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性欲処理とか無理でした

父の帰還そして

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「性処理と夫婦のいとなみと何が違うのですか?
 処理だとくちづけはしないのですか? 愛撫はしますよね?
 万が一挿入して射精するだけでも生理的な快感はありますよね?
 そうなると性処理といとなみの違いとはなんですか?
 回数? そうなると私との夫婦のいとなみの方が圧倒的に少ないですよね?
 子供? 処理のその方とも作ってますよね?
 状況から判断するに、
 私よりエリアーデ様のほうがあなたの奥様にふさわしいと思われます。
 え? 愛情ですか? そんなの見えないし、証明できませんよね???」

 ーーとにかく処理は浮気じゃないって、ぶっちゃけ意味わかりません!

 扉を開け放った姿勢のまま、そう叫んだ母が俺と姉の手を引いて実家に帰ったのは、俺が5歳、姉が6歳の春まだ浅い日の事だった。


 魔法士。
 それは、世界に選ばれし者のみに許される特別な職業。魔素と呼ばれ、この世に遍く満ちた力をより良く取り込める、魔力器官の発達が特別に優れた者のみが魔力を体系に法って扱える。
 そして魔力を一定以上消耗すると、副反応として発情状態になる。個人差もあるが、これは体内の魔力=魔素の消費による生命活動の低下により、生存本能が刺激される事に起因すると言われている。その為任務後の魔法士により奔放な性欲の処理は、単純かつ効率を重視する上でモラルの欠如を指摘されながらも、長らく推奨されて来た事であった。
 問題は、魔法士である俺たちの父親が、幼馴染であり長年同じ部隊で共に行動し、なおかつ父親の元婚約者でもある同僚と、よりによって母も俺たちもいる自邸の寝室で「処理」を行ったせいだった。

 一ヶ月ぶりの任務を終えて帰還した父親が、任務後の魔力の消耗に切羽詰まり、それでも母を処理で使いたくない。と、帰るなりろくに旅装もとかず、同僚である魔法士の令嬢と、寝室に引きこもってしまったのが始まりだった。
 俺たちにとって、初めて見る発情した父親の顔は、よく似た知らない誰かのようだった。
 また、その横に立つ、母とも友人として交流のある令嬢の、欲情してどろりと濁る瞳に、冷や水をかけられたように恐ろしく、目が合ってしまった俺の背筋は震えていた。
 そして、扉を閉める間さえ惜しいというように、乱雑な衣擦れを響かせもつれ合う様に寝室に消えた二人の、その淫靡でこなれた様子に、この行為そのものが彼らにとって日常的に行われているものなのだと、考える必要も無い程あたりまえに想像ができてしまった。
 あまつさえ余程余裕がなかったのか、防音の結界を貼り忘れた二人の、耳を覆いたくなるあられもない声が、直ぐに高く低くと邸内に響きだした。

 母はエントランスで渡された、父親の埃まみれの外套を、呆然と抱きしめて立ちすくんでいた。
 玄関ホールまで聞こえて来るはしたない声で、我に返ったように外套を投げ出した母は、慌てて俺と姉の手を引く。
 邸内のどこにいても響いて来るような悍ましい声に、俺はたまらず耳を塞いだ。

 仕事がら不在の方が多い父親。
 俺にとってたまに帰って来た父親のいる風景は、思えばいつも非日常だった。
 それは母と姉との3人の暮らしの日常に時折訪れる、ハレの日にも似た少しくすぐったい感じの好ましい非日常であり、父親という愛しい異物だった。だったのに。
 今、俺はその父親を、平和な日常から、完璧に排除する必要のある唾棄すべき異物だと認識してしまった。
 不快な音を出す不快な異物。
 母と姉と俺の大切な家族で過ごす、平和な我が家に、ある日突然持ち込まれた異物である父親とそのつれは、俺たちにとって紛れもなく、そして間違いなくあり得ないくらいに忌むべき非日常だった。

 その忌々しい異物に、怯えた姉は、碧い大きな瞳をこぼれるほどに見開いて固まっていた。
 まるで動くなり凶悪な魔獣が襲いかかってくるとでもいうように、強張った白い顔に汗がつたう。
 姉の心臓の激しい、われ鐘のような鼓動が、母と3人で身を寄せ合う、俺にの耳にも聞こえるようだった。
 姉の、あまりに荒い息遣いと、真っ青な顔色に、たまらなくなって冷たい手を握れば、溺れるものの必死さで、姉の細い腕が、縋りつくように、きつく俺の背中に回された。
 父とともにあられもない声を響かせているあの女は、この姉の産みの母でもあるのだ。
 まさに産んだだけなのだが、あの生き物達から産み出されたという事実が、そして母の血を受けていないということが、何よりも今の姉にとって耐えがたい苦痛であるようだった。

 古来より魔力は血に宿る。
 しかし優秀は魔力を次代に繋げるための政略結婚が、当たり前だったのは最早過去の事であった。
 俺たちの祖父の時代に、先進的な王太子殿下によって行われた、大胆な王室改革。
 それにともない自由恋愛が推奨され始めると、今度は政略結婚こそは古臭い因習で忌避すべき悪習である。自由恋愛こそが先進的かつ人道的であり至高、という極端な風潮が貴族の中で広まった。
 それに伴い、今度は優秀な血脈が途絶え、家門が断絶するという事態が起こり始めた。
 そのため精神的な自由恋愛とは別に、血脈をつなぐための継父母という考え方が、政略結婚の代替案として行われ始めた。
 今では有力な魔法士の一族では、主流になっているこの郭公の托卵にも似た制度は、言うなれば婚姻は魂の為に愛する人と行うが、後継ぎは家門の為、血筋の為に優秀な者との子作りを推奨するという、愛とは真逆の交わりを当たり前のように行うことだった。
 父親も姉の産み腹となった令嬢も、それぞれに自由恋愛の末に結ばれた、最愛の伴侶を持っている。
 それでも、処理として性交することも、家の為に伴侶以外との子をもうけることも、魔法士である彼らは、なんら違和感を抱いていないのだった。

 低く高く啜り泣きのように父でも友でもない人間の喘ぎ叫ぶ声が、いくら耳を塞いでも聞こえてくる。
 そんな母の耳も塞いでやりたくて、俺と姉は必死で腕を伸ばした。

 人間の出す音じゃない。
 あさましく吠える獣のようだ。
 
 吹子のように荒く引き攣り、今にも途切れそうに不規則になる姉の呼吸に、こみ上げそうになった吐き気を飲み込んで俺は思った。

 発情期の獣たちがあげる下品な音が響くあかるい邸内。

 震える母の腕。
 震える姉の胸。
 とめどなく流れ落ちる涙にぬれる頬。
 ああ魔法士は獣だ。
 俺は、俺たちもまた獣の子だ。
 そう思うとまた涙が溢れた。

 真昼の日差しがいっぱいに差し込む明るい部屋は、今はまるで地獄の底のようで。
 絶望に溺れそうになりながら、俺は父親と魔法士という俺たち家族にとっての異物を、俺の、俺たちの人生から何としても排除するのだと、涙でぐしゃぐしゃな顔で決意した。

 魔力消費にともなう性処理。
 父親を含めて魔法士にとっては常識であるというそれは、一般人である俺たちの母にとっては、最後まで理解できない事柄のようだった。
 半ばひきつけながら、すがるように俺の背を抱きしめる姉。
 その姉を俺ごと胸に抱いた母の両の腕が、屋敷中に響き渡る嬌声から守るように、俺と姉の耳をやさしく、かつしっかりと塞ぐ。貴婦人の丁寧に手入れされた美しい華奢な指先が、精一杯の決意を込めて俺と姉を守ると伝えてきていた。

 その手がかすかにふるえていたのを、大人になった今でも、俺は鮮明に思い出す。
 そうして柔らか腕の中から見上げた母の顔は、怒りというよりも困惑を浮かべ、何か考え込むようにその美しい眉がひそめてられていた。「処理は浮気じゃないの……」そう呟いて細い首をかしげる母の姿は、その唇からこぼれた下劣な単語が間違いだったのではと思える程にたおやかで、今は神話にのみ語り継がれる妖精の美姫のように儚げで麗しい。
 銀色のおくれ毛が優しい翳りを落とし、陶器のような白い頬にかかって光る。
 そう、俺たちの母は美しい人だった。
 絶え間ない異物のたてる下品な効果音さえなければ、母と姉と三人で過ごしてきた、いつもの平和な昼下がりだったのにな、と疲れた俺は現実逃避気味に木漏れ日のさす大きい窓を見上げ、楡の小枝に馴染みの小鳥の姿を探した。

 そして、冒頭のセリフに戻る。
 どうやらひと段落したらしく静かになった寝室を、両手を精一杯広げ、勢いよく開け放って母は叫んだ。
 明らかに事後(まあ過程は屋敷中に響きわたる公開プレイだったが)だとわかる、火照りを浮かべた全裸の二人に毅然とした態度で言い放った母は、しばらくは父親からの返事を待っていた。汚れたシーツの上で呆然と母の顔を見つめている父親は、萎えた性器をかくす頭も働いていないようだった。どうやら返事は望めそうも無い。夫だったものと友人だったもの。未だだらしなく汚れた裸体を投げ出したままの彼らに、瞬きを一つして母は姿勢をあらためる。そして丁寧にカテーシーをとると身を翻し、その足で俺と姉の手を引き、あらかじめ呼び寄せてあった、実家の馬車に乗り込んだ。そして、そのまま二度と父親の元には戻らなかった。
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