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第四夜 Frankenstein's Dream
Episode28 Vampire Load -鮮血の君主-
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コトリ、と目の前の白骨が微かに崩音を立てた。
それをただぼうっと見詰めていた彼女…アルカーナ=D=ローゼズ三世は、ふと我に返る。
暗闇に包まれた室内。
一人、玉座に座していた彼女は、ようやく相当の時間が経ったことを知覚した。
記憶が確かなら、目の前の白骨は一人の聖職者だったモノだ。
彼女の目の前に現れた時は、それはまだ血肉を宿し、一つの生命体として在った。
が、聖職者である彼は、アルカーナを「邪悪」と誹り、彼女の言葉に耳を貸すことも無く、彼女を滅しようとした。
それが如何に無謀かつ愚かな所業だったのか。
彼はいま、骨になってからそれを思い知っているだろう。
曰く「Dの血統」
曰く「鮮血の君主」
曰く「魔薔薇」
アルカーナを表す呼び名は数多くある。
深い闇の中で語り継がれてきた恐怖の伝説も、また。
「不老不死」の代表たる怪物。
夜を支配するその一族の中でも、特に旧く、恐れられた存在。
そんな彼女に定命者ごときが挑むこと自体、いかに無謀であるか…彼女の目の前に転がっている白骨が、その証明であると言えた。
(…詰まらない…)
朽ち始めつつある白骨を、一体どのくらい前から見詰めていたのだろう。
アルカーナに生気を奪われ、骨と皮だけと化し、物言わぬ骸となった聖職者。
立ち昇る腐臭と湧き始めた蛆共を、何をするでもなく見つめ続け、ただ過ぎ去る時間を忘れて、何十年。
途方もない時間を用いたそれは、彼女にとっては他愛のない「暇潰し」だ。
時たま彼女の居城を訪れる命知らずな獲物の相手をし、その骸が骨になるまでの間、ただ見詰めるだけの意味の無い行為。
しかし、何の益体も無いそんな行為に費やす時間すら、彼女にとってはいくら汲んでも尽きない海水に等しかった。
「…む?」
ふと。
彼女は目の前に広がる闇の奥を見やった。
開け放たれた扉の先の暗闇の奥…そこから、何か得も知れぬ気配が感じ取れる。
やがて、地獄の闇をも見通す彼女の目に、ひと際黒いライダースーツのような服を身に付けた一人の男が映った。
年の頃は二十代半ば。
端正な顔に漆黒の髪。
赤銅色の瞳が、闇の中から彼女を射抜く。
男は恐れる風も無く、一歩ずつ彼女に向かって歩いて来た。
「お前がアルカーナ=D=ローゼス三世か…?」
静かに燃える熾火のような声で、男がそう尋ねてくる。
彼女…アルカーナは目を細めた。
「…すまないが、無断で我が城を侵し、名乗りもしない不躾な輩と交わす言葉は無い」
そうして、深紅の瞳を光らせる。
「疾く去ね、下郎。命が惜しくば…な」
アルカーナの警告に男が笑う。
「命か…ふん、欲しけりゃくれてやるさ」
そう言うと、男は右の手の平をその眼前で開いた。
「ただし…お前みたいな小娘に奪い尽くすことができるなら、だがな」
その手の平の中に業、と赫い炎が咲いた。
暗かった室内が、あまねく照らし出される。
アルカーナの人外の中性的な美貌と、漆黒の夜会服と外套が炎に浮かび上がった。
が、彼女は動じることなく、わずかに溜息を吐く。
「…下らない」
「あん?」
「『下らない』と言ったのだ、下郎」
不可思議な力を発現させる男を前に、アルカーナはその退廃的な表情を崩さなかった。
「そのような大道芸を『異能』と誇り、我が眼前を汚す輩などこれまでも掃いて捨てるほど見てきた…どうせ、お前もその一塊に過ぎぬのだろう?」
白銀の髪を掻き上げ、アルカーナは続けた。
「私はいま疲れている。目こぼしをくれてやるから、さっさと去ね」
「生憎とこちとら仕事でな」
右拳に紅蓮の炎を纏わせつつ、男が薄く笑う。
「上から言われたのさ…『時代遅れの藪蚊貴族を始末して来い』ってな」
「…忠告はしたぞ」
言うや否や、アルカーナは左手で眼前を払うように振った。
それだけで五本の爪が光線の如く奔り、男の五体を貫通する。
避けることも叶わず、串刺しになる男。
その一本は、男の心臓を確実に貫いていた。
ほぼ即死である。
細かく痙攣しつつ崩れ落ちるその身体を見下ろしながら、アルカーナはふと目を伏せた。
「本来なら、お前のような下種の血など口にするのも値しないが、その薄汚い血で床を汚されると下女共が掃除に困るのでね…まあ、これは迷惑料だと思いたまえ」
伸びた爪がその切っ先から深紅に染まる。
その滴りが指先まで達すると、男の身体が少しずつ縮み始めた。
命の源…血液が奪われているのだ。
さもありなん。
アルカーナは、夜に生きる闇の貴族…吸血鬼だった。
「ふん、予想通り不味い血だ………!?」
そう呟いた瞬間、アルカーナは咄嗟に伸ばしていた爪を引き抜いた。
元の長さに戻ったその爪は、いずれも焼け焦げていた。
内心、瞠目するアルカーナの眼前で、死体だったはずの男が、ゆっくりと起き上がる。
「勘が鋭いな」
男は傷が完全に塞がるのを確認してから、そう言って笑った。
「もう少しで、骨の髄まで消し炭にしてやったんだが」
「貴様…」
いつもと違い、なかなか癒えない爪先の火傷に、アルカーナが男を睨む。
「ただの人間ではないな…?」
「名乗りがまだだったな」
アルカーナの問いを無視しつつ、男が再び右手に炎を宿す。
「俺は十逢 頼都」
火影に揺れるその貌に、炎の悪魔の如き凶相が浮かぶ。
「分かりやすく“鬼火南瓜”って名乗った方がいいか?」
男…頼都の目に炎が揺れる。
アルカーナは初めて驚きの表情を浮かべた。
「…聞いたことがある」
アルカーナはまるで頼都の炎に引き寄せられるように、玉座から立ち上がり、一歩踏み出した。
「遙か昔、悪魔との取り引きで、とある魔石を奪い取ったため、地獄にも行けず、その罪のために天国にも迎え入れられない魂を持った、永遠の彷徨い人がいる…と」
「…へぇ。お前みたいな小娘にも知れ渡るとはな」
頼都は肩を竦めた。
「無駄に長生きしてみるもんだ」
「…もう一つ、聞いた噂がある」
アルカーナの声が低くなった。
「その彷徨い人は、今度は人間共とある盟約を交わし、人に仇成す怪物達を狩るようになった…いわば我々闇の世界に生きる者達にとっては裏切り者というわけだ」
アルカーナの目がわずかに細まる。
「…そして、その裏切り者は『掟』に乗っ取った狩りの対価に、あるものを得ようとしているとか…」
今度は無言になる頼都。
アルカーナは侮蔑を込めて尋ねた。
「…貴様、そんなに人間に戻りたいのか…?」
「へっ…」
頼都の右手の炎が、激しく燃え上がる。
赤銅色の瞳には、しかし何の感情の色も浮かんでいなかった。
「死ねないってのは想像以上に退屈でね」
一転、からかうように笑みを浮かべる頼都。
「そう言うお前も、身に覚えがあるんじゃねぇのか?」
「口を慎め、無礼者め!」
足元に転がる白骨を踏みつぶしながら、アルカーナは初めて怒りの表情を見せた。
「私が歩む無限の時間は、偉大なる神祖の血によるご加護なればこそ、だ!この偉大なる血筋を、貴様のような下種のそれと同じに考えるな…!」
「そう怒るなよ。まるで図星に聞こえるぜ?」
アルカーナは怒りの表情のまま、腰の細身剣の柄に手を掛けた。
「ほざくな、不遜な永遠の罪人め!神にも悪魔にも見捨てられたその薄汚い命、我が剣にて億片まで切り刻み、無限獄の闇にでもうち捨ててくれよう…!」
「面白れぇ。やれるものなら…」
頼都は不敵に笑いながら地を蹴った。
対するアルカーナが一気に細身剣を引き抜く。
「やってみやがれ…!」
炎と。
刃が交錯した。
-----------------------------------------------------
Hihi-----n!!
一角獣の嘶きが洞窟に響き渡る。
続けて額の一本角で狙いを定め、アルカーナ目掛けて一足飛びで突進。
その一歩ごとにさらなる加速をしていく一角獣。
その速度は、疾走というより、もはや空間跳躍といった方が相応しい。
(速い…!)
間一髪でその一撃を躱すアルカーナ。
吸血鬼の超人的な動体視力をもってしても、捉えるのがやっとだった。
躱されたと知った一角獣は、その勢いを殺すことなく、慣性の法則を無視した逆V字ターンで再度突進してくる。
それを目の当たりにしたアルカーナは目を剥いた。
(やはり!この獣は、僕達が認知する魔術体系以外の何かを身に付けている…!)
一角獣の突進がさらに速度を増す。
眼前に迫る鋭い角の切っ先。
そこから溢れる力の奔流に、アルカーナはわずかに顔を強張らせた。
強い浄化と治癒の力を有し「生命」を体現化したような一角獣は、アルカーナのような不死怪物にとっては猛毒ともいえる「聖属性」の力をその身に宿している。
故に、その一撃を身に受ければ、不死たるアルカーナ自身も無事では済まない。
それは、吸血鬼の王の血統に連なる「吸血鬼君主」であろうと変わらないだろう。
「ハァッ!」
迫る角を、宙に舞うことで辛うじてやり過ごすアルカーナ。
「飛行能力」はアルカーナに限らず、高位の吸血鬼ならば誰でも保有する超能力である。
とりわけ、アルカーナはこの超能力に優れ「Halloween Corps」の中でも随一の空戦能力を持っていた。
相手の頭上を取ったアルカーナは、次の瞬間、黒い疾風と化して一角獣に急降下する。
同時に自らの黒い外套の端を手に取り、一角獣目掛けて突進した。
ザン…!
すれ違いざまに一角獣の首へ外套を打ち振るうアルカーナ。
すると、外套の端が鋭い大鎌のように変化し、一角獣の首を刈ろうと襲い掛かる。
しかし、白い獣はそれを寸前のところで避けた。
美しい黄金の鬣が数条、宙に舞う。
すれ違って着地しつつ、アルカーナは油断なく一角獣を見据えた。
対する一角獣も、鼻息を荒くしつつ、アルカーナを睨む。
立ち位置を変えつつ、両者は再度相対した。
「今の一撃を避けるか…やるな、聖なる獣」
Burrrrrrrr…
不敵に笑うアルカーナの言葉が分かるのか。
あるいはその立ち振る舞いからニュアンスを感じ取ったのか。
自らの身体を傷つけた不浄なる存在に、怒りに燃えた視線を向ける一角獣。
純白のその身体を震わせ、前足で何度も地面を蹴り上げる。
その様子に、アルカーナはうっすら笑みを浮かべた。
「フッ、そうしていると、まるで闘牛の牛のようだな」
そして、自らの外套を広げ、細身剣を片手に深紅の裏地をひらひらと揺らす。
「闘牛がご所望なら、僕も闘牛士の真似事くらいはしてみせるが?」
小馬鹿にしたその様子に、白い獣が怒りの色を目に浮かべる。
興奮した馬のように後ろ足で立ち上がり、鋭く嘶く一角獣。
そして、そのまま再度アルカーナへと突進し始めた。
(かかった!やはり、気性の荒さは伝承通りだったな)
内心、薄く笑うアルカーナ。
神秘を湛えたその純白の身体から、一角獣には大人しく、理知的なイメージで解釈されることが多い。
しかし、実際は非常に気性が荒く、純潔な乙女以外には絶対に懐くことは無い獣である。
そこを逆手に取り、アルカーナは相手をわざと挑発し、真正面から突進して来るように差し向けたのだった。
緒戦のように、空間跳躍の如き速さで突進してくる一角獣。
それに対し、アルカーナは少しづつ背後の岩壁へと後退る。
彼女の狙いは一つ。
一角獣の突進力を逆手に取った自爆だった。
このまま、一角獣の突進をギリギリで躱し、一角獣を背後の岩壁にぶつけ、自爆をさせる作戦だ。
あの巨体に、あの突進力である。
急な制動などできるはずもない。
さらに言えば、岩壁までの距離を考えると、先程のような物理力学を無視したターンも不可能だろう。
そして、強固な岩壁に激突すれば、さすがの一角獣もただでは済むまい。
最悪、隙の一つくらいは出来るはずだ。
そうなれば、勝機はその一瞬に生まれる。
動きさえしなければ、アルカーナにはいかようにもこの幻獣を仕留められる自信があった。
目の前に迫る一角獣。
その相対距離を見極め、アルカーナは先程同様に飛翔した。
(もらった…!)
勝利を確信するアルカーナ。
突進スピードを考えれば、最早いかに急制動をかけようとも激突は免れまい。
そう思った時だった。
Hihiiiiiiin!!
鋭い嘶きを上げる一角獣の巨体が、一瞬で停止した。
目を見張るアルカーナ。
そして、飛び上がりつつあったその右足を、一角獣の角が捉えた。
「ぐあっ!?」
焼けるような痛みが、アルカーナの右腿を襲う。
思わず苦痛の悲鳴を上げて、下を見下ろすと、彼女の右太腿を一角獣の角が貫通していた。
あり得ないことだった。
あれだけ高速で突進してきた巨体が、踏ん張った痕跡すら地面に残さず、狙いすましたように急静止し、アルカーナに一撃を加えたのである。
(これも慣性制御か…!?)
生まれて初めて味わう激痛に美貌を歪ませつつ、アルカーナは地面へと墜落した。
「アル~!」
「援護に向かいます…!」
その様子を見ていた六堂 那津奈(錬金術師)が思わず叫ぶと、その傍らにいたフランチェスカ(雷電可動式人造人間)がフォローに入るべく駆け始める。
が、それをアルカーナが手で制止した。
足を止めるフランチェスカ。
「『那津奈を守れ』と言ったはずだよ、フラン」
「…」
「安心したまえ。この程度で音を上げるようでは…騎士は務まらない!」
言うや否や。
アルカーナは一角獣の頭部を左足で蹴り、強引に角を引き抜こうとする。
肉が避ける嫌な音が洞窟内に響き、那津奈は思わず顔を背けた。
「い、痛い~!それ痛いやつ~!」
「ぐっ…はあああああっ!!」
渾身の力を込めて蹴った反動か、大きく後方に投げ出されるアルカーナ。
大きく抉れた大腿部の傷跡からは、鮮血と共に、肉が焼けるようなにおいや煙、白い灰がこぼれた。
一角獣の角に秘められた聖なる力が、不浄なる不死怪物の身体を浄化した結果である。
ジュウジュウと白煙を上げる傷口を見やりながら、歯を食いしばり、苦痛に耐えるアルカーナ。
一方の一角獣は額から首までを流血で深紅に染め、這いつくばるアルカーナを悠然と見下ろしている。
それにアルカーナは鋭い犬歯を覗かせ、呟いた。
「挑発に煽られた演技までこなすとは…僕の方がまんまと騙されてしまったな」
恐らく、この幻獣は最初からアルカーナの作戦に気付いていたのだろう。
だから、わざわざ激昂したように見せかけ、後先考えぬ突進を「演技」して見せた。
そして、得意の慣性制御により急停止。
宙へと逃れたアルカーナを狙い撃ちにしたのだ。
Burrrrrrrr…
先程とは打って変わって理知的な瞳でアルカーナを見下ろす一角獣。
そして、おもむろに角を水平に構える。
その意図は明白だ。
「生命」に由来する聖なる獣として「生命」を冒涜する不浄な存在を滅ぼす。
アルカーナは目を細めた。
「…介錯をしてくれるのか」
今やその全身は瘧にかかったように細かく震え、傷口からはなおも白煙が上がり、その周囲が灰化している。
たった一撃。
それだけで、不老不死の肉体が崩壊へと向かっていた。
(死ねるのか…ようやく)
アルカーナは胸中で静かに呟いた。
生まれ出でてから三百年以上の時を生き、誇り高き神祖の血統を受け継いできたアルカーナ。
永劫に続くその時間の中、いつしかアルカーナが抱いていたのは「虚無」だった。
地位も名誉、不老不死にすら約束された未来無き未来。
ただ「存在する」という、目的の無い日々に、彼女は全ての情熱を失っていた。
故に。
その胸の中には、いつしか「滅びへの渇望」が生まれたのだ。
本来ならば、それは吸血鬼としては許されない思考だ。
なにしろ、神祖の血筋はアルカーナ一人のものでは無い。
父母をはじめ、数人の大貴族が厳格な掟を敷き、その血統を守っている。
死すら安易に自由には選べない。
だから、アルカーナ自身が選べるものはとても少なかった。
その拘束から解放されるためには「他者に敗北し、滅びる」しかない。
そしていま、彼女の目の前にはそれがあった。
(…これで楽になれる…)
目を閉じるアルカーナ。
その瞼の裏に。
かつて目にした、鮮やかな紅蓮の炎が焼き付いていた。
一角獣が突進する。
水平に構えられた角が鈍く光り、汚れたアルカーナの血を一瞬で蒸発した。
遠く、那津奈の悲鳴が響く。
慌てた風に駆け寄る足音は、たぶんフランチェスカのものだろう。
(あれほど、言ったのに。僕を助けるために…まったく、仕方がない娘だ)
わずかに苦笑するアルカーナ。
脳裏に、旅立ちの際、彼女に伝えた言葉が浮かぶ。
『このアルカーナ、誠心誠意、君を守ろう』
(…嘘つきになってしまうな)
アルカーナの目がそっと開かれる。
直後、鈍い音と衝撃音が洞窟内に響いた。
目を見開く那津奈の前で。
アルカーナの心臓に一角獣の角が突き立てられていた。
「アルカーナ!」
そう叫んだのは、果たして那津奈だったか。
それとも、アルカーナを助けようと走り始めた、人造人間の少女だったか。
アルカーナの身体を縫い付けたまま、岩肌に突き刺さる一角獣の角。
完全に串刺しになったアルカーナの身体から、凄まじい白煙が上がる。
同時に、その身体が溶けるように一瞬で消失した。
「そ、そんな…!」
呆然となる那津奈。
駆け出していたフランチェスカも、崩壊したアルカーナの最期に棒立ちになる。
Burrrrrrrr…
一角獣が岩肌から角を引き抜いた。
そして、大きく首を振ると、今度はフランチェスカに向き直る。
そのまま二度三度、前足を蹴る一角獣。
フランチェスカは棒立ちのままだ。
「フランちゃん!」
那津奈の呼び掛けにも、微動だにしないフランチェスカ。
前髪に隠れたその視線は、アルカーナのいた場所に吸い寄せられている。
一角獣が嘶く。
先程角を掴まれ、放り投げられた相手を忘れたわけではなさそうだ。
「…大気成分、探査完了…」
誰とはなしに呟くフランチェスカ。
それを意に介した風も無く、一角獣が三度目の疾走を始める。
那津奈が再度声を上げた。
「フランちゃん、早く逃げて!」
一角獣の角の威力は、岩肌に刻まれた痕跡が如実に語っている。
先程、フランチェスカが角を掴めたのは、彼女の怪力もあるが、一角獣の隙を突き、横合いから割り込んだせいもある。
しかし、今度は真正面から相対する形だ。
その衝撃や破壊力は、先程受け止めた時の比ではない。
「距離…30…20…10…」
微動だにしないフランチェスカ。
そして、彼女は不意に声を上げた。
「今が間合いです。アルカーナ…!」
(心得た)
そんな声が。
大気中から響いた。
それが消滅したはずのアルカーナの声であることに気付いた那津奈は、ハッとなって宙を見回す。
そこにはアルカーナが消滅した時に立ち昇った煙が漂っていた。
いや。
那津奈は何かに気付き、目を見張った。
(これは…煙りじゃないよ~!?)
瞬間。
それは一角獣の背中に現れた。
いや、正しくはそこに凝縮した。
背中の存在に気付いた一角獣が、急制動を行う。
背中に向けたその目に映ったのは、漆黒の夜会服と外套。
そして、凍るような人外の美貌に光る深紅の瞳だった。
「かかったね」
それが今しがた自分が消滅させた相手と知り、聖なる獣は激しく動揺した。
そんな相手の反応を楽しむかのように、夜の貴族…アルカーナが微笑する。
「君の角がいかに鋭く、どれだけ清らかでも、闇夜に漂う霧を貫くことは出来ないだろう…?」
それに那津奈が声を上げる。
「吸血鬼の『霧化』能力…!」
「そういうことだ。今度は僕が演技させてもらったよ」
妖艶に微笑みながら、アルカーナは自らの外套を手にした。
「さようなら、聖なる獣。そこそこ楽しめたよ」
ザン…!
外套を一閃すると共に、一角獣の太い首が鮮やかに切り裂かれた。
切断された切り口から噴き上がる鮮血の雨を防ぐように、マントで身を庇いながらアルカーナは静かに告げた。
「悪いが嘘を吐くのは、死んでも御免なのでね」
それをただぼうっと見詰めていた彼女…アルカーナ=D=ローゼズ三世は、ふと我に返る。
暗闇に包まれた室内。
一人、玉座に座していた彼女は、ようやく相当の時間が経ったことを知覚した。
記憶が確かなら、目の前の白骨は一人の聖職者だったモノだ。
彼女の目の前に現れた時は、それはまだ血肉を宿し、一つの生命体として在った。
が、聖職者である彼は、アルカーナを「邪悪」と誹り、彼女の言葉に耳を貸すことも無く、彼女を滅しようとした。
それが如何に無謀かつ愚かな所業だったのか。
彼はいま、骨になってからそれを思い知っているだろう。
曰く「Dの血統」
曰く「鮮血の君主」
曰く「魔薔薇」
アルカーナを表す呼び名は数多くある。
深い闇の中で語り継がれてきた恐怖の伝説も、また。
「不老不死」の代表たる怪物。
夜を支配するその一族の中でも、特に旧く、恐れられた存在。
そんな彼女に定命者ごときが挑むこと自体、いかに無謀であるか…彼女の目の前に転がっている白骨が、その証明であると言えた。
(…詰まらない…)
朽ち始めつつある白骨を、一体どのくらい前から見詰めていたのだろう。
アルカーナに生気を奪われ、骨と皮だけと化し、物言わぬ骸となった聖職者。
立ち昇る腐臭と湧き始めた蛆共を、何をするでもなく見つめ続け、ただ過ぎ去る時間を忘れて、何十年。
途方もない時間を用いたそれは、彼女にとっては他愛のない「暇潰し」だ。
時たま彼女の居城を訪れる命知らずな獲物の相手をし、その骸が骨になるまでの間、ただ見詰めるだけの意味の無い行為。
しかし、何の益体も無いそんな行為に費やす時間すら、彼女にとってはいくら汲んでも尽きない海水に等しかった。
「…む?」
ふと。
彼女は目の前に広がる闇の奥を見やった。
開け放たれた扉の先の暗闇の奥…そこから、何か得も知れぬ気配が感じ取れる。
やがて、地獄の闇をも見通す彼女の目に、ひと際黒いライダースーツのような服を身に付けた一人の男が映った。
年の頃は二十代半ば。
端正な顔に漆黒の髪。
赤銅色の瞳が、闇の中から彼女を射抜く。
男は恐れる風も無く、一歩ずつ彼女に向かって歩いて来た。
「お前がアルカーナ=D=ローゼス三世か…?」
静かに燃える熾火のような声で、男がそう尋ねてくる。
彼女…アルカーナは目を細めた。
「…すまないが、無断で我が城を侵し、名乗りもしない不躾な輩と交わす言葉は無い」
そうして、深紅の瞳を光らせる。
「疾く去ね、下郎。命が惜しくば…な」
アルカーナの警告に男が笑う。
「命か…ふん、欲しけりゃくれてやるさ」
そう言うと、男は右の手の平をその眼前で開いた。
「ただし…お前みたいな小娘に奪い尽くすことができるなら、だがな」
その手の平の中に業、と赫い炎が咲いた。
暗かった室内が、あまねく照らし出される。
アルカーナの人外の中性的な美貌と、漆黒の夜会服と外套が炎に浮かび上がった。
が、彼女は動じることなく、わずかに溜息を吐く。
「…下らない」
「あん?」
「『下らない』と言ったのだ、下郎」
不可思議な力を発現させる男を前に、アルカーナはその退廃的な表情を崩さなかった。
「そのような大道芸を『異能』と誇り、我が眼前を汚す輩などこれまでも掃いて捨てるほど見てきた…どうせ、お前もその一塊に過ぎぬのだろう?」
白銀の髪を掻き上げ、アルカーナは続けた。
「私はいま疲れている。目こぼしをくれてやるから、さっさと去ね」
「生憎とこちとら仕事でな」
右拳に紅蓮の炎を纏わせつつ、男が薄く笑う。
「上から言われたのさ…『時代遅れの藪蚊貴族を始末して来い』ってな」
「…忠告はしたぞ」
言うや否や、アルカーナは左手で眼前を払うように振った。
それだけで五本の爪が光線の如く奔り、男の五体を貫通する。
避けることも叶わず、串刺しになる男。
その一本は、男の心臓を確実に貫いていた。
ほぼ即死である。
細かく痙攣しつつ崩れ落ちるその身体を見下ろしながら、アルカーナはふと目を伏せた。
「本来なら、お前のような下種の血など口にするのも値しないが、その薄汚い血で床を汚されると下女共が掃除に困るのでね…まあ、これは迷惑料だと思いたまえ」
伸びた爪がその切っ先から深紅に染まる。
その滴りが指先まで達すると、男の身体が少しずつ縮み始めた。
命の源…血液が奪われているのだ。
さもありなん。
アルカーナは、夜に生きる闇の貴族…吸血鬼だった。
「ふん、予想通り不味い血だ………!?」
そう呟いた瞬間、アルカーナは咄嗟に伸ばしていた爪を引き抜いた。
元の長さに戻ったその爪は、いずれも焼け焦げていた。
内心、瞠目するアルカーナの眼前で、死体だったはずの男が、ゆっくりと起き上がる。
「勘が鋭いな」
男は傷が完全に塞がるのを確認してから、そう言って笑った。
「もう少しで、骨の髄まで消し炭にしてやったんだが」
「貴様…」
いつもと違い、なかなか癒えない爪先の火傷に、アルカーナが男を睨む。
「ただの人間ではないな…?」
「名乗りがまだだったな」
アルカーナの問いを無視しつつ、男が再び右手に炎を宿す。
「俺は十逢 頼都」
火影に揺れるその貌に、炎の悪魔の如き凶相が浮かぶ。
「分かりやすく“鬼火南瓜”って名乗った方がいいか?」
男…頼都の目に炎が揺れる。
アルカーナは初めて驚きの表情を浮かべた。
「…聞いたことがある」
アルカーナはまるで頼都の炎に引き寄せられるように、玉座から立ち上がり、一歩踏み出した。
「遙か昔、悪魔との取り引きで、とある魔石を奪い取ったため、地獄にも行けず、その罪のために天国にも迎え入れられない魂を持った、永遠の彷徨い人がいる…と」
「…へぇ。お前みたいな小娘にも知れ渡るとはな」
頼都は肩を竦めた。
「無駄に長生きしてみるもんだ」
「…もう一つ、聞いた噂がある」
アルカーナの声が低くなった。
「その彷徨い人は、今度は人間共とある盟約を交わし、人に仇成す怪物達を狩るようになった…いわば我々闇の世界に生きる者達にとっては裏切り者というわけだ」
アルカーナの目がわずかに細まる。
「…そして、その裏切り者は『掟』に乗っ取った狩りの対価に、あるものを得ようとしているとか…」
今度は無言になる頼都。
アルカーナは侮蔑を込めて尋ねた。
「…貴様、そんなに人間に戻りたいのか…?」
「へっ…」
頼都の右手の炎が、激しく燃え上がる。
赤銅色の瞳には、しかし何の感情の色も浮かんでいなかった。
「死ねないってのは想像以上に退屈でね」
一転、からかうように笑みを浮かべる頼都。
「そう言うお前も、身に覚えがあるんじゃねぇのか?」
「口を慎め、無礼者め!」
足元に転がる白骨を踏みつぶしながら、アルカーナは初めて怒りの表情を見せた。
「私が歩む無限の時間は、偉大なる神祖の血によるご加護なればこそ、だ!この偉大なる血筋を、貴様のような下種のそれと同じに考えるな…!」
「そう怒るなよ。まるで図星に聞こえるぜ?」
アルカーナは怒りの表情のまま、腰の細身剣の柄に手を掛けた。
「ほざくな、不遜な永遠の罪人め!神にも悪魔にも見捨てられたその薄汚い命、我が剣にて億片まで切り刻み、無限獄の闇にでもうち捨ててくれよう…!」
「面白れぇ。やれるものなら…」
頼都は不敵に笑いながら地を蹴った。
対するアルカーナが一気に細身剣を引き抜く。
「やってみやがれ…!」
炎と。
刃が交錯した。
-----------------------------------------------------
Hihi-----n!!
一角獣の嘶きが洞窟に響き渡る。
続けて額の一本角で狙いを定め、アルカーナ目掛けて一足飛びで突進。
その一歩ごとにさらなる加速をしていく一角獣。
その速度は、疾走というより、もはや空間跳躍といった方が相応しい。
(速い…!)
間一髪でその一撃を躱すアルカーナ。
吸血鬼の超人的な動体視力をもってしても、捉えるのがやっとだった。
躱されたと知った一角獣は、その勢いを殺すことなく、慣性の法則を無視した逆V字ターンで再度突進してくる。
それを目の当たりにしたアルカーナは目を剥いた。
(やはり!この獣は、僕達が認知する魔術体系以外の何かを身に付けている…!)
一角獣の突進がさらに速度を増す。
眼前に迫る鋭い角の切っ先。
そこから溢れる力の奔流に、アルカーナはわずかに顔を強張らせた。
強い浄化と治癒の力を有し「生命」を体現化したような一角獣は、アルカーナのような不死怪物にとっては猛毒ともいえる「聖属性」の力をその身に宿している。
故に、その一撃を身に受ければ、不死たるアルカーナ自身も無事では済まない。
それは、吸血鬼の王の血統に連なる「吸血鬼君主」であろうと変わらないだろう。
「ハァッ!」
迫る角を、宙に舞うことで辛うじてやり過ごすアルカーナ。
「飛行能力」はアルカーナに限らず、高位の吸血鬼ならば誰でも保有する超能力である。
とりわけ、アルカーナはこの超能力に優れ「Halloween Corps」の中でも随一の空戦能力を持っていた。
相手の頭上を取ったアルカーナは、次の瞬間、黒い疾風と化して一角獣に急降下する。
同時に自らの黒い外套の端を手に取り、一角獣目掛けて突進した。
ザン…!
すれ違いざまに一角獣の首へ外套を打ち振るうアルカーナ。
すると、外套の端が鋭い大鎌のように変化し、一角獣の首を刈ろうと襲い掛かる。
しかし、白い獣はそれを寸前のところで避けた。
美しい黄金の鬣が数条、宙に舞う。
すれ違って着地しつつ、アルカーナは油断なく一角獣を見据えた。
対する一角獣も、鼻息を荒くしつつ、アルカーナを睨む。
立ち位置を変えつつ、両者は再度相対した。
「今の一撃を避けるか…やるな、聖なる獣」
Burrrrrrrr…
不敵に笑うアルカーナの言葉が分かるのか。
あるいはその立ち振る舞いからニュアンスを感じ取ったのか。
自らの身体を傷つけた不浄なる存在に、怒りに燃えた視線を向ける一角獣。
純白のその身体を震わせ、前足で何度も地面を蹴り上げる。
その様子に、アルカーナはうっすら笑みを浮かべた。
「フッ、そうしていると、まるで闘牛の牛のようだな」
そして、自らの外套を広げ、細身剣を片手に深紅の裏地をひらひらと揺らす。
「闘牛がご所望なら、僕も闘牛士の真似事くらいはしてみせるが?」
小馬鹿にしたその様子に、白い獣が怒りの色を目に浮かべる。
興奮した馬のように後ろ足で立ち上がり、鋭く嘶く一角獣。
そして、そのまま再度アルカーナへと突進し始めた。
(かかった!やはり、気性の荒さは伝承通りだったな)
内心、薄く笑うアルカーナ。
神秘を湛えたその純白の身体から、一角獣には大人しく、理知的なイメージで解釈されることが多い。
しかし、実際は非常に気性が荒く、純潔な乙女以外には絶対に懐くことは無い獣である。
そこを逆手に取り、アルカーナは相手をわざと挑発し、真正面から突進して来るように差し向けたのだった。
緒戦のように、空間跳躍の如き速さで突進してくる一角獣。
それに対し、アルカーナは少しづつ背後の岩壁へと後退る。
彼女の狙いは一つ。
一角獣の突進力を逆手に取った自爆だった。
このまま、一角獣の突進をギリギリで躱し、一角獣を背後の岩壁にぶつけ、自爆をさせる作戦だ。
あの巨体に、あの突進力である。
急な制動などできるはずもない。
さらに言えば、岩壁までの距離を考えると、先程のような物理力学を無視したターンも不可能だろう。
そして、強固な岩壁に激突すれば、さすがの一角獣もただでは済むまい。
最悪、隙の一つくらいは出来るはずだ。
そうなれば、勝機はその一瞬に生まれる。
動きさえしなければ、アルカーナにはいかようにもこの幻獣を仕留められる自信があった。
目の前に迫る一角獣。
その相対距離を見極め、アルカーナは先程同様に飛翔した。
(もらった…!)
勝利を確信するアルカーナ。
突進スピードを考えれば、最早いかに急制動をかけようとも激突は免れまい。
そう思った時だった。
Hihiiiiiiin!!
鋭い嘶きを上げる一角獣の巨体が、一瞬で停止した。
目を見張るアルカーナ。
そして、飛び上がりつつあったその右足を、一角獣の角が捉えた。
「ぐあっ!?」
焼けるような痛みが、アルカーナの右腿を襲う。
思わず苦痛の悲鳴を上げて、下を見下ろすと、彼女の右太腿を一角獣の角が貫通していた。
あり得ないことだった。
あれだけ高速で突進してきた巨体が、踏ん張った痕跡すら地面に残さず、狙いすましたように急静止し、アルカーナに一撃を加えたのである。
(これも慣性制御か…!?)
生まれて初めて味わう激痛に美貌を歪ませつつ、アルカーナは地面へと墜落した。
「アル~!」
「援護に向かいます…!」
その様子を見ていた六堂 那津奈(錬金術師)が思わず叫ぶと、その傍らにいたフランチェスカ(雷電可動式人造人間)がフォローに入るべく駆け始める。
が、それをアルカーナが手で制止した。
足を止めるフランチェスカ。
「『那津奈を守れ』と言ったはずだよ、フラン」
「…」
「安心したまえ。この程度で音を上げるようでは…騎士は務まらない!」
言うや否や。
アルカーナは一角獣の頭部を左足で蹴り、強引に角を引き抜こうとする。
肉が避ける嫌な音が洞窟内に響き、那津奈は思わず顔を背けた。
「い、痛い~!それ痛いやつ~!」
「ぐっ…はあああああっ!!」
渾身の力を込めて蹴った反動か、大きく後方に投げ出されるアルカーナ。
大きく抉れた大腿部の傷跡からは、鮮血と共に、肉が焼けるようなにおいや煙、白い灰がこぼれた。
一角獣の角に秘められた聖なる力が、不浄なる不死怪物の身体を浄化した結果である。
ジュウジュウと白煙を上げる傷口を見やりながら、歯を食いしばり、苦痛に耐えるアルカーナ。
一方の一角獣は額から首までを流血で深紅に染め、這いつくばるアルカーナを悠然と見下ろしている。
それにアルカーナは鋭い犬歯を覗かせ、呟いた。
「挑発に煽られた演技までこなすとは…僕の方がまんまと騙されてしまったな」
恐らく、この幻獣は最初からアルカーナの作戦に気付いていたのだろう。
だから、わざわざ激昂したように見せかけ、後先考えぬ突進を「演技」して見せた。
そして、得意の慣性制御により急停止。
宙へと逃れたアルカーナを狙い撃ちにしたのだ。
Burrrrrrrr…
先程とは打って変わって理知的な瞳でアルカーナを見下ろす一角獣。
そして、おもむろに角を水平に構える。
その意図は明白だ。
「生命」に由来する聖なる獣として「生命」を冒涜する不浄な存在を滅ぼす。
アルカーナは目を細めた。
「…介錯をしてくれるのか」
今やその全身は瘧にかかったように細かく震え、傷口からはなおも白煙が上がり、その周囲が灰化している。
たった一撃。
それだけで、不老不死の肉体が崩壊へと向かっていた。
(死ねるのか…ようやく)
アルカーナは胸中で静かに呟いた。
生まれ出でてから三百年以上の時を生き、誇り高き神祖の血統を受け継いできたアルカーナ。
永劫に続くその時間の中、いつしかアルカーナが抱いていたのは「虚無」だった。
地位も名誉、不老不死にすら約束された未来無き未来。
ただ「存在する」という、目的の無い日々に、彼女は全ての情熱を失っていた。
故に。
その胸の中には、いつしか「滅びへの渇望」が生まれたのだ。
本来ならば、それは吸血鬼としては許されない思考だ。
なにしろ、神祖の血筋はアルカーナ一人のものでは無い。
父母をはじめ、数人の大貴族が厳格な掟を敷き、その血統を守っている。
死すら安易に自由には選べない。
だから、アルカーナ自身が選べるものはとても少なかった。
その拘束から解放されるためには「他者に敗北し、滅びる」しかない。
そしていま、彼女の目の前にはそれがあった。
(…これで楽になれる…)
目を閉じるアルカーナ。
その瞼の裏に。
かつて目にした、鮮やかな紅蓮の炎が焼き付いていた。
一角獣が突進する。
水平に構えられた角が鈍く光り、汚れたアルカーナの血を一瞬で蒸発した。
遠く、那津奈の悲鳴が響く。
慌てた風に駆け寄る足音は、たぶんフランチェスカのものだろう。
(あれほど、言ったのに。僕を助けるために…まったく、仕方がない娘だ)
わずかに苦笑するアルカーナ。
脳裏に、旅立ちの際、彼女に伝えた言葉が浮かぶ。
『このアルカーナ、誠心誠意、君を守ろう』
(…嘘つきになってしまうな)
アルカーナの目がそっと開かれる。
直後、鈍い音と衝撃音が洞窟内に響いた。
目を見開く那津奈の前で。
アルカーナの心臓に一角獣の角が突き立てられていた。
「アルカーナ!」
そう叫んだのは、果たして那津奈だったか。
それとも、アルカーナを助けようと走り始めた、人造人間の少女だったか。
アルカーナの身体を縫い付けたまま、岩肌に突き刺さる一角獣の角。
完全に串刺しになったアルカーナの身体から、凄まじい白煙が上がる。
同時に、その身体が溶けるように一瞬で消失した。
「そ、そんな…!」
呆然となる那津奈。
駆け出していたフランチェスカも、崩壊したアルカーナの最期に棒立ちになる。
Burrrrrrrr…
一角獣が岩肌から角を引き抜いた。
そして、大きく首を振ると、今度はフランチェスカに向き直る。
そのまま二度三度、前足を蹴る一角獣。
フランチェスカは棒立ちのままだ。
「フランちゃん!」
那津奈の呼び掛けにも、微動だにしないフランチェスカ。
前髪に隠れたその視線は、アルカーナのいた場所に吸い寄せられている。
一角獣が嘶く。
先程角を掴まれ、放り投げられた相手を忘れたわけではなさそうだ。
「…大気成分、探査完了…」
誰とはなしに呟くフランチェスカ。
それを意に介した風も無く、一角獣が三度目の疾走を始める。
那津奈が再度声を上げた。
「フランちゃん、早く逃げて!」
一角獣の角の威力は、岩肌に刻まれた痕跡が如実に語っている。
先程、フランチェスカが角を掴めたのは、彼女の怪力もあるが、一角獣の隙を突き、横合いから割り込んだせいもある。
しかし、今度は真正面から相対する形だ。
その衝撃や破壊力は、先程受け止めた時の比ではない。
「距離…30…20…10…」
微動だにしないフランチェスカ。
そして、彼女は不意に声を上げた。
「今が間合いです。アルカーナ…!」
(心得た)
そんな声が。
大気中から響いた。
それが消滅したはずのアルカーナの声であることに気付いた那津奈は、ハッとなって宙を見回す。
そこにはアルカーナが消滅した時に立ち昇った煙が漂っていた。
いや。
那津奈は何かに気付き、目を見張った。
(これは…煙りじゃないよ~!?)
瞬間。
それは一角獣の背中に現れた。
いや、正しくはそこに凝縮した。
背中の存在に気付いた一角獣が、急制動を行う。
背中に向けたその目に映ったのは、漆黒の夜会服と外套。
そして、凍るような人外の美貌に光る深紅の瞳だった。
「かかったね」
それが今しがた自分が消滅させた相手と知り、聖なる獣は激しく動揺した。
そんな相手の反応を楽しむかのように、夜の貴族…アルカーナが微笑する。
「君の角がいかに鋭く、どれだけ清らかでも、闇夜に漂う霧を貫くことは出来ないだろう…?」
それに那津奈が声を上げる。
「吸血鬼の『霧化』能力…!」
「そういうことだ。今度は僕が演技させてもらったよ」
妖艶に微笑みながら、アルカーナは自らの外套を手にした。
「さようなら、聖なる獣。そこそこ楽しめたよ」
ザン…!
外套を一閃すると共に、一角獣の太い首が鮮やかに切り裂かれた。
切断された切り口から噴き上がる鮮血の雨を防ぐように、マントで身を庇いながらアルカーナは静かに告げた。
「悪いが嘘を吐くのは、死んでも御免なのでね」
0
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