本物でよければ紹介します

便葉

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その手の人

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 幽さんは、いつの間にか、彼女から遠く離れた場所に移動していた。その表情はまだ険しいけれど、でも、私と目が合うととりあえず笑ってくれる。
 私が黙ってご飯を食べていると、その彼女は泣き腫らした目で、やっと私を見てくれた。重い空気が二人を包み込む。でも、根っからのポジティブ人間の私は、そんな空気を小さく息を吐いて端っこへ追いやった。すると、耳元でフフッて幽さんの笑い声が聞こえる。そんな微妙な癒しが何だか嬉しかった。

「わ、私、やっぱり一人になりたいんです。
 一人にならなきゃ、何も始まらない」

 彼女の潤んだ瞳の奥に、蛇の顔が見えた。私は食べている物を吐き出しそうになるくらいに、心臓が飛び跳ねた。

…幽さん、蛇がいる。

 幽さんはまだ離れた場所に座っている。でも、確実に、臨戦態勢に入っていた。

…彼女はあの蛇に憑りつかれているんだ。でも、まだ、彼女の思考は生きている。
 だから、多実ちゃん、彼女と他愛もない会話をして。子供の頃の話とか、嬉しかった事とか。

「そんなに一人が好きなんですか?
 一人って、そんなに楽しいもんじゃないって私は思うけど」

 私は自然の流れに身を任せていたが、果たして、自分の話の進め方が正しいのかは自信がなかった。でも、聞いてしまったものは取り消せない。彼女の瞳がキッと釣り上がる。でも、すぐにまともに戻り、私はホッとした。

「一人は好きじゃない…
 本当の事を言えば、一人は苦手。
 母子家庭で育ったせいで留守番が多かったし、兄弟もいなかったから、一人って慣れてるつもりでいたんだけど、実際は、一番苦手なものになってた…」

 じゃ、何で?っていう質問は封印した。片親っていう彼女の事情が、同じ境遇の私の心に刺さったから。

「私も一人は好きじゃない。
 私は父子家庭で育ちました。兄弟もいません。でも、一人ぼっちって思った事はあまりないんです。世間一般の人からすれば、絶対的に可哀想な境遇で、でも、お父さんもいるし、友達もいるし、人間って絶対に一人になる事なんてできないって思ってるんです。
 お客様の今日だってそう。
 一人になる事なんてできなかったでしょ?」

 彼女は口角を上げて小さく微笑んだ。本当に綺麗な人…

「でも、お客様は、私からしたら羨ましい限りです。
 だって、お母さんがずっといてくれたんだから。
 私は… お父さんは、大好きだけど、でも、やっぱりお母さんが近くに居てほしかったなんていつも思ってました」

 私はこんな風に自分の本音を話している事に驚いた。こういう風に思う事さえ罪だと思っていた幼少時代。私がこんな風に思ったら、お父さんが可哀想。そんな苦しい思いが今になって私の心を占領し始める。

…多実ちゃん、気を付けるんだ。負のイメージを自分の心から排除して。
 多実ちゃんのお父さんは、多実ちゃんにたくさんの幸せを与えてくれた。
 おばあちゃんも、ここで働く皆んなだって。
 多実ちゃんはたくさんの人達に愛されて育ったんだ。
 僕が言うから間違いない。だって、僕は、多実ちゃんが生まれた時から、多実ちゃんを見続けているんだから。

 私はハッとした。彼女にずっと見られているせいで、彼女の眼差しが心地よくなっている。

…多実ちゃん、心を乗っ取られないように踏ん張るんだ。

 私は一回目を閉じた。瞼の奥には大好きなお父さんとおばあちゃん、それに幽さんの顔だって浮かんでくる。そして、静かに息を吐き、私はゆっくりと目を開けた。

 そこにいる彼女の顔は、頭のてっぺんから引っ張られたように全てが釣り上がって見える。そこにいるのは、私の大切なお客様ではない。彼女に憑いている金色の目を持つ灰色の蛇。
 私はこれ見よがしに大きく深呼吸をした。

「お客様のお母さまはどんな人だったんですか?
 きっと、綺麗な人だと思う。
 だって、お客様がこんなに綺麗なんだもん」

 もし、彼女がその邪悪な何かに乗っ取られているのなら、彼女をその前に引き寄せるしかない。とにかく楽しい思い出を引き出さなくちゃ。

「お母さんの手作りのお料理で何が好きですか?
 私はおばあちゃんの料理なんですけど、手作りあんみつが大好物なんです。
 実は、今日の献立にも入れてもらってるんですよ」

 私はそう言って、そのあんみつを彼女の前に差し出した。
 綺麗に切り揃えられた寒天は、透明なものもあればピンク色に染まったものある。その寒天に混ざって季節の果物がたっぷり入っている。そして、その上には手作りのあんこがこんもりと盛られていた。

「美味しそう…」

 彼女の目に蛇は見えない。私はすかさず彼女の手にスプーンを持たせた。おばあちゃんの愛情たっぷりのあんみつを食べてもらいたい。何だか分からないけれど、絶対に食べてほしい。
 彼女は、そのスプーンで、ピンク色の寒天と粒粒が残っているあんこを一緒に口に持っていく。

…多実ちゃん、もっと、彼女の意識を現実に引き寄せて。
 自殺願望は一種の気の迷いなんだ。
 絶望の淵であがいている彼女を救ってあげる事は、そんな難しい事じゃない。
 手を差し伸べて、手を握って、一人じゃないって言ってあげるだけでいいんだ。
 楽しい事がこの世界にはたくさんある事を、思い出させてあげるだけでいい。
 僕のようにならないよう、多実ちゃんが救ってあげて…

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