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新客 一

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「くそったれ!」

 広間に響く太い声にコンスタンスは持っていた盆を落としそうになった。

 喧嘩か、と思いきや、皆笑っている。

「『ユビュ王』の真似よ」

 近くにいたカミーユが盆からグラスを取りながら説明してくれた。『ユビュ王』というのは、三年ほどまえ《制作座》で上演され話題になった芝居だが、コンスタンスにはさっぱりわからない。汚い言葉や下品な態度の男が王になりあがってやりたい放題する話なぞ、見て楽しいものなのだろうか。同じ見るなら美しい台詞がある美男美女の演技を見たいものだ。

 広間中央で芝居をしている燕尾服の太った男は劇場支配人だとかで、酔うと芝居の役を真似る癖があり、今も酒で赤くなった顔で上機嫌で芝居をつづける。

「まぁ、おまえさん、なんてことを」

 彼の近くにいる背の高い痩せた男がおもねるようにユビュ王の妻の演技をし、娼婦や客たちを笑わせた。

 黒い背広の背中しか見えないが、その背をどこかで見たような気がし、彼がキクの情人のピエールだとコンスタンスは気づいた。ソフィーは優男と言っていたが、まさにそんな感じで、どことなく芯のないように感じられる。役者というよりジゴロが似あいそうだが、どちらにしろ世間では両者はほぼ同一視されている。

「そんなのつまらないわ。べつのお芝居にして」

 拗ねたような口調で言うのはアントワネット。劇場支配人の男はアントワネットが贔屓なので、多少のわがままが通るのだ。

「では、『ロミオとジュリエット』は?」

 客の一人が有名なシェイクスピアの戯曲をあげる。

「『リア王』は?」

「いや、ここはラシーヌを」

 そんな会話が交わされふざけた乱痴気騒ぎがつづく。

 ここはつくづく不思議な場所だとコンスタンスは思う。

 客たちは皆外の世界ではそれなりに立場のある男たちで、家では良き夫で父親だろうに、ここへ来ると常の体裁をふりすてて馬鹿騒ぎに乗じるのだ。広間での芝居の真似ごとなど軽いもので、娼婦たちが交わす会話からうかがい知る客との遊戯など、聞いているコンスタンスの方が赤面してくる。
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