三日月幻話

平坂 静音

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 けれどその歌手の声は場違いなほどに美しく、澄んでいて、わたしはひどく心をゆさぶられました。歌詞は実らない恋をはかなむもので、わたしの小さな胸は痛みます。
 やがて酔客たちの喝采が響き、歌手は舞台を去っていきます。
「あっちへ行ってみない?」
 アニエスに手をひかれ、わたしはミュージックホールを出ました。すれ違う人は誰もわたしたちを見ません。わたしたちの姿は、本当に誰の目にも映らないようです。
「面白いものを見せてあげる」
 アニエスは、あのちょっと意地悪気な切れ長の瞳を輝かせました。そこに夜の星がきらめいているようです。
「こっちよ、こっち」
 わたしは言われるがままに、彼女の後をついていきました。ごみごみした通りを行くと、わたしたちの前に大きなテントが見えました。  
 幼い頃、まだお父様が今のお継母様と結婚するまえに連れて行ってくれたサーカスを思い出させます。
「ここよ、ここ。面白いの」
 一歩、天幕のなかに入って、わたしは目を見張りました。奇妙な匂い、不気味な気配、笑い声とも泣き声ともつかぬ不思議な響き。竹の檻。そこは……見世物小屋のようです。わたしはびっくりしました。
 子どもの頃、近所の広場で見世物の興行がおこなわれたことがありました。好奇心にかられたわたしは当時、家にいた乳母に随分せがんでみたのですが、乳母は「お嬢様は、あんなところに行っちゃいけません」と厳しい目でわたしをいさめるばかりで、決して連れて行ってはくれませんでした。
 当時、隣家の幼馴染おさななじみの男の子は、こっそり大人の目を盗んで、悪友たちと一緒に見に行ったそうで、彼はわたしにその冒険を話してくれました。
(すごいんだ。ずっごい大きい男や、ちっちゃい女がいたんだよ! 狼男や、髭のある女もいたし、でぶ男とか、蛇女もいたんだ)
 大きい人や小さい人、太った人はいるかもしれませんが、狼男や蛇女というのは、きっと作り物なのでしょう。でも、その話を聞いて、わたしの好奇心はますます募ったものです。自由に動ける彼が羨ましかったものです。
 その、憧れの見世物小屋にわたしは今いるのです。ひどく興奮し、同時に少し恐ろしくなりました。乳母は、ああいう所は良家の娘が行く所ではないと言っていました。わたしは本当なら来てはいけない場所に来ているのです。見つかったら、どうなるのでしょう? 
 退学処分になるかもしれません。わたしは、動けなくなりました。
 そんなことになったら、どれだけお祖母様がお怒りになるか……。
「どうしたのよ?」
 アニエスが薄ら笑いを浮かべて、振り返ってわたしを見ています。
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