拝啓、箱庭の君へ

古夏

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拝啓、箱庭の君へ

拝啓、箱庭の君へ -ピロートーク-

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「何事にも限度がある」
「……よさそうにしてた」

 病み上がりの人間に好き勝手したという自覚があるのだろう。
 叱られてふてくされる子供のような顔をしながらも、喉が渇いたと言えば水のペットボトルを持ってくる甲斐甲斐しさを見せる。
 旭はそれをベッドに寝転がったまま受け取ったが、すっかり力の入らない指先では開けられず、無言のまま慧士に突き返した。

「はいはい」
「ハイは一回なんですー。ん、」

 パキリと小さな音を立てて簡単に開いたペットボトルを受け取ると、喘ぎ過ぎて少し嗄れた喉を潤す。一口飲むごとに、喉から胸、腹へと冷たいものが流れていくのが分かる。そうして半分ほど飲んでベッドサイドに置くと、隣に寝そべる慧士に向き直った。

「ところでさ。何でゴムやらローションが俺の部屋から出てくるんだよ」
「前から仕込んでたから」
「おまッ、勝手にそういうことするなよ!」

 人の部屋を何だと思ってるんだ。旭が叱りつけても、暖簾に腕押し。王様の耳に念仏。まったく聞く耳を持たない慧士に、大きなため息を零すことで、これ以上の文句を飲み込んだ。

「……仕事は?」
「今日はもうない。一昨日から急に韓国ロケ入って、ようやく帰ってこれたとこだから」

 だから気づくの遅くなった。そう言ってスマホを振る仕草に、旭はうっと息を詰まらせる。
 動画を消させたいが、今ここで話題にすれば藪蛇になるかもしれない。それなら折を見て、そっと消しておくほうが良いだろう。
 旭は痛む腰を庇いながら、もぞもぞと慧士の腕の中に納まった。これからする話は、あまり顔を見てできるようなものではない。そもそも、ピロートークでするような話題でもないだろう。

「あの……さ、聞きたいことがあるんですけど」
「何で敬語」
「いえ、あの、その……」

 言いよどむ旭の髪を指で梳く王様は、どうやらのんびりと言葉を待つつもりらしい。すっかりいつもの余裕な態度に、旭はもごもごと口の中で転がしていた言葉を吐き出した。

「あの、写真の子なんだけど」

 そう。いくら慧士と恋人になろうとも、どうしたってあの写真が脳裏にちらつく。こうして冷静になると余計にその影は大きくなり、旭の心に暗く横たわっていた。
 もちろん慧士の愛情を疑うわけではない。それでもあんな風に笑う慧士は見たことがなかった。不安と少しの寂しさが滲んでいたのだろう。慧士はふんと鼻を鳴らすと、あの写真と同じ完璧で美しい笑みを浮かべて、旭の顎を持ち上げて口を開く。

「触んじゃねえよ、汚いな」
「……んな!え、なに⁉」
「だから、あの女にそう言ったんだって」

 綺麗な顔から繰り出される暴言に、旭の脳は処理が追いつかなかった。すんと無表情に戻った慧士は、そんな旭を置いてまた髪を撫で始める。たまに「あ、枝毛」と言っているが、今はそんなことはどうでもいい。

「お、女の子にそんなことを……」
「面倒なのがいるって言っただろ。それがアレ。何かお偉いさんの娘とかで、マネージャーがうるさくって」

 ああ、かなりの苦労だっただろう。慧士のマネージャーの姿を思い浮かべた旭は、胃のあたりが痛む気がした。
 いや、待てよ。つまりあの女性とは何もなくて、メディアが騒ぎ立てていたということか。更にそれを見て勝手にショックを受けて、無理やり祝ったのか、自分は。
 旭は理解が追いついた途端、眩暈のような羞恥に襲われ、無言のまま慧士の腕の中から逃げようと試みる。

「なに、逃げんなよ」
「本当、本当勘弁してください。申し訳なさで死んじゃう。ごめんなさい」

 顔を両手で覆って、くぐもった声で謝罪を口にする。もうこれは一人芝居どころの騒ぎではない。今すぐ大声で叫びたいが、それも叶わない。わなわなと肩を震わせる旭の両手が、慧士によって掴まれる。そして無慈悲にも剥ぎとられてしまった。

「ふはっ、顔真っ赤」

 茹蛸とはこういうことを言うのだろう。それほどに、旭の顔は綺麗に染め上がっていた。
本人は唇を震わせて、何か文句でも言ってやろうと思うのだが、文句を言える立場でもない。
 大体、あのとき説明してくれたってよかったじゃないか。そうしたらこんな回りくどいことにならなかったのに。口には出さないが、不満がありありと顔に表れていたのだろう。
 慧士は「ばーか」と舌を出した。

「あの時説明したって、お前は理解できなかったよ。何日も俺のことだけ考えて、考えて、辛くても頭から離れないほど悩まなきゃ、気づかなかっただろ」
「う、ぐッ、それは……そう」
「でしょ?だから、必要だったってこと」

 この一週間。慧士の言うように、仕事をしていてもそうでない時間も、慧士のことだけを考え続けていた。それと同時に、自分が慧士に対して抱えている思いも見つめ続けた。
 たったの七日だったが、もう一度と言われたら絶対に嫌だと叫ぶほど辛い日々だった。旭はぐっと唇を尖らせ「もうしない」とだけ零す。

「そうだと助かる。俺も旭のごはん食べられなくてつらかった」
「ごはんだけかよ……」
「俺の胃袋は旭仕様だからさ。他のモン受け付けないの」

 ぐりぐりとすり寄る慧士に、旭はされるがままだった。大きなライオンが懐いたようで、苦しいが優越感で満たされる。

「そういえば、いない間はどうしてたんだ?」
「ごはんも洗濯も全部コンシェルジュに頼んだ」

 ああ、そうだ。慧士は金持ちのボンボンなので、人を使うことに抵抗がないんだ。旭は心の中で真壁に礼を言った。

「今日はおにぎりと玉子焼きが良い」
「んー、材料あったかな」
「なかったらコンシェルジュに頼めばいい」

 確かに日用品の買い出しから、外商の手配まで問題なくこなして見せるが、一般人の旭は気が引けてしまう。

「いや、悪いから俺が買いに行ってくるよ」
「じゃあ俺も行く」

 何を言ってるんだろうか、このでっかい子供は。帽子やサングラスで隠そうと、キラキラと光りが漏れ出す男を連れて、スーパーなど行けるはずがない。
 じいっと見つめたあとに「無理だろ」と首を振った。すると慧士は「じゃあピザでもとろう」と言い出した。

「なに、作ったものじゃなくてもいいのか?」
「旭のごはんが良いけど、今日はずっと一緒にいたいから何でもいい」

 恋人になるっていうのはこういうことなのか。当たり前のように髪を梳かれて、砂糖を煮詰めたような甘ったるい笑顔を向けられる。
 旭はじわじわと頬に熱が集まるのを感じ、それを隠すために目の前にある胸板へ額を擦り付けた。

「……眠い。起きたらな」
「はいはい、旭は可愛いねえ」
「……そういうこと言うな」

 布団の中で絡められた足を蹴ると「行儀が悪い」と笑われる。それが悔しくて、喉奥で低く唸っていると、背中に回された腕に力が込められた。

「言うよ。何回だって言うよ。だって俺浮かれてるんだから、それくらい許してよ」

 まるで幸せを噛みしめるように「可愛いね」と言いながら、抱きしめられる。頬を寄せた胸元からは、いつもより速い鼓動が聞こえてきて、その優しい音に泣きたくなった。
 こうしていられるのは、慧士が諦めずにいてくれたからだ。
 迷って気づかないフリばかりしてきた自分を、辛抱強く待っていてくれた。
 ああ、気づけてよかった。慧士のこの献身と、その愛に。

「……おやすみ」

 今の旭にはそう言って抱きしめ返すのが精いっぱいだった。もっと気の利いた言葉や、恋人らしいやり取りがあるのだろうが、なにぶん慧士しか知らない。だからこれで許せ。そういうように腕に力を込める。
 さすがと言うべきか、二十六年の月日は伊達じゃない。しっかりと旭の言外に込められた言葉を汲み取った慧士は「おやすみ」と笑い混じりに返した。


 時刻は午後一時を回った頃。
鳥のさえずりも届かないこの部屋で、夢の中でも互いを離さないよう、強く抱きしめ合った。
体温や匂い、呼吸すら分け合うような距離で、ただただ愛おしい人を想って眠りにつく。そこには温かく、完璧な世界が作り上げられていた。

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