反撃の魔法使い

三隅 泡

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第一部 ミッドヒストリー

第四章 消えた少女

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ある少女は、テスディアの中心に位置するドミナトール城に住んでいた。その城は中心に聳える大きな塔から成り立っており、そこから下に崩れるように他の城を成す建物が全て隣接して繋がっていた。このように山のような形になったのは、1500年以上前に作られてから今まで、増築に増築を重ねたからだ。城の中心にある塔には王族が暮らし、その周りに点々とある8つの塔には1つを除きそれぞれ7つの貴族が暮らしていた。少女は中心に聳える塔に暮らす、王族の1人だった。
少女はある日、いつも通り長方形の板から鳴らされる規則的で機械的な音で目を覚ますと普段とは何か違うことに気づいた。それは見ている光景が普段から違い、なぜこんなところで寝ているのだろうかというものだったが、すぐに今見ている光景が当たり前だということに気づき、なぜ自分がそのような疑問を持ったのかについて考えることすらしなかった。少女の名はエマ・カメリア・リベルタスだったが、それすらもまるで違うに人格が入り込んだように忘れてしまっていた。その疑問が強力な目覚ましとなり、いつもなら寝起きで働かない頭をもう一度眠りにつかせていたところを身を起き上がらせる行動に変えた。体にかかっている羽毛布団はふかふかとして二度寝するのも悪くはないと思わせた。しかし学校の登校時間に間に合わなくては叱られると危機感を感じ、ベッドから足を下ろし布団に別れを告げるように、自制心を示すように布団を抱きしめて広いベッドの隅へ追いやった。立ち上がり、長方形の板を無意識に手に持ち部屋を出た。長方形の板の表面は漆黒に輝き側面と裏面はピンク色のカバーがかけられていた。スマートフォンと呼ばれるそれは多くの国民が所有しており、王族及び貴族と中流階級の半数程度が持っていたが貧民層の普及率はほぼ0だった。
黒いスカートと白いシャツに赤で縁が作られた黒を基調とするマントに着替え、髪を整え、ベーコンと卵のサンドウィッチを食べて歯を磨き、革のバッグに分厚い本や筆記用具を詰め込み、長い長い廊下を10分ほど歩いてようやく城の外へ出た。城の周りを囲む塀に置かれている門を出て人や車や自転車が行き交う通りについた。城から門までの道の外側に広がる花畑には、マリーゴールドが咲き、その中にある真ん中に女性の像が立っている人口の池には睡蓮が咲いていた。門前にはバスの時刻表が立っておりそこには20人ほど並んでいた。30秒ほど待つとバスが来た。待っている間にも門の中や歩道からバス停に並びにくる、皆同じような制服を着た人が大勢きた。
バスは2階建てで100人分も席がある大きさだったが、すぐに半分以上埋まってしまった。2階に続く階段を上がり、階段から近くの席の窓側に座った。席のシートは茶色の無地で、茶色い毛が起毛してふわふわとした座り心地だった。窓から外を覗くと、道路に行き交う自動車や歩道に行き交う人や自転車が見えた。向かいの建物は見上げるほど高く、白く凹凸のある壁に挟まれたガラス窓には太陽光が反射し輝いていた。歩道を忙しそうに早歩きで歩くスーツ姿の男性を見て、明確な目的と早くそこに辿り着きたいという意思が感じられた。17歳からでも貿易省に勤められればいいのにと思った。すると右側のシートが重みで沈んだことに気づいた。

「エマ、今朝のニュース見た?テスディア政府が外国との貿易を一時中断。政府は壁外に魔法兵とフクロウを配備。戦争か、だって。」

隣に見えたのはルーナ・ワイアットだった。ルーナは何年も陽の光を浴びてないかのような白い肌から大きな青い目をエマに向けて言った。ルーナの褐色の髪は肌とは対照的だった。

「戦争?ありえないわ。だったら私にすぐ連絡が行くはずだもの。そうなれば絶対にパパとママは学校に行かせてはくれない。私、これでも一応王族ですの」

「それじゃあ理由はなんなの?壁外に魔法兵とフクロウなんてどう理由付ければいいの?理由を国民に言わないのはなぜ?」

ルーナは不思議がった目で眉をあげ眉間を寄せて必死に訴えかけてきた。

「知らないわ。でも戦争ではないのは確か。まあ…そうね…もしかしたら外国の大統領とか大臣との密会かも。根拠はないけどあえて理由付けるのならね。仮に戦争だとしても私たちが気にする必要なんかない。だって私たちは魔法を使えるのよ。きっと連中なんか私たちに手も足も出ないわ」

「スマートフォンを魔法で生み出せると思う?連中は私たちよりもずっと奇妙な技術を持っているのよ。しかも一撃で一つの都市を破壊する核爆弾を持っているんだから油断できないわ」

「こっちにも外国の技術は多く渡っているし、一人一人の力とすれば軍配はこっちにある。…起こりようのない話をするより…あー…今日は…今日は…デジャブって知ってる?なんか私この頃、というか今日は特になんだけど起こること一つ一つが前にもあったような気がしてならないの。それも何度も何度も」

エマはこの一連の会話の流れに強い既視感を抱いた。そして前に調べたことを思い出した。内容を詳しく覚えているわけではなかったが、デジャブは誰にでも起こることで記憶のメカニズムの働きだと。

「したことがないことを過去にしたことがあるかのような感覚になるんだっけ。私もなったことあるから気にすることでもないわ」

そんなことを5分も話しているうちにバスが速度を緩め、止まった。また人が続々と入ってきた。また5分ほどバスが走り、速度を緩めて止まると、2人とも席を立ち上がり、一刻も早く外に出ようと続々と外になだれる人の間に入って出入り口から外に出た。正面には、開かれた大きな門とその奥には巨大な城が立っていた。城はグレーの石レンガで作られた壁とダークグレーの尖塔の屋根が目立ち、尖塔の下にはダークグレーの切妻屋根が壁の上に乗っかるように存在していた。重厚な入口の門をくぐり中へ入ると大きな階段が見え上っている者が何人もいたが、エマたちはそこには上らず右側の通路の方へ足を進めた。

「1時間目はなんだったかしら?」とエマが聞いた。

「生物学よ。今日は実習なし」と前を行くルーナが答えた。

それを聞くと、エマは気分がだいぶ沈んだ。実習がないとただ先生の話を聞いてノートをとるだけで退屈だからだ。それに加え寝れば成績を下げられるため眠くても耐えなければならない。

「うっわー。最悪。どうすればこんなに退屈な授業を寝ずに過ごせっていうの?」

そうエマが言った時にはもう教室の中に入っていた。中には木で作られた長机が6つ、黒板に向かって並べられ、それぞれ長机の後ろには不規則に椅子が並べられていた。端には様々な動物の模型や剥製が飾られていたが生きている動物はいなかった。後ろの席はすでに埋まり、4列目の1番左端にエマとルーナは座った。前の方の席はほとんど人が座っていなかったが、座る気にはなれなかった。
スマホをいじり、10分ほど経つと、茶色いローブを着たエヴァルト・フィンク先生が入ってきた。その時にはすでに何十もあった椅子に全て人が座っていた。フィンク先生が教卓に握った中指を少し突き出した手でコンコンコンと、どれほど強く叩けばこれほどでかい音が出るのかと思うほど力強く叩いた。皆一斉にスマホをポケットや机の引き出しにしまい、「新・魔法生物学入門」と書かれた教科書をバッグの中から取り出した。

「教科書236ページを開いて」

ゆっくりと低いく抑揚のないフィンク先生の声は聞いただけで眠ってしまいそうだった。眠気を誘うようなことして寝たら成績を下げるなんて不当だと皆んな思っているに違いない、とエマは思った。次の瞬間、一列目に座るモジャモジャ頭の黒髪の男の子が気絶するように頭を机に打ち付け眠ってしまった。その、バン!という音にほとんどが目を釘付けにされたが、右隣に座る茶髪の男の子は冷静にモジャモジャ頭をさすった。起きそうもないことがわかると、すぐにさするのをやめて前を向いて教科書を開いた。それを見たその他全員も思い出すように教科書を開き始めた。教科書には3体の、姿形が異なるゴブリンが描かれ、その説明が長々と書かれていた。
フィンク先生は黒板に「ゴブリンの主な4種の分類とその特徴」と書いた。次に、書きながらゴブリンの説明をし出した。

「ゴブリンは主に4種に分けられる。ボーグル、ブラウニー、オーク、トロールだ。これらはサル目ヒト科ゴブリン属、そしてそれぞれボーグル種、ブラウニー種、オーク種、トロール種に分けられる。今から言うことは未だ研究段階であるということを言っておく。授業をぼーっと受けただ試験を言われた通りに受けるだけの君らには全く関係のないことだが。」

「ぼーっとするような授業をしてるのは誰だ?」後ろの席から男の子のひっそりとした声と、それに応えるように笑い声が聞こえた。

「口を慎みたまえミスターマクレガー」フィンク先生は地獄耳だ。それから後ろからは声が聞こえなくなった。フィンク先生はチョークを粉受に置いた。

「サル目ヒト科からゴブリン属に分けられた年代は定かではないがおおよそ5000年以内とされている。テスディアの動物の進化は外国と比べれば恐ろしく早い。定説によれば進化した理由は魔力の獲得だ。君らがよーく知っているように、体内の魔力伝達速度は知能が高ければ高いほど速い。5000年前のサルは比較的知能が高く魔力伝達速度は人間には及ばないが自然界の中では速かった。そのため魔力が体内に蓄積し続けるということはなかった。しかしその使い方を詮索する知能は持っていなかった。そして知能を高くするのではなく魔力を如何様にして体内に出してから変化させるのか、魔力を自由に操作するよりも型に合わせて一つの魔法を使えるように進化した。その進化で肌が緑色になり耳が尖り毛が一部なくなったとされている。」

「なぜゴブリンは知能を高められなかったのですか?」と、隣からルーナの声が聞こえた。フィンク先生はルーナの顔を見ないで質問に答えた。

「結果的に言うと、ゴブリン属は知能を高めた。そうしなければ、魔法動物界において種の存続が難しくなったからだ。しかしそれは一部のゴブリン属で、ボーグル種、ブラウニー種、オーク種だった。ゴブリン属としての進化の過程で知能を高められなかったのは集団の中の突然変異した個体が私が先ほど言ったような性質を持っていたからだこれは2年生で習う。」

フィンク先生は流れるように言い、一呼吸おくとまた長々と話を進め、チョークを持った。エマの瞼は重量級だ。

「…それぞれ4種の祖先はゴブリンと言われた。ゴブリンは一部は住む場所を人間の近くで暮らし、それらはボーグルとブラウニーに進化した。それ以外はオークとトロールに。全体的な特徴は緑がかった肌に尖った耳に鉤鼻、オスとメスが存在し、生殖器官はヒトと同じで股にある。ボーグルはおおよそ1メートルの身長に細い体に人間よりも一回り小さい頭がついている。太らせることもできるが腹が不自然にでっぱり、他は何も変わらない。非常に従順で命じられたことならなんでもする。知能は人間よりも少し低くずる賢いため命令の穴をついてイタズラや盗みを働くこともある。」

フィンク先生の説明は長々と続き、その間はフィンク先生の声以外に誰も言葉を発しなかったし物音すらほとんどしないほど静かに、声が教室中に響くだけだった。

「今日の授業はこれまで」

エマはそれを聞いて途端に遠のいた意識を取り戻した。寝ているつもりはなく、ノートを書いていたつもりだったが、ノートにはぐちゃぐちゃとした意味を持たない線が一面に書かれてあるだけだった。前の席では、ガタン!と音がしてモジャモジャ頭の黒髪がフィンク先生が言った言葉のせいでビクッと体が大きく動いて椅子から転げ落ちてしまった。

「ルーナ…ノート写真撮らせてくれない?」

エマがそう言うとルーナから渋々了承を得た。開いてあるノートをエマは写真に収めた。2人とも立ち上がり、扉に近づいた。するとモジャモジャ頭の黒髪を茶髪の男の子がおぶって周りの人に声をかけていた。

「どいてどいて!頭を打って気絶してるんだ。はやくそこをどけ!」

みんなはその2人から離れ、茫然と見ていた。その2人はそそくさと教室を後にした。再び詰まっていた人が奥へと流れ出し、エマとルーナは流れに従って廊下へ出た。

「さあ次の教室まで行きましょう」と言い、エマはルーナの肩をポンポンと叩いた。

「まだ時間割覚えてないの?次は防衛魔法学よ」

エマはそれを聞いてホッとした。防衛魔法学は実習が多いため魔法を使え、黒板を眺めるだけの授業とは比べ物にならないほど楽しいからだ。
防衛魔法学の教室に入ると、閑散とした部屋の奥の、木の床の上に1つの赤い布が何かを覆ってあった。赤い布は下につき完全に何かを覆っていた。誰かが赤い布を取ろうとしたがびくともせず、しわ一つすら動かなかった。ルーナが「石化呪文だわ」と言って赤い布に近づいた。エマは止めたが、「問題ないわよ」と言われてしまったため仕方なくついていくことにした。ルーナは小さな杖を、ズボンの杖専用ポケットから小さな杖を取り出して何やら訳のわからないことを言った。しかし何も起こらず、布は変わらず固まっただった。すると、テオドール・アンドレー先生の声が後ろから聞こえた。

「石化呪文とは惜しい。実に惜しい読みだった。」

アンドレー先生は背が高く、ズボンとシャツからはスラリとした体型だと言うことがわかり、髪は整えられていたがどこか乱雑で不器用だった。アンドレー先生は固まった赤い布を叩いた。

「石化呪文と不動術の違いがわかるかな?」

「音、ですか?」ルーナが答えた。

「正解だ。布に石化呪文をかけたらこんな音はしない。この通りコンコンと石を叩く音がする。不動呪文は無音か、微かに擦れる音がする。どんなに強い力で持ち上げようとも動かないしね。」

ルーナが持っていた杖と同じような小さな杖をそれぞれ赤い布に、ポンポンと杖の先端をつけて振った。そして教室の赤い布付近にいる人に向かって大きく腕を斜め目前に広げて手を押すようにして「下がって下がって」と言い、全員教室の後ろ半分に集まった。アンドレー先生は赤い布のところへ行き口を開いた。

「今日の授業は、吹き飛ばし呪文の実習だ。この呪文は非常に強力な魔法だ。いいかい。だからあくまで身を守るためのもので他人を傷つけるためのものではない。」

そう言うと赤い布をバサっと取って手に握った。机の上に足がない丸っこい人形が置かれている。人形の目はじっとこちらを見つめていた。周りからは嘲笑がちらほらと聞こえてきた。これを吹き飛ばしたら机も吹き飛ばすどころかバラバラに散ってしまうだろと思った。

「これは、起き上がり小法師と言って、外国から渡ってきたものなんだ。とても重いから簡単に吹き飛ばせると思ったら大間違いだ。机は不動術で動かないようにしてある。来週の実技試験ではこれを吹き飛ばしたら合格にしよう。僕が一度お手本を見せるから、見えるところまで来て。」

アンドレー先生はそう言って床の貼ってある赤いテープのところまで下がった。みんなはそれ以上離れている。テープは机からは3メートルほど離れていた。杖を人形に向けて杖を一振りしながらハッキリとこう言った。

「ヨフィーノ・ソータス!(吹き飛べ!)」

風は全く後ろには感じられなかった。起き上がり小法師は壁まで吹っ飛び、ドン、と壁とぶつかる音が鳴った後、さなに大きな音でドン!と床にぶつかる音がした。しかし起き上がり小法師は何事もなかったかのように体を起き上がらせ、前へ後ろへ動きながらやがてピタリと止まった。アンドレー先生は一言、魔法をかけると起き上がり小法師は宙に浮かび、元の場所へ戻った。

「さあ、一列に並んで。床に赤いテープが貼ってあるだろう。それを超えないように。」

アンドレー先生がそう言って横にどけると、大半の生徒が後ろに下がろうとした。ルーナは先頭についてやる気満々だったが他の生徒は前へ前へと押し付け、押されて列に並んだ。エマはそんなに前に並ぶことが嫌ではなかったが、みんながそうしていたので後ろへ行き、押されたのでルーナの後ろへ並んだ。列は途中まで一本線だが後方は絡まる糸のように人がひしめき合っていた。

「前回の授業で吹き飛ばし呪文の発声練習と杖の振り方を教えたのは覚えているね。その通りにやるんだ」

アンドレー先生がそう言い終わった後、間髪入れずにルーナが杖を振りながら言った。

「ヨフィーノ・ソータス!(吹き飛べ!)」

風が後ろには感じられなかったが、扉の窓はガタガタと震えていた。起き上がり小法師の頭は机にピッタリとくっついていたが、すぐに起き上がって無表情な顔を堂々と見せた。

「力強いね。もっと相手に意識を集中させた方がいいよ。」アンドレー先生はルーナにそうアドバイスし、ルーナは後ろへ下がり、次に自分の番が来た。線のギリギリのところに立ち、腕を伸ばした。手に意識を集中させ、魔力が伝わったと感じた後イラつくほど無表情な人形に意識を集中させた。

「ヨフィーノ・ソータス!(吹き飛べ!)」

起き上がり小法師はグラっと少し傾いたが、すぐ元に戻ってしまった。傾いた瞬間、ルーナと同じくらいにはなって欲しい願ったが無理なようだった。また無表情な顔を見せられた瞬間、胃が沈むような思いになった。

「杖を振るタイミングと発声するタイミングがほぼ同時だから、次は発声を少し遅らせてやってみよう。」

アンドレー先生はそうアドバイスし、心なしか残念そうな口調だった。エマの気分はさらに沈んだが、直すべき点がわかり、次は成功させようと思えた。次々に呪文を試したが誰も成功しなかった。起き上がり小法師が少しでも傾けば良い方で、50人中10人しか起き上がり小法師を動かせた者はいなかった。自分を吹き飛ばしてしまう者や、杖を取手と芯だけ残してバラバラにしてしまう者もいた。20分もかからずに一周が終わり、ルーナの番がもう一度回ってきた。ルーナは深呼吸し、杖を前へ向けた。目は焦点を定めてじっと動かない。杖を振り、タイミングを意識しながら術を唱えると、起き上がり小法師はびくともせずにまっすぐエマを見ていた。起き上がり小法師がそれをできたのはルーナが後ろに倒れ、遮るものがなくなったからだ。倒れる前にエマはルーナの体を支える体勢に入り、ルーナは足を傾けてエマに体を寄せる程度で済んだ。ルーナは目を丸くしていた。

「緊張しすぎだよルーナ。杖を振るのが遅いせいで杖から出る風の勢いが弱まってしまっている。それに加えて杖から出る風量は変わらずだから身が反動で倒れてしまったんだ。」

ルーナは顔を赤くして、逃げるように列の最後尾へ並んだ。エマは赤いテープを超えないように気をつけて立った。起き上がり小法師を焦点に捉え、手に意識を集中させた。吹き飛ばすだけでなく粉々にしてやると殺意とも言えるような感情を持っていた。その感情は起き上がり小法師の無表情さからきていた。今しがた起こったルーナの転倒、この授業だけでも1人が医務室に運ばれ1人の杖が使い物にならなくなった。今までどれほどの生徒をその見下すような目でふんぞり返った態度で見てきたのか。ピクリとも動かない目を見てエマは殺意を燃やした。杖を振り、術を唱えた。次の瞬間、エマはのけぞった。杖から飛び出すものの勢いが強すぎたからだ。しかしそれは風ではなく、青く輝く光だった。その光が起き上がり小法師に当たった直後、起き上がり小法師に亀裂が入り、バラバラになって壁へ散らばっていった。エマは目を丸くした。後ろはざわつき、横からはハッキリとした声が聞こえた。

「エマ!なぜ破壊した!吹き飛ばすよりもっと難しいことをやってのけたのは賞賛に値するが今はその時じゃぁないだろう?しかもこれは高いんだ。」

アンドレー先生は怒ったようなことを言ったが口元はそうではなくにっこりとしていた。そのせいで罪悪感はなく自責に駆られることなく答えることができた。

「すいません。どうしてか粉々にしたいと思ってしまって…」

エマにはその理由がわかっていたが、それを言わなかった。アンドレー先生はそのことを察したようだった。

「静かに!」

アンドレー先生は生徒を一喝し、生徒は一斉にアンドレー先生の方を向いた。エマは冷静に先生を見た。

「隣の教室が空いているから次の授業までそこで待機していなさい。来週も同じようにやるがそれっきりだ。練習が必要な生徒は放課後、私の時間が空いている時見てあげよう。エマはここに残って」

教室を後にする生徒からは残念がる声と喜びの声が混じって聞こえてきた。全員を教室から出すと扉を閉め、エマの方へ歩きながら言った。

「さっきのは見事だったよ。普通なら学校の所有物の破壊も授業妨害も成績を下げなければならないが今回は多めに見よう。大勢の前だとこういうことは口に出しては言えないがね。」アンドレー先生は首を振りながら笑うように言って、続けた。
「僕の見立てでは君は隠していることがある。言いたくなければ言わなくても良いけどね。あの人形が粉々になった理由だよ」

「はい…。おっしゃる通りです。私は…ルーナや他の人たちを傷つけているあの人形が許せなくて。粉々にしてしまいたいと思ったんです。まさかこんなことになるなんて。」

それを聞いてアンドレー先生高笑いした。

「人形に殺気を持ったのか。それほど真剣になれるのは良いことだよ」

「今思えばなぜ人形ごときにそんなに向きになっていたんだか疑問に思うくらいどうかしてました」

「衝動性は悪いことではないが自制できるようにしておいた方がいい。今回のように思わぬ力を出させるようなこともあるが毎回そういうことにはならなからね。それで、エマ。もう一つ聞きたいことがあるんだ。私はむしろこっちの方が気になっていたんだ。私はどちらかと言えば美味しいものは最後に残すタイプだからね」

アンドレー先生はエマから離れて窓の方へ歩きながら言った。

「ルーナが術を失敗して倒れた時、倒れる前から身を支える体勢に入っていたがあれはなぜだい?」

「気づきませんでした。…でも心当たりはあります」

「何でも話してくれ」窓の外を見て眩しそうに目を細めながらアンドレー先生は言った。

「私は普段からよくデジャブを見ていたんです。目の前の出来事について既視感を覚えることです。でもそれが今日は特に激しくて。もしかしたら、本当にすでに見ていることだとしたら私がルーナが倒れることを予見して、助けたんじゃなかって思ったんです。無意識なので実際に見たかどうか分かりませんが…」

「君の意見を聞けて良かったよ。君も隣の教室で次の授業まで待つといい。私は片付けと、倉庫に一つだけある起き上がり小法師を取りに行かなければならないのでね。しかし次は壊しても問題ない。今日に習って『形状記憶術』をかけることにしたよ」

アンドレー先生は扉の方へ歩いていき、扉を開いた。

「『形状記憶術』ってなんです?」エマがすかさず聞いた。

「まだ習っていなかったか。それを使えば物が自らの形やあった場所を記憶するんだ。高度な『形状記憶術術』を扱えるなら、壊れて元に戻ると勝手に修復してくれるようにさられる。これは単純な物質だけで、生き物とかは無理だけどね。僕が学校にいた時とは随分と学ぶ内容が違っている。『形状記憶術』は一年生の最初の方で習ったし、『吹っ飛ばし術』のような危険な魔法は3年生になってからだった」

アンドレー先生はエマを待つように扉を支えた。扉の前まで歩いたエマは「お先にどうぞ」と言われたため、「ありがとうございます」と一言言って、扉を支えるアンドレー先生を横目に教室を出た。
次の授業は「魔法力学」だった。メガネをかけて小柄でずんぐりとしたカミーラ・ビビコフ先生が担当するその授業では、「魔法力学基礎」の「魔力エネルギーの変換」と言う分野で、どのようにして魔力エネルギーが他のエネルギーに変換されるのかを学んだ。ルーナはビビコフ先生が話して書いていることを真面目に書き写していたが、問題が出題されると頭を抱えて悩み、エマにどうすれば解けるのかと懇願していた。エマは教科書を見ながら板書をしていた。エマはルーナに解き方を教えたが、ルーナは腑に落ちない顔をして「なぜこの公式成り立つの?」と尋ねた。
3時間目の授業が終わり、4時間目の授業のために移動して教室に入った。教室には奥に黒板があり、6列の長机と椅子が黒板に向かって並べられていた。壁にはテスディアの偉人たちの肖像画が並べられていた。中には尊敬できないような人も多くいたが、誰もその人のことを尊敬も憎悪もなく、無関心で見ていた。エマもその1人だった。エマとルーナは3列目の真ん中の席に座った。担任のリリイ・ヒストリア先生が入ってきた。先生は若く、肩まで伸びた黒い髪の毛に白い肌とクリーム色のローブをその身に纏っていた。ヒストリア先生は教卓を前にして透き通った声で言った。

「静かに。皆さん前を向いて。前を向きなさい。……シェイファー、私の声が聞こえませんか?喋らないで。…皆さん、私の声が聞こえますね。授業を始めます」

50人の生徒は誰も喋らなく前を向いていたが、先生の目を盗んで、机の下でコソコソとスマホをいじっている人が前の席にちらほらと見られた。無表情に教室を見回した先生は、不自然に俯いている生徒に気付かないわけがなかったが、何も言わなかった。

「前回配った課題プリントを出して、教科書を開いてください。プリントを右から回して集めておいて」

エマは「テスディア史総合」と書かれた厚い表紙に、気が遠くなりそうなほどの枚数の紙が閉じられた本を出した。教科書のデカくはみ出たページに手をかけて開いた。プリントを机の上にずらした後の教科書には「近代テスディア史における貿易-2」と上の方に書かれ下の方には93、とページ数が書かれていた。プリントには「なぜテスディアは貿易を欧米の一部の国のみとしかしないのか。400字以内に簡潔にまとめて答えよ」と、書かれた下には、マス目に沿って400字寸前まで文字が書かれれてた。右に座るルーナからプリントを受け取り、自分のプリントを上に重ねて左へ流した。少し経つとヒストリア先生は左の列に集められたプリントを列ごとにそれぞれ回収して教卓に戻っていった。エマはこの工場のような秩序立った光景が好きだった。

「えーと、今日は貿易の3に入ります。過去50年の諸外国との輸出入品の変化ですね。なぜ変化していったのか────」

ヒストリア先生の話を遮り、高低差の激しい機械的で規則的な、聴く者を不安にさせるような音が、教室中に響いた。あちこちからその音が重なって聞こえてくる。エマは咄嗟に開けたカバンからスマホを手に取った。

【警戒レベル5相当】 テスディア国全域 テスディア島南東より、未知の巨大物体がテスディア島に向かって接近中。直ちにカルディア壁北門または西門に集まって下さい。

皆スマホを手に取りマジマジと眺めていた。教室中がざわつき始めた。エマはその非現実的な事に放心状態になっていた。すると前からヒストリア先生の声が聞こえた。

「落ち着いて聞いてきださい。教員からの指示があるまで教室から出ないように。私は確認をしてきます」

さらにざわめきは激しくなった。

「確認?確認って何よ。政府の警戒情報が嘘だって言いたいの?」
「警戒レベル5って相当だぜ。教室でじっとして何の意味がある?」
「未知の物体ってなによ!そんな非現実的なことあるわけない。みんなでっち上げに騙されて滑稽だわ。きっとただの訓練よ」
「なぜその巨大物体の詳細を言わないんだ?」
「あの巨大な壁を破壊できるわけない。壁内の方が安全だ」

左右前後から騒がしい声が聞こえてきた。1人がさらに大きな声で喋ると、連鎖的に他の人の声も大きくなっていった。ルーナは周りを見回して、「今すぐに逃げるべきよ」と言って強い不安を抱いていたが、エマは周りとは対照的に妙に冷静だった。自分でもなぜこんなにも冷静にいられるのか分からなかった。

「変だわ。南東から来て北門と西門から逃げられるなら警戒レベル5は大袈裟すぎる」

エマはそう言ったが、ルーナは「そんなこと気にしている場合じゃない。逃げることだけ考えて」と、流されてしまった。皆、思い思いに話して、思い思いの声量で、パーティのような騒がしさの中にギイィと扉が開く音が聞こえた。皆一様に扉を見た。アンドレー先生が入ってきたようだった。アンドレー先生は学校中に響きそうなほど大きな声で言った。

「皆、外に出て!スクールバスがまもなく到着するので、それに乗りなさい!外には他の先生がいるので指示に従って動くように!…カバンは置いていけ!携帯があれば十分!」

アンドレー先生は教室に入り、「早く外に出て!」と呼びかけていた。せき止める物がなくなった水のように生徒達は教室から流れた。廊下は人が流れるのには十分なほどの幅と身長の何倍もあるようなグロイン・ヴォールトの天井が広がっていた。少し走ると前にも他の教室から出てきた集団がいた。人でごった返した廊下を、人の壁を押して押されて早歩きで進んで行った。エマは今の状況を完全に理解したのか、それとも過剰に見ているのかは分からなかったが、徐々に冷静さを失い混乱してきた。上に広がる寂しい空間と、床付近のおびただしい数の今にも押しつぶされそうな人間が相入れることはなかった。「早く進んで!」と誰かが叫ぶ声も、大勢の足音に消えていった。
やっとのことで外に出るとスクールバスが校内の門の前のコンクリートの上に何台か止まっていた。2メートル以上もある大柄でまんまると太っているため、トロールとよく見間違えられるキンスリー・マクラウド先生が、人が詰め込まれたバスの出入り口を背に「これ以上入っちゃだめだ。あっちのバスに並べ」と、隣のバスを指して大声で言っていた。
まだ入る余地があるバスに向かって皆一心不乱に走った。エマはルーナと一緒に「スクールバス 12」と書かれたバスに急いで乗った。一階はかなりの人数が詰め込まれていた。エマがバスに入るとすぐに「これ以上乗れないから他の空いてるバスに乗って!」と、外からヒストリア先生の声がしてガラス張りの折り戸が閉まった。そのバスに乗れた最後の1人だったエマは心臓を高鳴らせ、ひとまずは安心だと自分に言い聞かせ深呼吸した。2階に行こうと階段を見たが階段の上にも人が何人も立っており、通れそうになかったため、バスの閉められた折り戸に寄りかかった。
間もなくすると床が大きく揺れ、バスが発車するのがわかった。先生達は無事に避難できるのかしら、と心配しながらエマの目線は先生から強引に引き剥がされた。バスは門を出て、恐ろしい速度で通り過ぎる車の合間に入った。
やたらと外が騒がしいと思い、ガラス越しに辺りを見回すと、すぐ先の曲がり角の店に赤色の車が突っ込んでいるのが見えた。遠目でハッキリとは見えないが、血があたりに流れて車の正面が潰れて誰も助けていないようだった。すぐにバスはその横を通り、それはエマの立っている側と同じだったため今度はハッキリと見えた。運転席から運転手と思われる人が、ガラスが割れた歪んでいる窓から出ようとしていたが、時間が止まったように動いていなかった。運転手の右腕だけが外に助けを求めるようにだらんと飛び出て、その手は潰れて真っ赤に染まり、暗闇にほんのりと見える顔は半分近くが血に染まり、うつろな目をして口はまるで何かを言いかけたかのように大きく開いていた。それにゾッとしたエマはすぐに他のところへ目を移して、さっき一瞬でも見たことをできるだけ思い出さないようにした。しかし忘れようとするほど鮮明にあの光景が頭の中に映し出された。バスはただ一つの目的のために進み続けている。

「さっきの見た?」エマは後ろにいるルーナに向かってボソッと言った。

「見てない」ルーナは心もとなく答えた。

「人が死んでたわ。車で建物に突っ込んで体の半分を潰して。誰も何もしていなかった…」

「少しでも生きてたら助けたんじゃないかしら。死んでるなら…この状況でなくとも誰も何もしないわ」

エマもルーナもそれから一言も喋らず、ルーナはスマホを触って家族と連絡をとり、エマは外を眺めていた。エマは外を見てはいたが、何を見ても何もそのことについて感じず何も考えず、初めて目の当たりにした生々しい死体のことを何十回と繰り返し考えていた。
ふと家族のことが気になり始め、それからは死体のことなど気にもしなくなり、家族の安否だけを心配してスマホを取り出し連絡が来ていないか確認した。「パパ」と書かれた右に「17」という文字があった。そこをタップして開くと「大丈夫か?」「返信してくれ」「心配だ」と、同じような文字が何個も並び、それに混じって「不在着信」という文字が見えた。学校中はマナーモードにしなくちゃならないって前も説明したのにと思いながらも「今スクールバスで北門に向かっています。だから鬱陶しい着信音を鳴らさないで。キモい」と返した。次に「ママ」と書かれたところを開いた。「連絡ください」とだけ書かれ、その上にある前のママからの着信の日付は3ヶ月前だった。それを見て胃が少し沈んだ気持ちになったが、エマは自分の感情を分析する余裕を持ち合わせていなかった。「大丈夫。今スクールバスで北門に向かっています。ママは大丈夫?」と返した。すると画面の上から「パパからの着信があります」という文字が顔を覗かせた。しかしそれを開く気にはなれなかった。光に満ちていた画面が一瞬のうちに漆黒にのまれ、エマはスマホをスカートのポケットの中へとしまった。
それからさほど時間が過ぎていない時、地殻から響くような低い音が微かにバスの中に響き渡り、消えていった。バス内は騒がしくなり始め、未知の物体がついにテスディアを襲い始めたんだと嘆く者もいた。ルーナは「バスの故障か、タイヤが何かに乗り上げたのよ。見えない敵を過剰に恐れすぎだわ」と言ったがエマはその言葉を信じ切ることができず、強い不安感を抱いていた。そしてまたその低音が響き始めた。そして次々とその低音は連続して聞こえ、まるで扉を思いっきり何度も何度も叩いているかのようだった。それは小さい音だったが確実にその音は何かが起こっていることを知らせていた。連続する低音に、バスの中は再び騒然となったが、運転手がマイクでバスじゅうに「バス車内ではお静かに願います」と厳格に言い放ち、次第に騒ぎは落ち着いていった。しかし不安が消えたわけではなかった。そして何かが遥か遠くで崩れ落ちるような音が微かに聞こえた。しかし誰もこの事に騒ぎ立てる者はいなかった。
スマホを見ると、時刻は14:20をさしていた。学校からバスが出てから2時間経っている。その時、バスが速度を緩め続けた。エマは寄りかかっていた扉から体を離した。扉が開き、エマは1番に外に出ると、前に停車するバスよりもはるかに高く大きい壁がバスの背後にあるのが見えた。壁を見渡すと巨大な門が見える。学校や家の門も巨大だったがそれよりはるかに大きかった。心臓が浮き上がるような感覚が流れ、圧倒され、巨大な壁につけられた門に見惚れているとルーナが自分に話しかけてくるのがわかった。

「早く行きましょう」

そう言われて初めて自分が壁に対して憧れを持っていたことに気づいた。生まれた頃から住んでいる城と学校しか知らなかったエマは、窓から見える何よりも巨大な壁を眺め、それは手に届かない夢のように感じた。そして羨望すら感じていた。北門付近は標高が高く、周りがよく見えた。壁を北門から見回し、壁付近の建物は砂粒のように小さく見え、遠く見える巨大な東門ですらちっぽけに見えたが重厚さは失われていなかった。そしてまだ続く壁、南門は城に阻まれ見えないだろう、あの細長いのは巨大な時計塔だろうかと思い壁を見渡し続けた。そして東門と南門の間付近の壁、その壁のさらに上を見た。何か不自然に異色の物がある。青碧色にトルコ石色がまとわり付いた巨大なものが(北門から見るとものすごくちっぽけだが)、長さが不均一な指が全てくっついたようなものが壁にもたれている、いや掴んでいるのか。

「何…あれ…」

気がつくとエマはその何かを腕をピンと伸ばして指さしていた。ルーナが向き、他の人も続々とその方向を向き始めた。静寂が流れる余裕もなく悲鳴が聞こえた。するとその何かは急に、空気にさらした氷が長い時間をかけて溶けて蒸発する行程を何百倍にも早めたかのように溶け初め、何かは手を引くように引っ込めた。溶け落ちたトルコ石色のものは壁に張り付き、少し垂れたがすぐになくなった。
エマ含めその場にいた全員が何が起こったのか知るよしもなかったが、避難する理由になった未知の物体であることは共通認識だった。誰も壁からは目を離さず、口を開くものは1人もいなかった。風が地面の草木をなびかせる音、遠くからだんだんと近づく自動車のエンジンの音だけが静寂を破っていた。
次の瞬間、地殻が爆発して壁を震わせたかのように低い音が鳴り響いた。壁には何も異変はない。エマはルーナが朝に言っていた、魔法兵を壁外に配備するというニュースを思い出した。もしかしたら魔法兵が壁の内側に入ろうとしている何かをやっつけたのではないかと思い、希望が心の内側から段々と広がっていった。そして一呼吸の間もないうちに打ち壊された。はるか先の壁の向こう側から、はっきりと見えるほどに巨大な、山のような青い物体がゆっくりと壁から顔を覗かせていた。それは目のようなものだけを壁から出していた。青色の中に、横に並ぶ二つの円状に真っ黒く染まったものが、こちらを観察しているかのように見ていた。どこまでも深く続くように真っ黒く、ここで見ていられるのがまだ幸福だとさえ思えるほどに不気味なものだった。
エマは恐怖で言葉を失い、周りからは叫びが聞こえた。そしてその叫びは急速に遠のいていった。目の前がかき混ぜられるようにぐるぐると目にしている光景が回り始めた。体は直立に、足が浮いている感覚だったが、巨大な洗濯機の中で水洗されているかのように上下感覚がなくなった。叫んでも自分の声は聞こえず、音という音が全て自分を拒んでいるようだった。光が失われていき、次第に何も感じなく、何も考えられなくなった。実体があるかどうか定かではなかったが、光が再び目に入った時には意識せずとも実体は感じ取れた。エマはどこにもいなかった。

* * *

ニックは真っ暗な、狭い路地で目を覚ました。体には薄い布がかけられている。何か夢を見た気がしたが何も思い出せず、何かから来る未知の恐怖を強く感じていた。その感情だけが残り、それが起こった原因の捨てられた夢の光景はなんなのだろうかと必死に思い出そうとしたが、見えたのはくたびれた布一枚だけだった。
やがて恐怖はさっぱり無くなり、水を飲もうと思って体を起こすと、ニックが寝ている路地に丸っこい目を二つ光らせた何かがある事に気づいた。ニックがそれに気づくと、その暗闇に身を潜める何かは上へ上へと大きくなって飛んでいった。建物の間に見える空を見上げた。それが月明かりに照らされると、それは羽を大きく広げたフクロウだった。灰色の羽が月明かりに照らされ、銀のように輝いている。なぜこんなところにいるんだろう、と首を傾げ、間もないうちに再び恐怖がのし上がってきた。ニックは自分がルフスを殺したんだと疑われているのではないかと思ったからだ。それ以外に考えられない、ここを離れたら奴隷街に何匹もフクロウを手配するわけがないから誰も見つけないだろうと思い、身支度を整え、フェリシアがいるリザルト近くに移動しようとした。すっかり覚めてしまった目を開いて布をたたみ、それに本、ブーメラン、ペンダント、水筒を手いっぱいに持ってここを去ろうとした時、フクロウはなぜ自分が起きたと同時に飛び去ってしまったのかと、新たな疑問が湧いた。報告するなら見つけた時にすでに報告しに向かうはずだ、他の目的があるのでは?だけどフクロウがそれ以外の目的なんてあるのか?俺が起きたということを誰に知らせる必要がある?考えを巡らせても疑問が湧き出るばかりだった。誰にしろ移動するに越したことはないと思い、すぐに足を走らせこの場を離れた。
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