氷は存外簡単に溶ける

皿うどん

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動けない獲物

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 休み明けの学院は、社交をして終わる。夏の休暇は特に長く、様々な変化をしていることが多い。
 アンナはその最たるもので、違うクラスからも続々と挨拶に来ていた。おそらく教室の外には行列が出来ているだろうと、アンナは引きつりそうな頬の筋肉を笑みの形に保った。

(久しぶりにゆっくりララと話せそうだったのに)

 学院には同性の側仕えを連れてくることを許可されており、その人数は階級によって違う。アンナはララとミーサを連れてきている。
 本家から快く来てくれたミーサは、学院にいる間にララとアンナを鍛えると燃えていた。アンナは体を鍛えたかったが、令嬢が走り回るのは非常によくないとのことだったので、当分自室での筋トレになりそうだった。

 挨拶に来た貴族の顔を一度で覚えることを放棄したアンナが、どこで切り上げようか考えていると、周囲がざわめいた。自然と道を譲られて歩んでくる銀糸に、アンナはわずかに目を見開く。

「フィル! どうしてここに?」
「驚いたか?」

 フィリップの口角はわずかに上がっただけだが、瞳はいたずらに成功した少年のように輝いていた。アンナは責めるようにフィリップを見上げる。

「驚かすのならば、わたしがします。常に先手を取れとお母様がおっしゃっていました」
「いつもアンナに負けているのだから、たまには私が驚かせてもいいだろう?」
「駄目です」

 アンナは、驚かされるのは好きではなかった。いい思い出がない。

「わかった。これから驚かせないように努力する」
「ありがとうございます。フィリップ様はどうしてこちらに?」
「以前から学院の講師にと打診を受けていただろう。アンナが学院にいるあいだは講師をすることになった。アンナと出会えたのも、打ち合わせで学院に来ていたおかげだからな」

 という設定だった。

 講師をするか迷っていたフィリップは、待遇などの話を聞くために学院を訪れていた。そこでアンナと出会い、恋に落ちる。
 フィリップはアンナを知らなかったが、アンナは相手が有名なフィリップ・フィアラークだと気がついた。アンナには婚約者がいて、身分差もある。
 あえて名乗らず別れ、叶わぬ恋に嘆くアンナ。もう言葉を交わすことはないと思っていたアンナだが、フィリップはもう一度学院を訪れた。アンナに会うために。

 アンナと語るうちに思いを抑えられなくなったフィリップは、星辰の儀の褒美にアンナとの結婚を願うと決めた。
 義を重んじるフィリップは王の許可を得ると、星辰の儀より先にワーズワースとゲーデルへ話を通して謝罪をした。それを妬んだワーズワースとゲーデルはアンナをさらに虐待し、それをフィリップが救い出した筋書きだ。

 ヴィクターは「アンナの性格に無理がある」と反対したが、普通に押し通された。


「では、フィリップ様と一緒に学院にいられるのですね?」
「アンナ、きみがそれを望むのならば」

 桃色の悩ましげな視線がフィリップに注がれる。フィリップはアンナに手を差し出した。

「ヴィクター、アンナのエスコート役を変わっても?」
「もちろん」
「ではアンナ。一緒にお茶を飲む栄誉を賜ってもよろしいでしょうか?」
「よろしくってよ」

 わざと気取った言い方をしたアンナは、水面のような瞳を輝かせて笑う。

「ヴィクターも行きましょう。皆様、せっかく挨拶に来てくださったのに申し訳ないわ。後日また来ていただけるかしら。皆様とお話できるのを、とても楽しみにしていたの」

 アンナの決定に首を振れる者はいない。
 痛いほど突き刺さる視線を受けながら教室を出たアンナは、ヴィクターがさりげなく位置を変えるのを見て、くちびるを動かさず問うた。

「いた?」
「いた。睨んできている」

 アンナは笑みを深め、突き刺さる憎悪を受け止めた。
 クラリーチェ・ワーズワース。ワーズワースで唯一アンナと近づける人物であり、生まれた時から蔑んできたアンナが幸せを掴むのが許せない、現実が見えていない人間。
 パトリツィオは財産をかき集めて夜逃げの準備をしている。ヴァレリアーナは現実を見たくなくて自室に籠もりきっている。クラリーチェは、アンナさえいなくなれば元通りになると思っている。

「逃がすわけがないのに」

 アンナのくちびるが艷やかに弧を描く。

 本当に、逃がすわけがないのに。

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