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春
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意識が朦朧とする。発熱しているようで、身体のあちこちも痛む。熱に浮かされたまま、時折、母かナディールが薬や水を飲ませてくれる。
夢現を彷徨いながら、不意に蘇る獣の声に、嘲笑に、身体を強張らせ声にならない声が喉奥から漏れた。
時間の感覚はなく、今が昼か夜かもわからない。あれから、何日経ったのだろう。3日くらいのような気もするし、1週間くらい経った気もする。わからない。熱が下がった後も、何も口にできず気力もわかず、ベッドの上でぼんやりしている。周りには、色とりどりの花。
シエルに会いたい。けれど、会えない。会いたいのに、会いたくない。
エアリノスの身に起きたことを知っていても知らなくても、怖い。なかったことには、できないのだから。
いずれ、きちんと話をしなければならないだろう。婚約も、なくなるかもしれない。
…涙が溢れる。
夢見ていた。
シエルと、大好きな人と一緒になって、共に暮らす日々を。
家族になって、家族が増えて、幸せに過ごしていく、そんな未来を。
エアリノスの目からとめどなく溢れる涙に、水差しを取りに行っていたナディールが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?!」
そっと、壊れ物を扱うように涙を拭われる。心配そうな目に、申し訳なく思う。意識があるときもないときも、甲斐甲斐しく世話をしてくれるナディールにも、何も話せていない。何があったのかを、聞かれもしない。
「…奥様をお呼びいたしましょうか…?」
軽く横に首を振る。呼ばなくて大丈夫だと。
泣いたせいか水分を体が欲していたので、サイドテーブルの水差しに手を伸ばす。そして、固まった。
「お水なら私が」
ナディールがコップに水を注いでくれる間も、視線は固定されたまま。
「はい、どうぞ。…どうかされましたか?」
「…なんでもないわ。ありがとう…」
受け取る手が小刻みに震えるのを必死で抑える。気付かれてはいけない。
「…ナディ、少し眠るから1人にしてくれる?」
「あ、はい。何かありましたらベルで呼んでくださいね?」
─────エアリノスの手に、腕輪がないことを。
─────*─────*─────*─────*─────*─────*─────*─────*─────*─────*
『かあさま、かあさま、エアの手にくっついてるこれ、なあに?』
『これはね、聖女様の腕輪なのよ』
『せいじょさま?』
『そう』
『せいじょさまってなあに?』
『そうねえ…エアは”春”の聖女様だから、ちゃんと春が来ますようにってお祈りする人かなって、母様は思うのだけど』
『春がきますように?』
『そうね』
『ふうん?』
世に広く知られてはいるが、聖女自体の文献は少なく、正確にその意義を知るものは聖女と認定した神殿にもいなかった。だからだろうか。国にも神殿にも保護という名目で囲われることもなく、自由に生活することが許されるのは。
神聖力や魔力、天候を操る等の特殊能力がないと周知される前は、聖女の名に縋るものもいて、理不尽に責められることもあったとか。今では特別な力を持たない聖女という存在は既に形骸化していて、疑問視するものがいるくらいで。国や民衆に無害であったし優遇されているわけでもないから、普通に過ごせているだけだろう。
存在意義を問われながらも、いつの時代も聖女は途切れることがない。終身制ではなく、代替わりして。
方法は今のところ確認されているところで、2つ。
1つ、天寿を全うすること。
天命と言い換えてもいいかもしれない。過去に不慮の事故で亡くなった方もいたらしいが、腕輪は別の人間へ移っていたとか。
2つ目は─────子供を産むこと。
『何しても外れないし、劣化もしないのよね、この腕輪』
『神の遺物ってことだから、そういうものなのでしょうね』
『やっぱり、代替わりのときしか外れないのかな?』
『例外は、今のところないって聞くわ。要は亡くなるか、子供を産むか』
『聖女の資格が、純潔を失うことでなくなるってことかしら?』
『うーん…純潔というより、母になることで子供を第一にっていう神様の優しさじゃないかなと思うわ』
『子供を第一にかぁ』
『そうよ、子供は父様と母様たちの宝物だもの』
『母様も?』
『もちろん。エアは母様たちの宝物よ』
腕輪がなくなった意味。どうやっても外れることのなかった腕輪。意味など、考えるまでもない。
「……シエル…」
大好きなひと。大事なひと。共に未来を歩むはずだったひと。
「シエル、シエル、シエル…っ」
ぼろぼろと尽きることない涙が濡らす。
「…シエル、…シエル……たすけて、…シエル…」
聖女でなくなることは別段思うことはない。いずれ、受け継ぐべきものへとうつりゆくことを知っているから。
耐えがたいのは、この身が穢され、欲望のままに凌辱した獣以下の男の命が宿ったこと。
「……シエル…!」
残酷な現実に、身震いするほどの嫌悪感に、内から穢された屈辱に。
エアリノスは耐えられなかった。
ふらふらと窓際へと歩く。
窓を開ける。心地よい風が入ってくる。
「…お嬢様、物音が聞こえましたが、どうか…お嬢様?!」
「ナディ…ごめんなさい」
窓枠へ足をかける。
「あ、危ない、です…お嬢様、こっちへ、早く…っ」
エアリノスを刺激しないようにだろう、ナディールがゆっくり近づいてくる。
「父様と母様に、ごめんなさいって伝えてくれる?」
「お、嬢様、待って…まってください」
「…シエルに、幸せに、なってって」
「お嬢様!」
ぶんぶんと首を振る泣きそうな侍女に、ふわりと笑う。
「誰か、誰か来て!! 奥様、旦那様!!! お嬢様が…!!」
「今までありがとう、ナディ」
微笑んだまま、窓の外へ身を投げた。
─────こうして、春の季節は終わりを告げる。
夢現を彷徨いながら、不意に蘇る獣の声に、嘲笑に、身体を強張らせ声にならない声が喉奥から漏れた。
時間の感覚はなく、今が昼か夜かもわからない。あれから、何日経ったのだろう。3日くらいのような気もするし、1週間くらい経った気もする。わからない。熱が下がった後も、何も口にできず気力もわかず、ベッドの上でぼんやりしている。周りには、色とりどりの花。
シエルに会いたい。けれど、会えない。会いたいのに、会いたくない。
エアリノスの身に起きたことを知っていても知らなくても、怖い。なかったことには、できないのだから。
いずれ、きちんと話をしなければならないだろう。婚約も、なくなるかもしれない。
…涙が溢れる。
夢見ていた。
シエルと、大好きな人と一緒になって、共に暮らす日々を。
家族になって、家族が増えて、幸せに過ごしていく、そんな未来を。
エアリノスの目からとめどなく溢れる涙に、水差しを取りに行っていたナディールが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?!」
そっと、壊れ物を扱うように涙を拭われる。心配そうな目に、申し訳なく思う。意識があるときもないときも、甲斐甲斐しく世話をしてくれるナディールにも、何も話せていない。何があったのかを、聞かれもしない。
「…奥様をお呼びいたしましょうか…?」
軽く横に首を振る。呼ばなくて大丈夫だと。
泣いたせいか水分を体が欲していたので、サイドテーブルの水差しに手を伸ばす。そして、固まった。
「お水なら私が」
ナディールがコップに水を注いでくれる間も、視線は固定されたまま。
「はい、どうぞ。…どうかされましたか?」
「…なんでもないわ。ありがとう…」
受け取る手が小刻みに震えるのを必死で抑える。気付かれてはいけない。
「…ナディ、少し眠るから1人にしてくれる?」
「あ、はい。何かありましたらベルで呼んでくださいね?」
─────エアリノスの手に、腕輪がないことを。
─────*─────*─────*─────*─────*─────*─────*─────*─────*─────*
『かあさま、かあさま、エアの手にくっついてるこれ、なあに?』
『これはね、聖女様の腕輪なのよ』
『せいじょさま?』
『そう』
『せいじょさまってなあに?』
『そうねえ…エアは”春”の聖女様だから、ちゃんと春が来ますようにってお祈りする人かなって、母様は思うのだけど』
『春がきますように?』
『そうね』
『ふうん?』
世に広く知られてはいるが、聖女自体の文献は少なく、正確にその意義を知るものは聖女と認定した神殿にもいなかった。だからだろうか。国にも神殿にも保護という名目で囲われることもなく、自由に生活することが許されるのは。
神聖力や魔力、天候を操る等の特殊能力がないと周知される前は、聖女の名に縋るものもいて、理不尽に責められることもあったとか。今では特別な力を持たない聖女という存在は既に形骸化していて、疑問視するものがいるくらいで。国や民衆に無害であったし優遇されているわけでもないから、普通に過ごせているだけだろう。
存在意義を問われながらも、いつの時代も聖女は途切れることがない。終身制ではなく、代替わりして。
方法は今のところ確認されているところで、2つ。
1つ、天寿を全うすること。
天命と言い換えてもいいかもしれない。過去に不慮の事故で亡くなった方もいたらしいが、腕輪は別の人間へ移っていたとか。
2つ目は─────子供を産むこと。
『何しても外れないし、劣化もしないのよね、この腕輪』
『神の遺物ってことだから、そういうものなのでしょうね』
『やっぱり、代替わりのときしか外れないのかな?』
『例外は、今のところないって聞くわ。要は亡くなるか、子供を産むか』
『聖女の資格が、純潔を失うことでなくなるってことかしら?』
『うーん…純潔というより、母になることで子供を第一にっていう神様の優しさじゃないかなと思うわ』
『子供を第一にかぁ』
『そうよ、子供は父様と母様たちの宝物だもの』
『母様も?』
『もちろん。エアは母様たちの宝物よ』
腕輪がなくなった意味。どうやっても外れることのなかった腕輪。意味など、考えるまでもない。
「……シエル…」
大好きなひと。大事なひと。共に未来を歩むはずだったひと。
「シエル、シエル、シエル…っ」
ぼろぼろと尽きることない涙が濡らす。
「…シエル、…シエル……たすけて、…シエル…」
聖女でなくなることは別段思うことはない。いずれ、受け継ぐべきものへとうつりゆくことを知っているから。
耐えがたいのは、この身が穢され、欲望のままに凌辱した獣以下の男の命が宿ったこと。
「……シエル…!」
残酷な現実に、身震いするほどの嫌悪感に、内から穢された屈辱に。
エアリノスは耐えられなかった。
ふらふらと窓際へと歩く。
窓を開ける。心地よい風が入ってくる。
「…お嬢様、物音が聞こえましたが、どうか…お嬢様?!」
「ナディ…ごめんなさい」
窓枠へ足をかける。
「あ、危ない、です…お嬢様、こっちへ、早く…っ」
エアリノスを刺激しないようにだろう、ナディールがゆっくり近づいてくる。
「父様と母様に、ごめんなさいって伝えてくれる?」
「お、嬢様、待って…まってください」
「…シエルに、幸せに、なってって」
「お嬢様!」
ぶんぶんと首を振る泣きそうな侍女に、ふわりと笑う。
「誰か、誰か来て!! 奥様、旦那様!!! お嬢様が…!!」
「今までありがとう、ナディ」
微笑んだまま、窓の外へ身を投げた。
─────こうして、春の季節は終わりを告げる。
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