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一章
思い出さなくても② ※
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(どうしようどうしようどうしよう)
もう本当に、見つかるわけにはいかなくなってしまった。
ルシアン様が一人で慰めている現状に頭がついていかず、ただ息を殺して終わるのを待つ。
盗み聞きしていることに対する謝罪を心の中で繰り返し、ぎゅっと目を瞑って抱えた膝に頭を埋める。
「は……っあ、セシリア」
「……っ⁉︎」
吐息混じりに名前を呼ばれ、恐怖でひゅっと喉が鳴った。
盗み聞きしていることがバレたのかと思い身構えるが、どうやらそういうわけではないらしい。しばらく待っても音は止まず、ルシアン様は一人での行為を続けている。
「……っ、ん……セシリア、っは……」
聞いたことのない掠れた声に、ごくりと唾を飲み込む。
どんどん熱っぽくなる吐息と、激しくなる濡れた音。つまり、私の名前を呼びながら、ソウイウコトをしているのだろう。
聞いたことのないルシアン様の声に、ドキドキバクバクと心臓がうるさい。
――ルシアン様はこういう時、私のことを考えてくれるんだ。
そう思うだけで体の中心にぶわり熱が広がり、お腹の下辺りが疼いたような気がした。
姿を見ているわけではないのに、ルシアン様が何をしているのかを、音だけで生々しく想像してしまう。
切ない声色で紡がれる自分の名前を聞いているだけなのに、どんどんおかしな気分になってきて――駄目だ。
「は……うっ、はぁ……」
ルシアン様が小さく呻くと同時に、水気を帯びた肌を擦る音がようやく止まる。
はぁ……という疲れの滲む溜息と、衣擦れ。布で拭いて処理をしたのだろう音に、ルシアン様が達したことを察して、すうっと深く息を吸い込む。
こんなことで欲情している自分が信じられない。勝手に聞き耳を立てて興奮して、やっていることが完全に変質者だ。
熱を帯びた身体を覚ますようにその場で固まっていると、ごそごそとベッドに入る音が聞こえてくる。ルシアン様が眠る体勢に入ったことに安心して息を落とすと、扉の隙間から差し込んでいた灯りが消えた。
(もう少し時間を置いたら静かに出ていこう)
うまく脱出できるかは分からないが、もうやるしかないだろう。こんなところで一晩を過ごすわけにはいかないのだ。
時間も分からず、周囲の様子も見えない暗闇。どうしてこんなことをしてしまったのだろうと後悔はしているが、勝手なことに、先ほどよりも私の中の不安は薄れている。
ルシアン様が私の名前を呼んでいたことが泣きそうなほどに嬉しくて、ようやく少しだけ安心できた。ここで違う女性の名前が聞こえていたら、私は心が砕けていたはずだ。
(とはいえ、ずっとここにいるわけにもいかないし、そろそろ寝息か何かが聞こえると嬉しいんだけど……)
衣装室から出るタイミングを窺うため、扉に近づき外の音を確認しようとした。その瞬間、何かにショールを引っ掛けてしまい、ドサッという大きな音を立てて、私の真横にトルソーが倒れる。
扉の隙間から、再びランプの灯りが薄く差し込んだ。
「……っ」
まずいと思った瞬間に扉が開かれ、冷たい瞳をしたルシアン様がこちらを見下ろす。
侵入者が私だと分かるとすぐに表情は緩められたが、私がピンチであることに何ひとつ変わりはない。
「……セシリア? こんなところで何をしてるの?」
「っあ、その」
「今のはこれが倒れた音? 怪我はしていない?」
「……怪我は、していないです」
「そう。それならいいけど」
何もよくない状況だが、ルシアン様もこの状況に困惑しているらしい。何を言えばいいのか分からないという表情をしながらも、ゆっくりと私に手を差し伸べる。
「立てる?」
「た、立てます……。ごめんなさい、あの……」
「……ああ、そうか。セシリア、何か聞こえていた?」
気まずそうな声でルシアン様が口にした質問に、私は嘘をつくことが出来なかった。
ゆっくりと私が頷くと、難しい顔をしたルシアン様は、額を押さえて一度大きく息を吐く。
「……そう。ごめんね、嫌なものを聞かせて」
「え……そんな、嫌なものだなんて……!」
「いや、少なくともセシリアに聞かせていいものじゃなかったよ」
そんなことはないと私が否定するよりも先に、ルシアン様がぱっと表情を変える。
困ったように微笑みかけられ、「セシリア」と柔らかい声で名前を呼ばれた。
「ごめん、この話はもう終わろうか。部屋まで送るよ」
全部私のせいなのに、何故かルシアン様に謝らせてしまった。
どこまでも私を気遣うような優しい声の出し方と、困ったような表情。どうすればいいのか分からず、咄嗟にルシアン様の袖を掴む。
「セシリア?」
「あの……い、嫌じゃなかったんです、私。本当に……ルシアン様が私のことを想像してるのかなって思うとドキドキして、だから……」
「……そう。本当に全部聞いていたんだね」
どこか諦めたような声色に、ぎゅっと心臓が痛くなる。だけど私は、ただ聞いていたことを宣言するために、こんな話をしているわけではないのだ。
「いつも、私から誘っても何もしてもらえないから、ルシアン様は私に興味がないんだって思っていて……。でも、違うんです……よね?」
「うん、もちろん。何よりも大切にしているつもりだけど、ちゃんと伝わっていない?」
「大切にしてもらっているのは伝わってます。でも、その……私がこのままずっと思い出さなかったら、ルシアン様はどうするんですか?」
「どうするって、何? 無理に思い出そうとする必要はないし、セシリアが記憶を失ったままでも別に僕は構わないよ」
「……っでも、今の私はきっと、ルシアン様が好きになってくれた私とは別人で……。だからそういうことをしてくれないのかなって、ずっと不安に思っていて……」
話し出すと止まらず、言葉がぐちゃぐちゃでまとまらない。
それでも、ルシアン様は私の言いたいことをちゃんと汲み取って、私の欲しい返事をくれる。
「細かい癖も笑い方も、声も、好きな食べ物も、全部以前と変わらないよ。この屋敷に来てくれた時と同じ、僕が好きになった、大切で愛しいセシリアだ。今のセシリアのことも同じように愛してる。記憶を失くした自分を責めなくてもいいし、無理に思い出す必要なんてないよ」
優しく頭を撫でながら紡いでくれる、私を慰めるような言葉。だけど、この言葉はきっと本心で、ルシアン様が嘘を吐いているようにも思えない。
それならどうして、今の私は以前と同じように、ルシアン様に触れてもらえないのだろうか。
「本当は思い出したいです。何もしてもらえないと、今の私じゃ駄目だって言われているみたいで……」
「それじゃあ、一度してみようか」
静かに落とされた声に、思わず顔を上げる。
一度してみると言われても、今日の私は下着を脱ぐこともできないのに。
「でも、今は私……」
「分かってる、最後まではしないよ。少し触ってみるだけ」
言いながら、ルシアン様もその場に膝をつく。
私の肩口に顔が埋められ、首筋に息が触れるとぞくぞくと肌が粟立った。
一人で慰めている時のルシアン様の声を思い出し、それが自分に向けられることを想像してしまう。
「どうする? 触っていいの?」
「お……お願いします……」
「分かった。口開けて」
「え? ……っあ」
唇が触れたかと思うと、薄く開いた隙間からぬるりと舌が差し込まれる。後頭部を片手で押さえられ、後ろに逃げることもできない。
私の呼吸ごと奪うように、口の中がルシアン様に支配されていく。
「はっ……ぁ、ルシア……っは」
「セシリア……」
舌を絡め取られ、時折吸われる。空気を求めてわずかに唇が離れても、まともな呼吸もさせてもらえないまま、また深く口付けられて口内が厚い舌で撫でられた。
初めての感触に、腰の辺りがゾワゾワする。
決して嫌なわけではないのに、気持ち良くて自然と涙が瞳に浮かび、その瞬間に唇が離れた。
「……っあ」
「はぁ……。ほら、ね? 無理そう」
濡れた唇で告げられ、困ったような微笑みを向けられる。
小さな子供のワガママに呆れているような表情に、かあっと顔に熱が集まった。
「……全然、無理じゃないです。あの、まだキスだけで……。触るって言ってくれたのに、この続きはしてくれないんですか……?」
「キスだけで泣きそうになってるセシリアに、これ以上のことができるわけないでしょ」
「っこれは、ただ嬉しくて気持ち良いから……。その、自然と出てきて」
「うん、でもやっぱりやめよう。久しぶりで手加減してあげられるかも分からない。もし、何か間違ったことをしたら――」
「……っ! る、ルシアン様と私はもう結婚していますし、何をしても間違いにはならなっ、」
「セシリア」
冷たい声で名前を呼ばれ、その先を言うことは咎められた。
一瞬、ルシアン様の眉間に深い皺が刻まれたように見えて、心臓がひゅっと竦む。
「ルシ……」
「そういう考え方はよくないよ。夫婦だからといって、何をしてもいいわけじゃない」
顔を逸らされて言われた一言で、ルシアン様からまた壁を作られたことが分かった。
おそらく私は、どこかで言葉の選び方を間違えてしまったのだろう。
交わらなくなった視線から、拒絶されたことを痛いほどに感じて苦しくなる。
(ただ、ルシアン様になら何をされても嫌じゃないって言いたかっただけなのに、どうすればよかったんだろう)
夫婦だからといって、何でもしていいわけがない。
わざわざそんな忠告をされるほどの何かを、記憶を失う前の私は、ルシアン様にしてしまったのだろうか。
(私に記憶があれば、こんな失言をすることもなかったかもしれないのに)
気まずい空気の中、「部屋まで送るよ」とルシアン様が言ってくれたことで、沈黙から抜け出すことができた。
大人しく自室まで送られ、一人でベッドに寝転んでから、すうっと大きく息を吸い込む。
また嫌われてしまった気がして、ポロポロと涙が落ちた。
――夫婦らしい触れ合いは、この先もずっと訪れないかもしれない。
下着の中の不快感は、きっとあと数日で終わる。
しかし、再び一緒に眠れる状態に戻っても、ルシアン様が私を抱いてはくれる可能性はゼロに近いのだろうと、それだけを察してしまった。
もう本当に、見つかるわけにはいかなくなってしまった。
ルシアン様が一人で慰めている現状に頭がついていかず、ただ息を殺して終わるのを待つ。
盗み聞きしていることに対する謝罪を心の中で繰り返し、ぎゅっと目を瞑って抱えた膝に頭を埋める。
「は……っあ、セシリア」
「……っ⁉︎」
吐息混じりに名前を呼ばれ、恐怖でひゅっと喉が鳴った。
盗み聞きしていることがバレたのかと思い身構えるが、どうやらそういうわけではないらしい。しばらく待っても音は止まず、ルシアン様は一人での行為を続けている。
「……っ、ん……セシリア、っは……」
聞いたことのない掠れた声に、ごくりと唾を飲み込む。
どんどん熱っぽくなる吐息と、激しくなる濡れた音。つまり、私の名前を呼びながら、ソウイウコトをしているのだろう。
聞いたことのないルシアン様の声に、ドキドキバクバクと心臓がうるさい。
――ルシアン様はこういう時、私のことを考えてくれるんだ。
そう思うだけで体の中心にぶわり熱が広がり、お腹の下辺りが疼いたような気がした。
姿を見ているわけではないのに、ルシアン様が何をしているのかを、音だけで生々しく想像してしまう。
切ない声色で紡がれる自分の名前を聞いているだけなのに、どんどんおかしな気分になってきて――駄目だ。
「は……うっ、はぁ……」
ルシアン様が小さく呻くと同時に、水気を帯びた肌を擦る音がようやく止まる。
はぁ……という疲れの滲む溜息と、衣擦れ。布で拭いて処理をしたのだろう音に、ルシアン様が達したことを察して、すうっと深く息を吸い込む。
こんなことで欲情している自分が信じられない。勝手に聞き耳を立てて興奮して、やっていることが完全に変質者だ。
熱を帯びた身体を覚ますようにその場で固まっていると、ごそごそとベッドに入る音が聞こえてくる。ルシアン様が眠る体勢に入ったことに安心して息を落とすと、扉の隙間から差し込んでいた灯りが消えた。
(もう少し時間を置いたら静かに出ていこう)
うまく脱出できるかは分からないが、もうやるしかないだろう。こんなところで一晩を過ごすわけにはいかないのだ。
時間も分からず、周囲の様子も見えない暗闇。どうしてこんなことをしてしまったのだろうと後悔はしているが、勝手なことに、先ほどよりも私の中の不安は薄れている。
ルシアン様が私の名前を呼んでいたことが泣きそうなほどに嬉しくて、ようやく少しだけ安心できた。ここで違う女性の名前が聞こえていたら、私は心が砕けていたはずだ。
(とはいえ、ずっとここにいるわけにもいかないし、そろそろ寝息か何かが聞こえると嬉しいんだけど……)
衣装室から出るタイミングを窺うため、扉に近づき外の音を確認しようとした。その瞬間、何かにショールを引っ掛けてしまい、ドサッという大きな音を立てて、私の真横にトルソーが倒れる。
扉の隙間から、再びランプの灯りが薄く差し込んだ。
「……っ」
まずいと思った瞬間に扉が開かれ、冷たい瞳をしたルシアン様がこちらを見下ろす。
侵入者が私だと分かるとすぐに表情は緩められたが、私がピンチであることに何ひとつ変わりはない。
「……セシリア? こんなところで何をしてるの?」
「っあ、その」
「今のはこれが倒れた音? 怪我はしていない?」
「……怪我は、していないです」
「そう。それならいいけど」
何もよくない状況だが、ルシアン様もこの状況に困惑しているらしい。何を言えばいいのか分からないという表情をしながらも、ゆっくりと私に手を差し伸べる。
「立てる?」
「た、立てます……。ごめんなさい、あの……」
「……ああ、そうか。セシリア、何か聞こえていた?」
気まずそうな声でルシアン様が口にした質問に、私は嘘をつくことが出来なかった。
ゆっくりと私が頷くと、難しい顔をしたルシアン様は、額を押さえて一度大きく息を吐く。
「……そう。ごめんね、嫌なものを聞かせて」
「え……そんな、嫌なものだなんて……!」
「いや、少なくともセシリアに聞かせていいものじゃなかったよ」
そんなことはないと私が否定するよりも先に、ルシアン様がぱっと表情を変える。
困ったように微笑みかけられ、「セシリア」と柔らかい声で名前を呼ばれた。
「ごめん、この話はもう終わろうか。部屋まで送るよ」
全部私のせいなのに、何故かルシアン様に謝らせてしまった。
どこまでも私を気遣うような優しい声の出し方と、困ったような表情。どうすればいいのか分からず、咄嗟にルシアン様の袖を掴む。
「セシリア?」
「あの……い、嫌じゃなかったんです、私。本当に……ルシアン様が私のことを想像してるのかなって思うとドキドキして、だから……」
「……そう。本当に全部聞いていたんだね」
どこか諦めたような声色に、ぎゅっと心臓が痛くなる。だけど私は、ただ聞いていたことを宣言するために、こんな話をしているわけではないのだ。
「いつも、私から誘っても何もしてもらえないから、ルシアン様は私に興味がないんだって思っていて……。でも、違うんです……よね?」
「うん、もちろん。何よりも大切にしているつもりだけど、ちゃんと伝わっていない?」
「大切にしてもらっているのは伝わってます。でも、その……私がこのままずっと思い出さなかったら、ルシアン様はどうするんですか?」
「どうするって、何? 無理に思い出そうとする必要はないし、セシリアが記憶を失ったままでも別に僕は構わないよ」
「……っでも、今の私はきっと、ルシアン様が好きになってくれた私とは別人で……。だからそういうことをしてくれないのかなって、ずっと不安に思っていて……」
話し出すと止まらず、言葉がぐちゃぐちゃでまとまらない。
それでも、ルシアン様は私の言いたいことをちゃんと汲み取って、私の欲しい返事をくれる。
「細かい癖も笑い方も、声も、好きな食べ物も、全部以前と変わらないよ。この屋敷に来てくれた時と同じ、僕が好きになった、大切で愛しいセシリアだ。今のセシリアのことも同じように愛してる。記憶を失くした自分を責めなくてもいいし、無理に思い出す必要なんてないよ」
優しく頭を撫でながら紡いでくれる、私を慰めるような言葉。だけど、この言葉はきっと本心で、ルシアン様が嘘を吐いているようにも思えない。
それならどうして、今の私は以前と同じように、ルシアン様に触れてもらえないのだろうか。
「本当は思い出したいです。何もしてもらえないと、今の私じゃ駄目だって言われているみたいで……」
「それじゃあ、一度してみようか」
静かに落とされた声に、思わず顔を上げる。
一度してみると言われても、今日の私は下着を脱ぐこともできないのに。
「でも、今は私……」
「分かってる、最後まではしないよ。少し触ってみるだけ」
言いながら、ルシアン様もその場に膝をつく。
私の肩口に顔が埋められ、首筋に息が触れるとぞくぞくと肌が粟立った。
一人で慰めている時のルシアン様の声を思い出し、それが自分に向けられることを想像してしまう。
「どうする? 触っていいの?」
「お……お願いします……」
「分かった。口開けて」
「え? ……っあ」
唇が触れたかと思うと、薄く開いた隙間からぬるりと舌が差し込まれる。後頭部を片手で押さえられ、後ろに逃げることもできない。
私の呼吸ごと奪うように、口の中がルシアン様に支配されていく。
「はっ……ぁ、ルシア……っは」
「セシリア……」
舌を絡め取られ、時折吸われる。空気を求めてわずかに唇が離れても、まともな呼吸もさせてもらえないまま、また深く口付けられて口内が厚い舌で撫でられた。
初めての感触に、腰の辺りがゾワゾワする。
決して嫌なわけではないのに、気持ち良くて自然と涙が瞳に浮かび、その瞬間に唇が離れた。
「……っあ」
「はぁ……。ほら、ね? 無理そう」
濡れた唇で告げられ、困ったような微笑みを向けられる。
小さな子供のワガママに呆れているような表情に、かあっと顔に熱が集まった。
「……全然、無理じゃないです。あの、まだキスだけで……。触るって言ってくれたのに、この続きはしてくれないんですか……?」
「キスだけで泣きそうになってるセシリアに、これ以上のことができるわけないでしょ」
「っこれは、ただ嬉しくて気持ち良いから……。その、自然と出てきて」
「うん、でもやっぱりやめよう。久しぶりで手加減してあげられるかも分からない。もし、何か間違ったことをしたら――」
「……っ! る、ルシアン様と私はもう結婚していますし、何をしても間違いにはならなっ、」
「セシリア」
冷たい声で名前を呼ばれ、その先を言うことは咎められた。
一瞬、ルシアン様の眉間に深い皺が刻まれたように見えて、心臓がひゅっと竦む。
「ルシ……」
「そういう考え方はよくないよ。夫婦だからといって、何をしてもいいわけじゃない」
顔を逸らされて言われた一言で、ルシアン様からまた壁を作られたことが分かった。
おそらく私は、どこかで言葉の選び方を間違えてしまったのだろう。
交わらなくなった視線から、拒絶されたことを痛いほどに感じて苦しくなる。
(ただ、ルシアン様になら何をされても嫌じゃないって言いたかっただけなのに、どうすればよかったんだろう)
夫婦だからといって、何でもしていいわけがない。
わざわざそんな忠告をされるほどの何かを、記憶を失う前の私は、ルシアン様にしてしまったのだろうか。
(私に記憶があれば、こんな失言をすることもなかったかもしれないのに)
気まずい空気の中、「部屋まで送るよ」とルシアン様が言ってくれたことで、沈黙から抜け出すことができた。
大人しく自室まで送られ、一人でベッドに寝転んでから、すうっと大きく息を吸い込む。
また嫌われてしまった気がして、ポロポロと涙が落ちた。
――夫婦らしい触れ合いは、この先もずっと訪れないかもしれない。
下着の中の不快感は、きっとあと数日で終わる。
しかし、再び一緒に眠れる状態に戻っても、ルシアン様が私を抱いてはくれる可能性はゼロに近いのだろうと、それだけを察してしまった。
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