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押されはしない
「いいかアンナ、一挙一動、すべてが見られている。いま一番注目されていることを忘れるな」
「もう聞き飽きました。フィリップ様が星辰の儀で優勝したから、婚約者のわたしも注目されているんでしょう?」
「フィリップ兄上は対戦相手をすべて瞬殺、圧勝したからな」
星辰の儀で、フィリップは対戦相手に律儀に「今から一撃で決着をつける」と宣言して対峙した。
その一撃には体捌きや魔法、剣術など、アンナでは到底わからない複数の極致が込められており、フィリップの称賛をいっそう高める結果となった。一瞬すぎてフィリップの努力がさっぱりわからなかったアンナは、魔獣と戦うためにもアリソンに指導を願ったが、まだ体力をつける走り込みしかしていない。
ヴィクターは、横で歩くように滑っているアンナを見下ろし、アリソンの言葉を思い出す。
「アンナの生い立ちは過酷だわ。アンナのあの性格とララがなければ、とうに死を選んでいたでしょう。
あの子は人と接するとき、ふるいにかけるのよ。人の形をした喋るゴミか、きちんとした人間か。人間ならば、尊敬するに値するか判断する。フィリップはそこまで這い上がったけれど、それから異性として認識されるのはまた別よ」
「……はい」
アリソンの話を聞いていたフィリップは、噛みしめるように頷いた。
「衣食住が満ち足りて、愛されることを知り、己を確立して初めて人を愛せる。アンナはまだ、安心できる場所を探している最中よ。時間はたっぷりあるけれど、アンナの心がいつ溶けるかはわからない」
「待ちます。私が溶かすと言えたらいいのですが、私でなくても……アンナが幸せになるのなら」
「それが愛よ」
ヴィクターはそれまで、アンナについて深く考えたことがなかった。そして反省した。
いくらフィアラークに馴染んだアンナとて、今までの人生は常人では耐えられないものだったのだ。アンナが溜めに溜め込んだ鬱憤が吹き出して実力行使に出る前に、自分が止めなければならない。
(……このアンナを、止める。僕が。ひとりで)
考えるだけで憂鬱になるヴィクターの頭上で、きゅるるると鳥が鳴く。夏の終わりの午前中は、肌寒くも清々しかった。
「学院にクラリーチェは来ているのよね? 早く会いたいわ」
「そう情報が来ている。怒り狂ってるそうだよ」
「あら不思議。きちんと約束通りにしたのにね」
アンナは上機嫌でくすくすと笑った。
パトリツィオとアンナがサインした書類には、虐待罪を免除すること、虐待を口外しないことが記してある。表面上は何もなかったことに出来ると愚かなことを考えていたパトリツィオだが、そう上手くいくはずもない。
虐待罪についてはパトリツィオの思惑通り免除になったが、あまりに酷い虐待に賠償金の追加を命じられた。莫大なそれに驚き絶望した顔を見られないのが、アンナは心底残念だった。
「口外しないとサインしたのはわたしひとりよ。そもそも、フィアラーク相手に何もなかったことにするなんて出来るわけないのに」
アンナを気に入ったアリソンとメアリー、グラツィアーナが気合いを入れて噂を広め、数日中には誰もが知ることとなった。虐待についてはかなりぼかして伝えたが、それでも衝撃は凄まじかった。
「もうすぐ教室だ。教えた通りに」
「ええ」
ドアマンが教室のドアを開け、ヴィクターがアンナをエスコートして入室する。頭どころか体すら動いていないアンナは、歩く様だけ見るとマナーを完璧に仕込まれた令嬢だ。
ヴィクターは視線と静寂を平然と受け止め、アンナを席へ導くと、ドアへと向き直る。そっと背を押されたアンナも同様にすると、しばらくしてドアが開いた。
そこには側近を従えたアルベルトがいた。
すぐさま頭を垂れた者たちに、アルベルトが柔らかに微笑む。
「みな顔を上げてほしい。ここは学院だ。国を導く者として共に学んでいこう」
顔を上げたアンナに、アルベルトは笑みを向けた。人の上に立つ者の、人を惹きつけるものだ。
「久しぶりだねヴィクター。今年の実技では負けないよ」
「もちろん、私も負ける気はございません」
「ふふ、そうでなくてはね。アンナは息災かい? グラツィアーナは今日、学院に来られないことを悔しがっていたよ。今度お茶を一緒にと」
「光栄でございます」
アルベルトは貴族ひとりひとりと短く、けれどきちんと名を呼んで言葉を交わすと、微笑みを残して去っていった。
「今日は学院の始まりの日だから挨拶に寄っただけなんだ。次の教室へ行くから、また後日ゆっくり話そう」
本来なら貴族から挨拶しに行かねばならないところを、アルベルトは自ら足を運ぶ。アルベルトが貴族の心を掴むための策のひとつであり、実際非常に有効だった。
アルベルトが去り、やや空気が緩んだところでヴィクターがアンナを紹介した。ミーサに鍛えられたカーテシーに、メアリー直伝の笑み。アンナに挨拶をする者たちは、みな認識を改めた。
アルベルトが一番に挨拶をしに来て、ごく一部の限られた者しか招待されないグラツィアーナのお茶会に誘われる。
どのような淑女でも滅多に御眼鏡に適うことのないフィアラークに非常に気に入られているヴィクターの姉。さらに英雄フィリップの婚約者。
それがアンナの今の立ち位置だった。
「もう聞き飽きました。フィリップ様が星辰の儀で優勝したから、婚約者のわたしも注目されているんでしょう?」
「フィリップ兄上は対戦相手をすべて瞬殺、圧勝したからな」
星辰の儀で、フィリップは対戦相手に律儀に「今から一撃で決着をつける」と宣言して対峙した。
その一撃には体捌きや魔法、剣術など、アンナでは到底わからない複数の極致が込められており、フィリップの称賛をいっそう高める結果となった。一瞬すぎてフィリップの努力がさっぱりわからなかったアンナは、魔獣と戦うためにもアリソンに指導を願ったが、まだ体力をつける走り込みしかしていない。
ヴィクターは、横で歩くように滑っているアンナを見下ろし、アリソンの言葉を思い出す。
「アンナの生い立ちは過酷だわ。アンナのあの性格とララがなければ、とうに死を選んでいたでしょう。
あの子は人と接するとき、ふるいにかけるのよ。人の形をした喋るゴミか、きちんとした人間か。人間ならば、尊敬するに値するか判断する。フィリップはそこまで這い上がったけれど、それから異性として認識されるのはまた別よ」
「……はい」
アリソンの話を聞いていたフィリップは、噛みしめるように頷いた。
「衣食住が満ち足りて、愛されることを知り、己を確立して初めて人を愛せる。アンナはまだ、安心できる場所を探している最中よ。時間はたっぷりあるけれど、アンナの心がいつ溶けるかはわからない」
「待ちます。私が溶かすと言えたらいいのですが、私でなくても……アンナが幸せになるのなら」
「それが愛よ」
ヴィクターはそれまで、アンナについて深く考えたことがなかった。そして反省した。
いくらフィアラークに馴染んだアンナとて、今までの人生は常人では耐えられないものだったのだ。アンナが溜めに溜め込んだ鬱憤が吹き出して実力行使に出る前に、自分が止めなければならない。
(……このアンナを、止める。僕が。ひとりで)
考えるだけで憂鬱になるヴィクターの頭上で、きゅるるると鳥が鳴く。夏の終わりの午前中は、肌寒くも清々しかった。
「学院にクラリーチェは来ているのよね? 早く会いたいわ」
「そう情報が来ている。怒り狂ってるそうだよ」
「あら不思議。きちんと約束通りにしたのにね」
アンナは上機嫌でくすくすと笑った。
パトリツィオとアンナがサインした書類には、虐待罪を免除すること、虐待を口外しないことが記してある。表面上は何もなかったことに出来ると愚かなことを考えていたパトリツィオだが、そう上手くいくはずもない。
虐待罪についてはパトリツィオの思惑通り免除になったが、あまりに酷い虐待に賠償金の追加を命じられた。莫大なそれに驚き絶望した顔を見られないのが、アンナは心底残念だった。
「口外しないとサインしたのはわたしひとりよ。そもそも、フィアラーク相手に何もなかったことにするなんて出来るわけないのに」
アンナを気に入ったアリソンとメアリー、グラツィアーナが気合いを入れて噂を広め、数日中には誰もが知ることとなった。虐待についてはかなりぼかして伝えたが、それでも衝撃は凄まじかった。
「もうすぐ教室だ。教えた通りに」
「ええ」
ドアマンが教室のドアを開け、ヴィクターがアンナをエスコートして入室する。頭どころか体すら動いていないアンナは、歩く様だけ見るとマナーを完璧に仕込まれた令嬢だ。
ヴィクターは視線と静寂を平然と受け止め、アンナを席へ導くと、ドアへと向き直る。そっと背を押されたアンナも同様にすると、しばらくしてドアが開いた。
そこには側近を従えたアルベルトがいた。
すぐさま頭を垂れた者たちに、アルベルトが柔らかに微笑む。
「みな顔を上げてほしい。ここは学院だ。国を導く者として共に学んでいこう」
顔を上げたアンナに、アルベルトは笑みを向けた。人の上に立つ者の、人を惹きつけるものだ。
「久しぶりだねヴィクター。今年の実技では負けないよ」
「もちろん、私も負ける気はございません」
「ふふ、そうでなくてはね。アンナは息災かい? グラツィアーナは今日、学院に来られないことを悔しがっていたよ。今度お茶を一緒にと」
「光栄でございます」
アルベルトは貴族ひとりひとりと短く、けれどきちんと名を呼んで言葉を交わすと、微笑みを残して去っていった。
「今日は学院の始まりの日だから挨拶に寄っただけなんだ。次の教室へ行くから、また後日ゆっくり話そう」
本来なら貴族から挨拶しに行かねばならないところを、アルベルトは自ら足を運ぶ。アルベルトが貴族の心を掴むための策のひとつであり、実際非常に有効だった。
アルベルトが去り、やや空気が緩んだところでヴィクターがアンナを紹介した。ミーサに鍛えられたカーテシーに、メアリー直伝の笑み。アンナに挨拶をする者たちは、みな認識を改めた。
アルベルトが一番に挨拶をしに来て、ごく一部の限られた者しか招待されないグラツィアーナのお茶会に誘われる。
どのような淑女でも滅多に御眼鏡に適うことのないフィアラークに非常に気に入られているヴィクターの姉。さらに英雄フィリップの婚約者。
それがアンナの今の立ち位置だった。
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