兎を追いかけて

東雲夕

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兎を追いかけて

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 氷を割った川の下には、雪解けの水が音を立てて流れていく。
 かじかむ指に力を入れ、桶につけたロープを引っ張る。
 草原の春は厳しい。朝と夜の寒暖差は1日に四季があると例えられる程だ。

 朝の水汲みはアリスの仕事だ。この一年で、ひょろひょろだった体は、以前から比べると格段に逞しくなった。

 ずっしりと肩にかかる水の重みにも、もう慣れた。

 日が登り切る前にあと六回は運ぶ予定だ。
 母さんの水瓶を満杯にしておきたい。
 
 ふと視界の端を何かがかすめた。不自然にならないよう慎重に足をとめると、大切な水を溢さないようにそっと桶を足元におろす。
 
 兎だ。

 冬を越えたばかりの今の時期の肉は痩せているが、貴重なタンパク源となる。

 アリスの本名はアリス・リデルという。この草原とは空の色まで違う英国に生まれた。ある日の午後、川辺の土手から服を着て言葉を喋る、不思議な兎を追いかけて、穴に落ちた。
 
 とても長い距離を落下して、衝撃に備えて無意識に縮こまっていた体が緊張を忘れる頃に下についた。見たこともない、緑の海が目に入って驚く間も無く、体中に受けた激痛で意識を失ってしまった。
 
 兎はまだそこにいて、なにかの匂いを確かめるように、天に向けた鼻をひくつかせている。アリスが背から下ろした弓をつがえても気づく様子は無い。
 
 あの日気づくと見知らぬ寝床で、図鑑の中でした見たこともない顔つきの人々がアリスを覗き込んでいた。

 モンゴルといったか、言葉もわからないその人達は、全身の打ち身で起き上がる事もできないアリスを、親身になって看病してくれた。

 やっと寝床に起き上がれるようになった頃には、片言の会話が出来る位には打ち解けていた。

 素朴で優しい人々だった。
 髪の色も目の色も肌の色さえ違うアリスをそれでも助けてくれた。

 その恩に報いたくて、動けるようになるとすぐに見よう見まねで仕事を真似して手伝い感謝を伝えた。草原の子は弓矢が遊び道具でもある。末の小さな女の子がアリスに弓矢を教えてくれた。遊びになり獲物もとれる。厳しい生活の草原の民の暮らしのための生活の知恵だ。
 
 兎はまだ動かない。
 かつてはミルク色だったアリスの柔らかな肌は、すっかり日に焼けて草原の子には及ばなくても日差しにくらむ事はなくなっている。

 息を殺して狙いを定める。
 
 家に帰るのはとうに諦めた。
 不思議な力でやってきたここと、姉や両親の暮らす英国が同じ世界にあるとは思えなかったし、服を着て喋る兎などと見たままをそのまま語れば、可哀想に熱で悪い夢を見たんだねと、荒れた優しい手のひらにあやされて眠ると、本当に悪い夢をみただけのように、今のアリスにはもう現実感がなくなっていたら。
 
 狙いをさだめて、一気に引き絞った矢を放つ。
 
 今朝の初めの光を背に、矢を受けた衝撃で兎がはねて、そのまま落ちた。

 当たった。
 
 獲物から視線は外さぬままに、弓を背負い直すと足早に近づく。

 薄く雪の残った湿った草の上に、服を着た一匹の白い兎が倒れていた。
 
 ーー 夢じゃなかったのね。

 呆然と呟いたアリスがよろめくように出した足先に、ガツンと当たるものがある。

 鎖のついた懐中時計はひびが入って三時で動きをとめている。

 手の平の上に乗せ止まった針と、こと切れた兎を見る目には、涙はない。

 自分はとうに一度死んだのだ。
 今ここにいるのは、草原の娘だ。
 
 胸の合わせに時計を乱暴に突っ込み、兎の服を剥いだアリスは、耳を掴むと、温かな煙の立ち登る我が家に向かって、ゆっくりと歩き出した。


 不思議の国はここにある。
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