僕の記憶に黒い影はない。

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ルシューランにて

カルの一日

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 本を開きしばらくするとサリュは帰って来た。
「お昼ご飯、もうすぐだって」
「そっか、じゃまぁ、できるまでゆっくりしてるか」
そこまで急ぎの用もないわけだし。
「そうだね」
あいつはそう言ってベッドの脇に放置していた荷物を片づけ始めた。片づけるといっても特定の整理が必要な荷物があるわけでもないので、肩掛け鞄をクローゼットに押し込み、ローブをハンガーで吊るす程度。すぐにやることがなくなっていた。
「ほんと、ふかふかだ」
気づけばベッドに横になって、とろみのある目を天井に向けている。
「気持ちいいねぇ」
「だな。そうだ、先に風呂入ってきたら? 一階の階段から見て正面のドア、あの先にあるって」
これはおばちゃんから聞いたことだ。支払いの時、あまりに汚れているので聞かずとも教えてくれた。
「うん、少し休んでから、いくことにするよ」
そういう間にもサリュの声はどんどんと重たげに、ゆっくりになって行く。横目で見ると、ついに気持ち良さそうに目を閉じたのが見えた。
「寝るなよ」
「わかってるよ、、お昼だもの。、、僕だって、お腹すいたさ、、」
すぅぅ。
「サリュ?」
返事はない。
 まぁ、無理もない。疲れているのは俺も同じだ。寝転がればそのまま寝てしまうだろう。だからこそ、今はこうして本を片手に頑張って耐えているのだ。
 もともと本なんて読む趣味はない。クローゼットの中に申し訳程度にあったものを拝借したのだ。寝てしまっては今日の作業に差し支える。
 最近、少し金を稼ぐ作業が必要になってきた。そろそろ残金が底をつきそうなのだ。おそらく明日はその事もあって仕事を探しに動くだろうから、そのためにどうしても今日中にはしておきたいことがあった。
 眠気は容赦がない。俺の意識もすでに遠退き始めていた。瞼が閉じてしまう前になんとか起き上がる。
 先に風呂でも入っとくか。少しは目も覚めんだろ。
 隣を窺うとなんとも気持ち良さそうに寝入っている姿が見えた。無理に起こすのもはばかられる。 
 できるだけ音を立てないように静かにドアを開け、その姿を部屋に残した。

 広さはないが念入りに掃除された綺麗な浴場だった。それほど時間もかけず汚れを落とし終える。暖かい湯にはやはり眠気を誘われ、目が閉じる前に急いで出てきたというわけだ。
 ほんとなら、もう少しゆっくりしたかったんだけどな。
 ロビーに出ると丁度昼食ができたのか食事の匂いが漂ってきていた。
「あっ、いた。お風呂入ってきたのかい? 綺麗にしてりゃなかなか男前じゃないか」
通りかかったおばちゃんがこちらに気づいた。
「綺麗な風呂だったね。部屋もすごく清潔だし。良い宿じゃん」
強引な呼び込みしてるからどんなのかと思ったけどね。
「そうかい。嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
満足そうにうんうんと頷いている。思い出したようにカウンターの階段とは逆側の通路を指差した。
「昼食はできてるよ。そこ、曲がったとこの奥、右手が食堂。もう用意してあるから行きな」
「そっか、ありがと」
言い終えるとおばちゃんは後ろを振り向いてそそくさと階段へ去っていく。
「あっ、ねぇ」
階段の半ば程まで行ったところで思い出した。
「なんだい?」
「もしかして、あいつのこと呼びに行ってる?」
「あぁそうだけど」
彼女が怪訝そうにこちらを見る。その顔がどうしたと問うている。
「寝てるからそっとしといてやってくんない? やっぱ疲れてるみたいだわ」
俺は彼女が優しい母の顔になったのを見た。
「そう、わかった」
そう言って階段を降りてこちらに向かってくるのをボーッと見ていると、手招きされた。
「ついておいで、こっちだよ」
食堂へと案内してくれるようだ。
 おばちゃんの後をついていくと小さな部屋に出た。俺たちの部屋と同じ程の大きさのそこには丸テーブルが三つ設置されていた。各テーブルに背凭れの付いた椅子が四つづつ。まさに食べるためだけの部屋だった。壁の横一帯が窓として空いているため、光がよく入り明るい。直接調理場と繋がっているようで、調理場へと続くドアに近いテーブルでスープと卵の乗ったスパゲッティが湯気を立てていた。
「あれ?」
指差すと
「そうだよ。冷めるから早く食べたゃって」
と席に座らされた。 
 少し離れたところに座る他の宿泊客と思わしき男が同じものを食べていた。服が汚れている。分厚いフードで隠れた顔が更に下を向いているため顔はわからないが、、、旅人だろうか。
「なぁ、おっさん」
少しの間があってから男が顔を上げた。と、そこに現れた顔はおっさんとはほど遠い青年だった。
「あっ、あぁすまない。兄ちゃん?」
青年は笑った。フードのせいか、なんだかサリュに雰囲気が似ている。
「そうだね。まだ、おっさんという歳ではないかもしれない」
 言葉に覇気を感じない。綿菓子のようなふんわりとした喋り方は相手を包み込む力はあるがどこかひ弱な印象を与える。こんなやつが一人でいて大丈夫なんだろうか、そう思いながら顔をまじまじと眺めた。その時。気づいた。
「、、白い、」
髪の色。それまで光に照らされて空気のように存在を消していた。フードの隙間からのぞく青年の髪の色は、真っ白な雪の色。
「あぁ、髪のことだね。うん、白い」
「め、珍しい色だな」
青年は頷いた。
「うん、そうかもしれない。でも、それは、君にも言えることじゃないのかな」
「えっ?」
無意識にも髪に手がいく。十数年親しんできた赤毛に触れた。
「その透き通った赤みの強い色。『普通の人』のものじゃないよね」
青年の瞳は見透かすように笑っている。
「そ、そうかな。ありふれた赤毛だと思ってたんだけどな」
「とても、綺麗な色だ」
「お、おう。ありがとな」
青年は食べかけの皿に目を移した。
「それで、なにかな」
そうだった。髪のことに気を取られて忘れていた。首をかしげてこちらを眺める青年は俺の次の言葉を待っている。
「あぁ、そうだな。あのさ、あんたリプラーって知ってるか。黒い化け物なんだけどさ」
「リ、プラー。、、うん、聞いたことがあるかもしれない。黒いのだったら見たこともあるかも」
「ほんとか!」
 今はリプラーに関する情報が最優先で必要だった。いつ襲われるかわからない。ものすごい速さで移動するあの物体が何なのかさえ今の俺たちは知らない。ただリプラーと呼ばれていること。そして、けして触れてはならないこと。情報はそれだけだ。あまりにも少なすぎて、これではただ動揺を与えるだけのやっかいなもの。もっと必要だ。もし明日の仕事が町の外に出るものであれば、、今度こそ何が起こるかわからない。ある情報は知っているに越したことはない。
 今から宿を出るのもそう思ってのことだった。以前から情報集めが必要だとは思っていたが、前の村ではその存在を知っている者も少なかった。
「う、うん。知っているけど。、、君が納得いくほどの情報を持っているかどうかは━━」
「いい、知ってること全部教えてくれないか」
言ってから気がついた。少し強引だっただろうか。強迫めいて聞こえたとしたら悪いことをした。
 青年は少し驚いた様子だった。だがまたすぐに例の微笑みを取り戻す。
「もちろん、最初からそのつもりだよ」
「そ、そうか。、、悪いな、驚かせたみたいだな」
青年は首を振る。なんだろう。その人間らしい仕草になぜだか人間味を感じられない自分がいた。彼がまとう雰囲気には、木漏れ日のような優しさと共に隠しきれない冷たさのようなものがあった。彼からはどうも人間的な体温を感じない。
「、、、食べないのかい?」
「えっ?」
「冷めてしまうよ」
首をかしげながら俺の皿を見ている。
「そっ、そうだな。食べるよ、もちろん」
そういえば。リプラーのことに気を取られてまだ一度も手をつけていない。
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