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魔香、燻る 三
しおりを挟む「誰だ? 俺を呂陳円と呼ぶのは?」
英風は目をうたがった。
古びた寝台の上に、骨と皮ばかりに痩せ細った男がいた。その幽鬼のような男がよろよろと立ちあがり、ひひひ……と笑いながら寄ってくる。まとっているのは古びた衫一枚だった。もとは白かったのだろうが、ろくに洗ってもいないのだろう、垢じみて汚らしい。
英風は逃げ出したくなった。西破がいなければ、逃げていたかもしれない。
「呂の名は捨てたぞ。俺は陳円だ。天下にたった一人、男陳円は、ここにいるぞぉ」
酒のせいか魔香のせいなのか、男は呂律がまわらない舌で、そんなことを言う。
せまい室の中央には粗末な木の卓があり、そこにはいつ食べたのか皿に魚の骨がのっている。そして空の素焼きの瓶と碗。見れば見るほど不潔で貧しげで、貧困と頽廃を絵に描いたような光景だった。英風は泣きたくなった。
そしてあらためて目を凝らした。
薄くなった髪は結うこともなくざんばらで、肌は土気色の、この生きる屍のような男に、かつては才子として将来をのぞまれ、村有数の名家に婿入りし、評判の美女玉蓮の婿となり、英風自身がそうしたように花嫁花婿として壇上にならび人々の祝福を受けた晴れの日があったというのが信じられない。
そうして、玉蓮との初夜をむかえ、短いとはいえ結婚生活をおくり、金媛のような美しい娘を得たかがやかしい季節がこの男にあったのだと思うと、英風は目に涙がにじんでくるのを抑えられなくなった。いったい、どこでどう間違ってこんな身の上に落ちてしまったのか。
「呂家のことで少し伺いたいことがあるのですが」
ひひひひ……。西破の言葉を、男は涎を垂らしながら笑った。ひからびた人差し指を英風に向けて、のけぞるように笑った。
「そ、そうか、解ったぞぉ。お、おまえ、噂にきいた英風とかいう婿だな。き、呂家の婿になったという奴だな。ば、馬鹿な奴だなぁ、あんな化物屋敷に婿入りしやがって」
「陳円さん、どうして呂家が化物屋敷なんですか? 呂家はあの村一番の名家ですよ」
西破がたくみに陳円から言葉を引き出そうとする。こんなときだが、英風はつくづく西破を賢いと思った。勉学の良し悪しよりも、どんなときでも機転をきかせて目的を遂げられる意志を持った人間こそを、本当の意味での智者と呼ぶのかもしれない。
(それに比べて私は……)
西破に比べると、本当に世間知らずで気も小さい。つい、英風は劣等感に陥ってしまいそうになる自分の気を引きしめた。
(今はそんなことで落ちこんでいる場合ではない)
そう思って目をすえた先では、陳円がふらつく足で、踊りでもおどるような動きをとって、天井を見上げてひからびた笑い声をたてている。
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