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猫のランチ散歩 in 渋谷 「灯りの粒、静けさの匙」
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渋谷の駅を出て、商店街を抜けた先の住宅街は、平日の昼過ぎともなればひっそりと静まり返っている。
まるで、都会の片隅に忘れられたような時間が流れている。
猫のレオンは、グレーのスーツにネイビーの細いネクタイを締めていた。夏の陽差しがビルの影に遮られて、足元には木洩れ日がまだらに落ちている。手には、艶のある革のブリーフケース。今日も彼は、知る人ぞ知る一軒のカフェへと足を向けていた。
道幅の狭い坂道を登っていくと、不意に開けた空間の奥、木々に囲まれてぽつんと佇む建物が見えてくる。外壁は淡いモスグリーンに塗られ、ところどころにツタが絡んでいた。木製の窓枠と、低く差し出された庇。その下に、控えめに掲げられた小さなアイアンの看板には、手書きの文字で「喫茶灯々」と記されている。
レオンが扉に手をかけると、古い真鍮のドアノブが軽やかに回り、静かな鈴の音が空間を満たした。
店内は、まるで時が柔らかく折りたたまれたようだった。
照明はすべて白熱球で、天井から吊られたシェードランプが、琥珀色の光をぽつりぽつりと落としている。床は長年踏みならされた木のフローリングで、わずかな軋みが耳に心地よい。足元に広がるパターンの異なるヴィンテージラグが、夏の光をやわらかく受け止めていた。
店内の家具はどれ一つとして同じものがなかった。深いマホガニー色の猫脚の椅子、背もたれがハープの形を模したアンティークのアームチェア、節の残る無垢材のローテーブル。そのどれもが、ここに辿り着いた巡り合わせを感じさせた。
レオンが選んだのは、窓辺のテーブル。南西向きの高い窓から、薄くレースのカーテン越しに柔らかな光が差し込んでいる。椅子はオーク材のフレームに、アイボリーの張地。座面は少し硬めで、背中にきちんと背筋が通るような心地よさがあった。
静かにブリーフケースを置き、時計を見て少し口元をゆるめる。昼下がりの、少し遅めのランチタイム。天井近くでは、スピーカーから流れるチェット・ベイカーのトランペットが、熱を帯びずに空間を漂っていた。
カウンター奥から現れた女性店主が、柔らかい声で挨拶をしてくれる。彼女のエプロンは生成りのリネン、髪は後ろでラフにまとめられていて、手元には小さな金のバングルがきらりと光った。
「いつものお席ですね。今日のランチ、あと少しだけ残っています」
レオンは軽くうなずく。やがて、程よいタイミングでランチが運ばれてきた。
楕円形のプレートは、淡いベージュにわずかに青みを帯びた釉薬がかかっていた。厚みがあり、縁のゆるやかな揺らぎに職人の手跡が感じられる。カトラリーはマット仕上げのステンレスで、フォークの先はやや長め。握った瞬間、柄の細さが手のひらにしっくりと馴染む。
料理は、湯気をふんわりと立てながら、かすかに甘く香ばしい香りを立ち上らせていた。ひと口すくった瞬間、鼻先に届くのは炒めたバターの香り、そしてほんのかすかなレモングラスの清涼感。
レオンは黙ってナイフを入れた。刃がすっと入り、表面はカリッと音を立てて割れ、内側はしっとりとした質感でその形を保っている。フォークで持ち上げると、湯気がふわりと立ちのぼり、鼻腔を包み込む香ばしさと、微かに焦げたハーブの香りが混ざり合う。
口に含むと、外側の香ばしさが先に舌に触れ、それに続いて内側のほろりとした舌触りがゆっくりと広がる。噛むたびに、塩気と甘み、わずかな酸味が舌の上で層を成し、ひとつひとつの味が、海辺の石を撫でる波のように穏やかに訪れる。
不意に、耳を澄ますと外から鳥のさえずりが聞こえた。おそらく近くの公園に生い茂る木々にいるのだろう。都会の中の自然が、この空間の静けさを深めている。
続いて、コーヒーが運ばれてくる。カップは厚手の白磁で、底がやや広く、湯気がまっすぐに立ちのぼる。指先で取っ手を持つと、重さが均等に分散され、手のひらにぴたりと収まる。
一口飲むと、苦味の輪郭が舌に残り、あとからナッツのような丸みと、わずかな果実のような酸味が立ち上がる。そしてその奥に、どこか鉱物を思わせる冷たいニュアンス――まるで、山あいの小川の水をふくんだような清らかさがあった。
レオンはゆっくりとカップを戻す。ナプキンを膝の上に畳み直し、窓の外へ目をやる。午後の光が、少しだけ角度を変えはじめていた。レースのカーテンが風に揺れ、床に編まれた影を落とす。
「……完璧だ。」
そう呟いたのは、自分でも気づかぬほどの小さな声だった。
時間はまだ充分にあったが、レオンは静かに立ち上がる。椅子が小さくきしみ、背中を伸ばすと、スーツの生地がかすかに張る音がした。
伝票は小さなブリキのトレイに、手書きの文字で添えられていた。「本日も、ありがとうございます」と。
店を出ると、蝉の声がどこからか聞こえた。遠く、坂の下を通る小学生たちの声が風に乗って届く。レオンは細い坂道をゆっくりと下りながら、革靴の先で小さな石を蹴った。
夏の午後、渋谷の風が、彼のひげをそっと撫でていった。
まるで、都会の片隅に忘れられたような時間が流れている。
猫のレオンは、グレーのスーツにネイビーの細いネクタイを締めていた。夏の陽差しがビルの影に遮られて、足元には木洩れ日がまだらに落ちている。手には、艶のある革のブリーフケース。今日も彼は、知る人ぞ知る一軒のカフェへと足を向けていた。
道幅の狭い坂道を登っていくと、不意に開けた空間の奥、木々に囲まれてぽつんと佇む建物が見えてくる。外壁は淡いモスグリーンに塗られ、ところどころにツタが絡んでいた。木製の窓枠と、低く差し出された庇。その下に、控えめに掲げられた小さなアイアンの看板には、手書きの文字で「喫茶灯々」と記されている。
レオンが扉に手をかけると、古い真鍮のドアノブが軽やかに回り、静かな鈴の音が空間を満たした。
店内は、まるで時が柔らかく折りたたまれたようだった。
照明はすべて白熱球で、天井から吊られたシェードランプが、琥珀色の光をぽつりぽつりと落としている。床は長年踏みならされた木のフローリングで、わずかな軋みが耳に心地よい。足元に広がるパターンの異なるヴィンテージラグが、夏の光をやわらかく受け止めていた。
店内の家具はどれ一つとして同じものがなかった。深いマホガニー色の猫脚の椅子、背もたれがハープの形を模したアンティークのアームチェア、節の残る無垢材のローテーブル。そのどれもが、ここに辿り着いた巡り合わせを感じさせた。
レオンが選んだのは、窓辺のテーブル。南西向きの高い窓から、薄くレースのカーテン越しに柔らかな光が差し込んでいる。椅子はオーク材のフレームに、アイボリーの張地。座面は少し硬めで、背中にきちんと背筋が通るような心地よさがあった。
静かにブリーフケースを置き、時計を見て少し口元をゆるめる。昼下がりの、少し遅めのランチタイム。天井近くでは、スピーカーから流れるチェット・ベイカーのトランペットが、熱を帯びずに空間を漂っていた。
カウンター奥から現れた女性店主が、柔らかい声で挨拶をしてくれる。彼女のエプロンは生成りのリネン、髪は後ろでラフにまとめられていて、手元には小さな金のバングルがきらりと光った。
「いつものお席ですね。今日のランチ、あと少しだけ残っています」
レオンは軽くうなずく。やがて、程よいタイミングでランチが運ばれてきた。
楕円形のプレートは、淡いベージュにわずかに青みを帯びた釉薬がかかっていた。厚みがあり、縁のゆるやかな揺らぎに職人の手跡が感じられる。カトラリーはマット仕上げのステンレスで、フォークの先はやや長め。握った瞬間、柄の細さが手のひらにしっくりと馴染む。
料理は、湯気をふんわりと立てながら、かすかに甘く香ばしい香りを立ち上らせていた。ひと口すくった瞬間、鼻先に届くのは炒めたバターの香り、そしてほんのかすかなレモングラスの清涼感。
レオンは黙ってナイフを入れた。刃がすっと入り、表面はカリッと音を立てて割れ、内側はしっとりとした質感でその形を保っている。フォークで持ち上げると、湯気がふわりと立ちのぼり、鼻腔を包み込む香ばしさと、微かに焦げたハーブの香りが混ざり合う。
口に含むと、外側の香ばしさが先に舌に触れ、それに続いて内側のほろりとした舌触りがゆっくりと広がる。噛むたびに、塩気と甘み、わずかな酸味が舌の上で層を成し、ひとつひとつの味が、海辺の石を撫でる波のように穏やかに訪れる。
不意に、耳を澄ますと外から鳥のさえずりが聞こえた。おそらく近くの公園に生い茂る木々にいるのだろう。都会の中の自然が、この空間の静けさを深めている。
続いて、コーヒーが運ばれてくる。カップは厚手の白磁で、底がやや広く、湯気がまっすぐに立ちのぼる。指先で取っ手を持つと、重さが均等に分散され、手のひらにぴたりと収まる。
一口飲むと、苦味の輪郭が舌に残り、あとからナッツのような丸みと、わずかな果実のような酸味が立ち上がる。そしてその奥に、どこか鉱物を思わせる冷たいニュアンス――まるで、山あいの小川の水をふくんだような清らかさがあった。
レオンはゆっくりとカップを戻す。ナプキンを膝の上に畳み直し、窓の外へ目をやる。午後の光が、少しだけ角度を変えはじめていた。レースのカーテンが風に揺れ、床に編まれた影を落とす。
「……完璧だ。」
そう呟いたのは、自分でも気づかぬほどの小さな声だった。
時間はまだ充分にあったが、レオンは静かに立ち上がる。椅子が小さくきしみ、背中を伸ばすと、スーツの生地がかすかに張る音がした。
伝票は小さなブリキのトレイに、手書きの文字で添えられていた。「本日も、ありがとうございます」と。
店を出ると、蝉の声がどこからか聞こえた。遠く、坂の下を通る小学生たちの声が風に乗って届く。レオンは細い坂道をゆっくりと下りながら、革靴の先で小さな石を蹴った。
夏の午後、渋谷の風が、彼のひげをそっと撫でていった。
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