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その手の人
③
しおりを挟む幽さんは場所を移動して、窓のさんに腰掛けている。高い位置から私達を見下して、事の成り行きを見守っていた。
私は、幽さんの言う通り、何も話さずに白ご飯をお茶碗によそって彼女に渡した。彼女も、何も言わず静かに受け取る。
「いただきます…」
私は小さな声でそう言うと、彼女の事は無視してご飯を食べ始めた。板前さんが作ってくれたせっかくのご馳走は全く何も味がしないし、こんなシチュエーションでは何を食べても喉に詰まって飲み込めない。
私はチラッと幽さんを見た。彼女に悟られないように遠くを見るふりをして。
「あの!」
突然の彼女の大きな声に私は心臓が飛び出たかと思った。
「あ、はい…」
私は彼女の顔を見て、さらに鳥肌が立った。
ろうそくの炎越しに見える彼女の顔は、さっきまでの穏やかな優しい顔じゃない。釣り上がった目にへの字に下がった口。そのバランスの悪さがさらに不気味さを引きたてる。
「一人にしてもらえませんか…
私は一人になりたくて、ここへわざわざ来たんです。
あなたとお喋りなんかしたくない。私が喋りたい相手は他にいるんです」
この人、幽さんが見えてる? 私はゾッとして、また幽さんの方へ目を向けた。
幽さんは静かに首を横に振る。
……大丈夫、彼女は何も見えてないよ。
すると、彼女は持っていた箸を音を立ててテーブルに置いた。私はその音にさえ怖くて体が震える。
「実は、私、死に場所を探しているんです。
っていうか、生きる事に意味を見出せなくなって、毎日死ぬ事ばかり考えるようになった時、この旅館の企画を目にして。
その頃の私は、全ての欲というものを失っていて、それなのに、この旅館の109号室というワードにびっくりするくらい心惹かれて…
それから、この旅館ほたる荘の109号室にまつわる話を私なりに調べてみたら、ある事実にたどり着いたんです」
私は幽さんの気配を隣に感じた。普通だったらゾッとするところだけど、私の体には不思議とパワーがみなぎる。幽さんは幽霊だけど幽霊じゃない。私の事を一番に理解してくれる家族と一緒。
「その事実とは?」
ろうそくの炎が縦に長細く伸びていく。橙色だった炎の色は、血が混ざったようなあずき色に変わっていく。そういう変化に彼女は何も気付いていない。
「半世紀ほど昔、この部屋で自殺があった。
でも、その事実は噂になる事もなく、闇に葬られた」
彼女は気付いているのだろうか。幽さんの体が、彼女の隣に一瞬で移動した事を。
「その昔、この街には何十もの旅館や民宿が存在していました。自動車工場に出稼ぎに来ている人、アパートの代わりにして旅館や民宿に長期で滞在している人、色々な事情を抱えた人達がたくさんいたそうです。
そんな中、確かに自殺をした人もいたらしい。
でも、あなたが言うように、真実は誰も知りません。
ましてや、五十年以上も前の話なので、何が真実かさえも。
この109号室はそんな事があったかもしれない部屋として、私達は利用させてもらっています。信じる信じないはあなた次第的な、あやふやな企画として」
さっきまで挑戦的だったその彼女は、今度はポロポロと大粒の涙を流し始めた。情緒不安定極まりない。笑ったり怒ったり、今は、何を思って泣いているのだろう。
…多実ちゃん、ちょっとだけ僕に協力してほしい。
彼女は怪奇現象とか、怖がらせるとか、そんなものは必要のない人間だよ。もう、闇の世界に迷い込んでる、恐怖の固まりのような最悪の場所に。
私は心の中で頷いた。すると、幽さんの意見に賛同したと同時に、ちょっとだけ頭の中がふわりと風船みたいに持ち上がる感覚を覚えた。
「今日、お客様がこの旅館へ来た事は、何かの理由があるはずです。
その理由を一緒に見つけましょう」
私はそんな事を言いながら、その言葉が自分自身から出た言葉なのか今一つよく分からなかった。脳みそも心臓も風船みたいにふわふわ浮かんでいる感じがして、私自身の思考回路も何だか止まっているみたいだし、どうなっているのかさっぱり分からない。
私はおもむろに立ち上がり、古めかしい茶色い傘のついたタイプの電灯のひもを下に引いた。昨日替えたばかりの電球は思いのほか部屋を明るく照らしてくれる。
そして、テレビ台の上にセッティングしたろうそくの火を消し、次にテーブルの真ん中に置いてあるろうそくにも息を吹きかけた。
その彼女はまだ泣いている。私のしている事には何も反応を示さずに。
「明るい場所でご飯をいただきましょう」
私はそんな事を言っているが、急激に食欲が湧いたわけではない。ただ、肩の力を抜いてリラックスしているだけ。自分の言動や行動は、その空間の時の流れに任せている。いや、幽さんにかな…
私は冷めてしまった料理を無理に頬張った。口をもぐもぐ動かしながら、彼女の綺麗な顔を垣間見る。こんなに美しい人なのに何がそんなに辛いのだろうと、少しだけ彼女に歩み寄りながら。
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