龍の都 鬼の城

宮垣 十

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第Ⅲ章

水軍  二

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 仕寄りが壁から七十、八十間まで近づいた頃、変事が海側から伝えられた。西方白虎門の先、海に臨んだ鶏老山の鼓楼から、柳営の西に広がる外ッ浜に大船が見えるとの知らせが届いた。
 条衛が駆けつけると、一里ほど先にの沖に、千石ほどの大船が十艘停泊し、小舟を使って荷を下ろしているのが見えた。遠眼鏡で見れば、船が掲げるのは蚩尤赤旗、安家の船である。安家の水軍か、あるいは安家に雇われた綱主(商人)の廻船であろう。
 東夷七道のある扶桑大島は、曲尺のように折れ曲がった形をなし、先端はそれぞれ、北東と南東を指す。柳営は折れの外隅、西の大陸側、安家本拠の河中道はその反対側、折れの内隅、扶桑大島の東に位置する。島はこの屈曲部で最大の幅となり、間には扶桑の脊梁となる山並みが連なる。山々は高く、険しい峠が重なり、大荷物を運ぶのは余程難渋する。しかしながら、海路を往くには、北地の先、霧深い北曲の岬を回るか、さらに遠い東苗を回って来なければならない。加えて、柳営の近くで大船を着けて、大量の荷の積み降ろしが出来る湊は、柳営の湊と、柳営の山を越えた東側、朱猿門の洞門と切り通しを通じてつながる入江である東の津しかない。特に柳営の湊は、周囲を山と断崖に囲まれ、静かな海面は、漣一つ立たないことから「油壺」あるいは「油の津」の異名をとる。七百艘の大船を入れられる西国屈指の湊であった。
 柳営の東は、十里にわたる断崖、西には遠浅の外ッ浜が三十里は続く。この季節、外ッ浜には海からの激しい風が吹きつけ、大船は近づけない。一見したところ何でもない砂浜が、柳営にとって何よりの天嶮なのだ。
 五百年前、西戌の軍が上陸したのも、この外ッ浜であったという。西戌の軍船は、最初柳営の湊に押し寄せたが、入り口を塞ぐ鉄鎖が破れなかった。やむなく、外ッ浜から陸に上がったものの、潮の流れと大風で乗船が浜に打ち上げられ、国に還る船を失った。柳営を陸から攻めるより外に道は無く、虚しくその屍を晒すことになったと聞いている。
 沖に停泊している安家の大船も、うっかりすれば碇ごと風に流され、浜に乗り上げかねないはずである。相当な無理をしていることはわかる。無理をしてでも降ろしている荷は、やはり兵糧であろう。それだけ困窮しているということかもしれない。
 翌々日、船の数が更に増しているのが見えた。その数六十余り。船上に高い楯板を廻らし、楼閣を載せた闘艦(とうかん)、細長い艨衝(もうしょう)らしい船も見えることから、安家水軍の主力であろう。
 御所の侍所にいた真宗も、冬門を伴って駆けつけた。
 中に、煙を吐き出す大船が見える。船全体が赤く塗られていた。
「車船ですな。あれほど大きなものは、臣も初めて見ましたが」
「車船?」
 車船とは、片舷三から四、両舷六から八の水車輪を、発気のカラクリで回すもので、大櫓百挺立てで漕ぐ船と同じ速さで走る。発気とは、釜に入れた湯を沸かし、吹き出る湯気と熱水で車輪を回すものらしい。安家当主広起が西戎と結び手に入れた物だ。
 もともと、安家の領する河中道では、中央を流れる越江やその河口に広がる河内の水海で両舷四から六輪の水車を人力で回して船を進めていた。西戎の大船は、大きな水車が片舷に一つずつ、それも無風で帆が使えぬ時ぐらいしか回さない。長きにわたって水車輪を使いこなしてきた河中道の船に、発気のカラクリを積んだ安家の車船は、本家西戎の発気車船より、はるかに優れ物だという。
 冬門は、若い時に、僧として河中道麦積山無学国師に師事したことがあり、東国の事情に詳しい。東国で使われる長槍の弱みに目をつけ、騎馬で討って出ることを考えたのも、冬門ならではというところだろう。もっとも、仲が悪い上に、冬門とは逆に、将から僧になった道了に言わせれば、麦積山で何を学んでいたのやらということになるのだが・・・。
「今日、明日には、あの化け物がここに寄せて来ましょう。用意はよろしいか」
 冬門が、海側の守将頴向をみる。頴向は将家船手方の将だ。
「無論の事。心配はご無用にて」
 柳営の湊は三重の鉄鎖で封じてある。また、太宰条衛の命で、岬の炮楼に多数の龍勢を運び込んであった。
「安家の水軍、尽く焼き尽くしてみせましょう」


 浜に船が着いたという知らせに、安家家宰允緒賢が馬を走らせる。柳営を囲む柵が海に達した所から西北へ半里、綱主江和の廻船が沖に停泊していた。五百石以上の大船十艘をもって「綱(ごう)」という。「綱主(ごうしゅ)」とはその主。江和は安家領河中道の河内水海に拠を置き、二十八もの綱を持つ東夷七道きっての綱主であった。
 緒賢は、率いてきた兵八百に、船から降ろした荷を守るように命じると、沖の船に向かう艀に乗った。向かう大船に綱主である江和自らが来ているという。
 沖にある船は一綱十艘。艀からは、舳先で指示を出している江和が見えた。戦場を往く船である。船ごとに大鉄炮が二から三挺、弓、鉄炮を持った者も見える。安家の兵ではない。江和の雇う部曲(私兵)だ。
 船上に上がった安家家宰に、江和が平伏し、艫の船屋形に招き入れる。
「家宰には、ご清勝のことお喜び申し上げます」
「ずいぶん、かかったではないか」
 命を発してから、二月が過ぎている。
「誠に申し訳ないことでございますが、北地の海を廻りましたからな。あの霧で、この十艘の荷、失うわけにもまいりますまい」
「この綱で、荷はいかほど積んできた」
「十艘全てで、八千石」
 八千石。緒賢はこれでしばらく凌げると思った。
 実際、長陣の果て、どの家も兵糧が尽きかけていた。陸路を来る兵糧は限られる。荷を積んできた駄馬は、着く都度、殺して食した。山の芋、草の根、地中の虫までも食べ尽くし、はなはだしきことに、一時は飢えた兵が、戦場の屍肉に寄ってきた鴉や山犬、果ては鼠までも捕って食べていたほどだった。
 参陣した各家が、陣の周囲に柵を厳しく構え、壕を掘ったのも、城方の夜襲を恐れるよりも、兵糧泥棒に備えてのことが大きい。あるいは、兵糧をめぐって、家同士の合戦さえ起きかねない風が漂っていた。緒賢が連れてきた兵も、実のところ、海岸に降ろしつつある兵糧の護衛である。
「荷を降ろすのに、いかほどかかる」
「この季節にしては、風も波も穏やかな方、天佑にございますな。五日もあれば」
 ・・・・・それでも、五日か。
「もう少し、何とかならんか」
「こればかりは、あまり船を岸に近づけますと、破船いたしかねません」
 まあ、仕方のないところだろう。緒賢は頷かざるをえない。
「ところで、警固の水軍はいかがした」
「水軍将の紹殿は、例の大船を動かすのに、だいぶ難儀されているご様子。荷を運ぶことこそ肝要と心得、置いて来もうした。」
「警固衆を置いて来たと申すか」
 安家の旗を掲げていれば、水賊や西戎の船は手出しをしてこないとはいえ、敵近くの海に入り込むのである。警固の軍船を連れてこないのは、果断であるのか、商人とはいえ、自らの抱える兵に余ほどの自信があるのか、あるいはその両方なのであろう。

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