いのは、妻のベルセポネだな」
「どうしてそう思うの?」

 ポセが確信に満ちた言い方をしていたので、ロディユは気になって質問した。

「ベルセポネは元神域人だ。今はハデスの妻になって冥界に暮らしているが、閉じ込められた空間に飽きている、という話を聞いたことがある。時々、地上へ出て息抜きしているくらいだった。それに、神域にいた時はゼウスに可愛がられていたから、関わっている可能性は高い。おそらく、功績を挙げて神域へ戻ろうとしているのだろう」
「クレアさんの話では、冥界は中立を保つべきなんだけど、『神域の目に余る行為が看過できない』という理由で手を貸してくれるそうだよ。僕たち同盟軍の考えにも賛同してくれたらしい」
「ハデスが同盟軍に入るのは、神域も予想していないだろう。ようやくツキが回ってきたな」

 ポセの発言に三人は大きく頷く。

「そうだ。このペンダントを預かったよ。これでクレアさんを呼び出して、ハデス様と連絡がとれるみたい。でも、村の外で使った方がいいよ。吸血鬼の人たちは、この村の中に部外者を入れたくないだろうから」

「悪いな」と言いながら、イリヤは軽く頭を下げた。
 ロディユからネックレスを手渡されたポセは、それを首にかける。

「あと、必要なら連絡用死精霊を眷属として契約させてくれるらしいよ。僕たちだけにしか見えない死精霊を。同盟軍の間でそれを活用していいって」
「ふむ……それは、この村を出てから借りることにしよう。今日中にここを出発するから、準備しておいてくれ。ミカ、今の情報を全世界に漏らしておけ」
「畏まりました」


***


 ヘカテーの館前。

 ハデスは訪問することを伝えず、一人でこの館に来ていた。
 館の扉を押し開けると、黒いスーツを着た男——ダニエルが廊下を歩いているところをハデスが見かける。 

「ダニエル、ちょうどよかった」
「ハデス様!」

 ダニエルは慌てて扉の方へ駆け寄り、深々と頭を下げる。

「よ、ようこそ、門番ヘカテーの館へ。今日はど、ど、ど、どういったご用件で?」

 ダニエルはハデスが来るなら必ず覚えているはずなので、慌てていた。

「急用でヘカテーに会いに来た」
「今日は一日執務室におられます。ここにお呼びしますね——」
「いや、必要ない。内々に話がしたいので、部屋まで案内してくれないか?」
「か、畏まりました!」

 ダニエルは背筋を異常に伸ばしながら、ヘカテーの執務室へ案内する。
 背後にハデスがいるだけで緊張し、すぐに逃げ出したい気持ちだった。

「こちらがヘカテー様の執務室です」

 ダニエルはヘカテーの部屋の扉をノックした。

「ヘカテー様、ダニエルです」
『——まだ何か用か?』
「ハデス様がお越しです」
『なんの冗談だ? ハデス様がここに来るわけがなかろう。今日はゆっくりしたいと言ったはずだぞ? さては、昨日、仕事を丸投げした腹いせだな?』

 部屋の中からヘカテーが長々と余計なことを言うので、ダニエルは心の中で頭を抱える。

「ヘカテー様、こんな冗談を言うわけがありません! ハデス様がお越しです! 早く開けてください!!!」

 ダニエルは背後から感じるハデスのプレッシャーに耐えながら、懇願するように告げた。
 内心はヘカテーに暴言を吐いているのだが……。

『——なに!?』

 黒い唇、黒い髪、黒い眼、黒いドレス……全身黒づくめの女性——ヘカテーが慌てて扉を開けた。

「ハデス様! お待たせして申し訳ありません! どうぞお入りください!」

 ヘカテーとダニエルは、深く腰を折った。

「気にするな。ダニエル、世話になったな。後日休みをとるがいい。ヘカテー、それで良いな?」
「はい! もちろんでございます!」

 ヘカテーはペコペコと頭を下げた。

「ハデス様の温情、感謝いたします」

 ダニエルはそう言って一礼し、その場から急いで消えた。
 
「どうぞ、こちらへお座りください」

 ヘカテーとハデスは、向かい合うように一人掛けソファーに座った。

「——早速だが、ベルセポネを見かけていないか?」

 ハデスは座るなり、ヘカテーに問いかけた。

「お妃様は数日間、地上へ行ったきり戻っておりませんが」
「いつ頃戻るか聞いているか?」
「明日と伺っております」
「そうか。では戻ってきたらすぐ、ベルセポネを『禁忌を犯した罪』で捕らえてくれ」

 ハデスの目はいつも以上に冷たかった。
 ヘカテーはその視線を見て、冗談でないことをすぐに察する。

「どのような禁忌を犯したでしょうか?」
「希望の塔が魔人を襲撃したことは聞いているな?」
「はい。配下の者から……」
「希望の塔は人間などから魂を抜き出し、魔力を抽出していることが判明した。それは、『生命の禁忌』に相当する」

 ヘカテーはその言葉を聞き、顔を真っ青にした。

「まさか……」
「そんなことを可能にするのは、私とベルセポネだけだ。もちろん、私が犯すわけはない……」
「恐れながら……。ベルセポネ様は、神域に敵対するような発言をしておりましたが?」
「我らを欺くためであろうな」

 ハデスの氷のような冷たい表情を目の当たりにしたヘカテーは、それ以上意見を言えなくなった。

「畏まりました。罪人ベルセポネを必ず捕らえます」
「あいつは、すでに私が気づいていると考えているだろう。よって、ここには戻ってこない可能性が高い」
「では、公開手配しますか?」
「頼む。私以外にベルセポネを拘束できるのは、お前だけだ。頼んだぞ」
「心得ております」

 ヘカテーは深々と頭を下げた。
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