11 / 16
この愛が伝わりますように。敬具
この愛が伝わりますように。敬具 -2-
しおりを挟む
「じゃ、帰る」
「ちょっと待った!荷物!」
「適当に送っておいてくれ」
慧士は羽田に到着し、無事に入国審査を終えると手荷物を待たずにハイヤー乗り場に向かう。その背中を慌てた様子で佐野が追ってきたが、振り返ることもなく手を振った。
後ろから盛大なため息が聞こえてきたが、今は旭の一大事だ。世話焼きな性格と思われがちだが、実はおっちょこちょいでずぼらな面もあるため、きっと食事すらまともに摂れていないだろう。
「そのくせコンシェルジュも使わないんだよな」
あの律儀で変なところで潔癖な男は、いくら言っても「悪いから」と言ってコンシェルジュを使おうとしない。買い物だって予約困難な店の予約だって、何だって熟すのが役目の人間たちに何を言っているのか。
ただいくら説明して説得したところで、あの旭が変わるわけがない。それを嫌と言うほど知っている慧士は深くため息を吐く。
長い脚でずんずんと空港内を歩くと、五分もしないうちにハイヤー乗り場に着いた。
予約のハイヤーを見つけて乗り込むと、事前に自宅住所が伝えられていたのか、静かに車は走り出す。高級外車ということもあり、社内は静かだ。三十分もあれば自宅に着くのだが、その間に確認したいことがあった。
旭が映っていた、あのインターホンの録画だ。慧士はイヤホンを着けると、アプリでお目当ての動画を見つけて再生ボタンを押す。
マンションの廊下は外界を遮断した造りになっているため、思っていたよりも音声は綺麗だった。
『……?いない?』
『あの、ごめんなさい。いっぱい考えたけど、慧士があの時どうしてあんなに怒ったか分からなくて。あ、会いたくないって言われたのに、会いに来てごめんなさい。ずっと、ずっと慧士に迷惑かけてきてごめんなさい……』
いつもより小さくなってしまったその背が痛々しい。それでもここを離れないぞという頑固さに、思わず笑ってしまった。旭はよく慧士に向かって我儘だとか、頑固だとかいうが実際は旭の方が意地になると梃子でも動かない。
きっと今すぐ逃げ出したいだろうに、それをしたら終わるとでも思っているのだろう。
ああ、自分の愛した男がこんなに健気で可哀想で、愛おしい。
自然と口角が上がり、口元が歪む。本当だったら旭は謝らなくてもいいのだ。勝手にへそを曲げて、旭をここまで堕ちてこいと願ってる男のことなんて、気にしなくていい。
でも旭は逃げられない。そうやって世界を作ってきた。背中にぞくりとしたものが走った。やはり自分は間違っていなかったという確信を得る。
『……ねぇ、慧士。あの日俺には自分がいらないって言ってたけど、違うと思うんだ。俺の世界を作って、守ってくれていたのはずっと慧士だよ。俺の望みを叶えてくれてたから、傍にいられたんだよ。だから、俺に慧士が必要だった』
そうだろう、そうだろう。お前には俺が必要だ。それ以上に、俺はお前が必要だ。
旭がいなくては息もできない。それほどまでに、慧士の世界は旭で完結している。
こんなこと思ってはいけない。なけなしの理性がそう囁くが、そんなことはお構いなしだ。だってあの旭が自分を求めている。肩を震わせ、きっと涙を溢しながら自分の世界に必要だと言っている。
愉悦、狂気、興奮、歓喜。今にも大声で笑いだしたくなるような、この感情の名前を知らない。
だが次の瞬間、慧士の歓びは瞬く間に消え失せた。
『だから今度からは……が、我慢する。慧士が望むなら、普通の幼馴染になるよ』
「……は?」
思わず声が漏れた。何事かとルームミラー越しに視線が飛んでくるが、今はそんなものどうでも良い。この小さな画面の中で、旭が言ったことが理解できなかった。
慧士は停止ボタンを押すと、深く皺を寄せた眉間を揉む。
どうしてそうなるんだ。ここまでして世界を作り上げた男が、普通の幼馴染を望むと思うのか。どんな思考回路を持っていればそんな結末を思いつくのか、本気で知りたくなった。
旭のことは愛している。考えたくはないが、旭がもし死ぬようなことがあれば、その一秒後にはこの世を去りたいとすら思っている。
旭のいない世界に価値も未練もない。本気でそう思っているのだ。
歪であると自覚しているが、それでも良いと深く愛している。
ただ、それと同時に酷く憎くもあった。これは自分勝手な感情だ。だって旭はこんな世界なんて望んでいないから。物心つく頃にはこの執着心と独占欲は育ちきっていて、旭の世界を構成する要素を最低限にすることに勤めた。
傍若無人な王様を手懐けられる唯一の男としての優越感。綺麗なものが好きな旭にだけ見せる笑顔。旭を囲うエトセトラ。
決して怖がらせないように、真綿で丁寧にくるんで差し出してきた。
それだというのに、慧士が普通の幼馴染を望んでいると思っている。先ほどまで歓喜に震えていた心臓は、すとんと勢いを落として、冷たく凍り付いていた。
「……はぁ、本当に馬鹿だねぇ」
世界で一番愛した男の項垂れる姿を見ながら、慧士は目を眇めた。泣きたいのはこちらのほうだ。
ちらりと再生バーを確認すると、まだ動画が残っている。このあとのことを考えると、ここで止めてしまいたいが、旭のことは全てを把握したい。その欲がもう一度再生ボタンをタップさせた。
しばらくじっと俯いたまま旭は固まっている。残り二分。このまま終わるのだろうかと眺めていると、急にしゃくりあげながら泣き始めた。
何事かと見守っていると『や、やだ……』という悲鳴のような声が聞こえてくると、今度は慧士が目を見開いて固まった。
口元を手で覆いながら、画面の中で泣く旭から目が離せない。
『ごめんなさい、ごめんなさい、慧士ッ、俺、俺』
『これ、覚えてる?』
誤魔化す様に目を擦って、がさごそとバッグを漁って何かを取り出した。
カメラに近づけられたそれは少しぼやけているが、見覚えがあった。
「……あのときのビー玉だ」
珍しく旭と喧嘩をしたとき。中々口をきいてもらえず、泣き落とすようにして赦しを請うたときの記念品だ。今思うと子供の浅知恵だが、どうやら旭はそれを今のいままで大切に持っていたらしい。
あれほど暗く汚泥に沈んだ心が、それだけで軽くなる。単純な造りをしている。
『俺、まだ慧士の言葉の意味は分からないし、許してもらえないかもしれないけど、慧士に会えないと寂しい』
一週間という短くも長いあいだ、きっと旭は悩み続けたのだろう。
その結果がこれだ。二十年近く前にあげたビー玉を差し出して、許して欲しいと泣いている。
『会いたい』
そう言って笑う顔は、涙と雨でぐしゃぐしゃに歪んでいる。決して綺麗とは言えないはずなのに、慧士には宗教画のような神々しを感じさせる。
旭といる世界は飽きることがない。なんて憎らしくて、愛らしい男なのだろう。
そのまま「ばいばい」と手を振って去る旭の背中を映したあと、カメラはぷつりと切れた。あとは真っ黒く塗りつぶされた画面が残るだけ。
慧士は端末へ動画をダウンロードすると、遠くに見えた自宅を眺めて口元を緩める。
あと少しで旭の願いを叶えられる。世界中探しても、彼の求めに応えられるのは自分だけだ。その優越感がたまらなく心地良い。
慧士は鼻歌でもうたいだしそうだったが、これ以上運転手を怖がらせて事故でも起こされたらたまらない。
ああ、あとちょっと。世界の縁で迷子になっている旭は、あと一押しでこちらに堕ちてくる。彼の手を引くのが今から楽しみで仕方がない。
きっとまともな人間がいたら、こんなもの正しくないと言いそうだが、そんなつまらない人間は慧士の世界にはいなかった。
◇◆◇
久しぶりに旭の家のカードキーを使うとき。一瞬だが柄にもなく緊張した。仕事以外で一週間も会わなかったことはない。海外コレクション中だって、毎日ビデオ通話をするのが常だった。
「あさひー」
玄関で靴を脱ぎ、すぐの洗面所で手を洗いながら名前を呼んでみる。どうやら寝室で眠っているようで、家主の気配のない家は静かだ。
腕時計を確認すると、昼の十一時。先ほどコンシェルジュに簡単な食料や薬を頼んでおいたので、あと三十分もすれば宅配ボックスに届くだろう。
冷蔵機能のついた宅配ボックスは、こういったときに便利だなと思う。慧士は寝室の前まで来ると、コンコンと控えめにノックをした。だが当たり前のように返事はない。
中からは苦しそうな息の合間に、自分の名前を呼ぶ声がする。
ああ、体が震える。まだ旭の姿すら視界に入れていないのに、小さく名前を呼ばれただけで、全身の細胞が息を吹き返した。
行儀悪く唇を舐めながら、そっとドアを開く。ベッドの上には小さな山ができており、息を繰り返すたびに僅かに上下している。
「け、し、けーし、」
近づくと、目を瞑ったまま涙を流して自分を呼ぶ旭がいた。
可愛い。こんなに弱り切って、涙と汗でぐずぐずになっていても、世界で一番可愛い。
先ほどまでの苛立ちや愉悦なんてものが、溶けて霧散していく。旭の顔を見るといつもこうだ。
「なぁに、旭」
久しぶりに旭の名前を呼んだ。慧士の世界で唯一の名前。愛しい男の名前。口にするだけで、口角が緩んでだらしなくなってしまう、そんな音。
慧士が名前を呼ぶと、旭は朦朧としながらその姿を探そうと手をさ迷わせている。その姿がまるで迷子の子供みたいで、慧士はふっと笑みを浮かべながらそれを捕まえた。
「はは、めちゃくちゃ名前呼ぶじゃん」
捕まえた手はやはり、いつもより熱い。大人になってからの高熱は、子供の時のそれよりもキツイ。サイドテーブルには水もなく、ごみ箱を見ても薬の形跡がない。
きっと今朝から立ち上がることもできず、飲まず食わずの状態なのだろう。さすがにこのままではまずい。宅配ボックスを確認しようと腰を浮かせた瞬間、病人とは思えない強さで手を引かれた。
「や、ごめ、ごめんなさい、あやまるから、ちゃんとするから」
きっとこれは夢だと思っている。ぐずぐずと泣いていた旭が、今度はしゃくりあげながら涙をぼろぼろと零している。真っ赤になった頬に伝う涙が熱く、宥めるように手の甲を指先で撫でてみたが力は緩まなかった。
「離れないで、離さないで、知らない顔で、知らない人に笑いかけないで」
静かな部屋に、静かな願いが響いた。縋るように引き寄せられた指先に、涙が伝う。きっと口にするのも勇気がいるだろう。熱がなければ聞けなかったかもしれない。正にうわ言だ。
それでも絞り出すような懇願は、慧士をベッドに縫い付けるには十分だった。
「……ここにいるよ、大丈夫」
「うそ、やだあ、ッ、ごめ、けいし」
「嘘じゃないって、ほら、泣きすぎて熱上がってる」
手の甲に頬を摺り寄せられ、その熱の高さに眉間の皺が深くなった。時折咳き込んでいるので、きっと喉も辛いはずだ。これ以上喋らせるのは良くないだろう。
それでも自分を必死に呼ぶ旭が愛おしくて、どうしても止められなかった。
「けいし、けいし、」
「うん、ここにいる」
「けいし、ごめんね、ごめんなさい」
──大好きだよ
脳が焼き切れそうだ。夢を見ている旭はいつもより素直で、その言葉は慧士の胸を深く突き刺す。
「今、ここで死んでもいいかも」
本気でそう思った。月曜午前中、何でもない平凡な日。二人きりの寝室で、このまま息が止まっても後悔はなかった。それほどまでに、泣きたくなるほどに、この男を愛している。
慧士はそっと旭の唇に、自身のそれを重ねた。
一瞬だけでも呼吸を奪い、この瞬間の死を共有するために。
そのままじっと眠る旭を見つめていると、その頬に新しい雫がぱたぱたと降り注ぐ。カーテンの隙間から差し込む陽に照らされた雫は、光を纏いながら首筋に流れていく。
慧士はそれを飽きもせず、長いあいだ眺めていた。
「ちょっと待った!荷物!」
「適当に送っておいてくれ」
慧士は羽田に到着し、無事に入国審査を終えると手荷物を待たずにハイヤー乗り場に向かう。その背中を慌てた様子で佐野が追ってきたが、振り返ることもなく手を振った。
後ろから盛大なため息が聞こえてきたが、今は旭の一大事だ。世話焼きな性格と思われがちだが、実はおっちょこちょいでずぼらな面もあるため、きっと食事すらまともに摂れていないだろう。
「そのくせコンシェルジュも使わないんだよな」
あの律儀で変なところで潔癖な男は、いくら言っても「悪いから」と言ってコンシェルジュを使おうとしない。買い物だって予約困難な店の予約だって、何だって熟すのが役目の人間たちに何を言っているのか。
ただいくら説明して説得したところで、あの旭が変わるわけがない。それを嫌と言うほど知っている慧士は深くため息を吐く。
長い脚でずんずんと空港内を歩くと、五分もしないうちにハイヤー乗り場に着いた。
予約のハイヤーを見つけて乗り込むと、事前に自宅住所が伝えられていたのか、静かに車は走り出す。高級外車ということもあり、社内は静かだ。三十分もあれば自宅に着くのだが、その間に確認したいことがあった。
旭が映っていた、あのインターホンの録画だ。慧士はイヤホンを着けると、アプリでお目当ての動画を見つけて再生ボタンを押す。
マンションの廊下は外界を遮断した造りになっているため、思っていたよりも音声は綺麗だった。
『……?いない?』
『あの、ごめんなさい。いっぱい考えたけど、慧士があの時どうしてあんなに怒ったか分からなくて。あ、会いたくないって言われたのに、会いに来てごめんなさい。ずっと、ずっと慧士に迷惑かけてきてごめんなさい……』
いつもより小さくなってしまったその背が痛々しい。それでもここを離れないぞという頑固さに、思わず笑ってしまった。旭はよく慧士に向かって我儘だとか、頑固だとかいうが実際は旭の方が意地になると梃子でも動かない。
きっと今すぐ逃げ出したいだろうに、それをしたら終わるとでも思っているのだろう。
ああ、自分の愛した男がこんなに健気で可哀想で、愛おしい。
自然と口角が上がり、口元が歪む。本当だったら旭は謝らなくてもいいのだ。勝手にへそを曲げて、旭をここまで堕ちてこいと願ってる男のことなんて、気にしなくていい。
でも旭は逃げられない。そうやって世界を作ってきた。背中にぞくりとしたものが走った。やはり自分は間違っていなかったという確信を得る。
『……ねぇ、慧士。あの日俺には自分がいらないって言ってたけど、違うと思うんだ。俺の世界を作って、守ってくれていたのはずっと慧士だよ。俺の望みを叶えてくれてたから、傍にいられたんだよ。だから、俺に慧士が必要だった』
そうだろう、そうだろう。お前には俺が必要だ。それ以上に、俺はお前が必要だ。
旭がいなくては息もできない。それほどまでに、慧士の世界は旭で完結している。
こんなこと思ってはいけない。なけなしの理性がそう囁くが、そんなことはお構いなしだ。だってあの旭が自分を求めている。肩を震わせ、きっと涙を溢しながら自分の世界に必要だと言っている。
愉悦、狂気、興奮、歓喜。今にも大声で笑いだしたくなるような、この感情の名前を知らない。
だが次の瞬間、慧士の歓びは瞬く間に消え失せた。
『だから今度からは……が、我慢する。慧士が望むなら、普通の幼馴染になるよ』
「……は?」
思わず声が漏れた。何事かとルームミラー越しに視線が飛んでくるが、今はそんなものどうでも良い。この小さな画面の中で、旭が言ったことが理解できなかった。
慧士は停止ボタンを押すと、深く皺を寄せた眉間を揉む。
どうしてそうなるんだ。ここまでして世界を作り上げた男が、普通の幼馴染を望むと思うのか。どんな思考回路を持っていればそんな結末を思いつくのか、本気で知りたくなった。
旭のことは愛している。考えたくはないが、旭がもし死ぬようなことがあれば、その一秒後にはこの世を去りたいとすら思っている。
旭のいない世界に価値も未練もない。本気でそう思っているのだ。
歪であると自覚しているが、それでも良いと深く愛している。
ただ、それと同時に酷く憎くもあった。これは自分勝手な感情だ。だって旭はこんな世界なんて望んでいないから。物心つく頃にはこの執着心と独占欲は育ちきっていて、旭の世界を構成する要素を最低限にすることに勤めた。
傍若無人な王様を手懐けられる唯一の男としての優越感。綺麗なものが好きな旭にだけ見せる笑顔。旭を囲うエトセトラ。
決して怖がらせないように、真綿で丁寧にくるんで差し出してきた。
それだというのに、慧士が普通の幼馴染を望んでいると思っている。先ほどまで歓喜に震えていた心臓は、すとんと勢いを落として、冷たく凍り付いていた。
「……はぁ、本当に馬鹿だねぇ」
世界で一番愛した男の項垂れる姿を見ながら、慧士は目を眇めた。泣きたいのはこちらのほうだ。
ちらりと再生バーを確認すると、まだ動画が残っている。このあとのことを考えると、ここで止めてしまいたいが、旭のことは全てを把握したい。その欲がもう一度再生ボタンをタップさせた。
しばらくじっと俯いたまま旭は固まっている。残り二分。このまま終わるのだろうかと眺めていると、急にしゃくりあげながら泣き始めた。
何事かと見守っていると『や、やだ……』という悲鳴のような声が聞こえてくると、今度は慧士が目を見開いて固まった。
口元を手で覆いながら、画面の中で泣く旭から目が離せない。
『ごめんなさい、ごめんなさい、慧士ッ、俺、俺』
『これ、覚えてる?』
誤魔化す様に目を擦って、がさごそとバッグを漁って何かを取り出した。
カメラに近づけられたそれは少しぼやけているが、見覚えがあった。
「……あのときのビー玉だ」
珍しく旭と喧嘩をしたとき。中々口をきいてもらえず、泣き落とすようにして赦しを請うたときの記念品だ。今思うと子供の浅知恵だが、どうやら旭はそれを今のいままで大切に持っていたらしい。
あれほど暗く汚泥に沈んだ心が、それだけで軽くなる。単純な造りをしている。
『俺、まだ慧士の言葉の意味は分からないし、許してもらえないかもしれないけど、慧士に会えないと寂しい』
一週間という短くも長いあいだ、きっと旭は悩み続けたのだろう。
その結果がこれだ。二十年近く前にあげたビー玉を差し出して、許して欲しいと泣いている。
『会いたい』
そう言って笑う顔は、涙と雨でぐしゃぐしゃに歪んでいる。決して綺麗とは言えないはずなのに、慧士には宗教画のような神々しを感じさせる。
旭といる世界は飽きることがない。なんて憎らしくて、愛らしい男なのだろう。
そのまま「ばいばい」と手を振って去る旭の背中を映したあと、カメラはぷつりと切れた。あとは真っ黒く塗りつぶされた画面が残るだけ。
慧士は端末へ動画をダウンロードすると、遠くに見えた自宅を眺めて口元を緩める。
あと少しで旭の願いを叶えられる。世界中探しても、彼の求めに応えられるのは自分だけだ。その優越感がたまらなく心地良い。
慧士は鼻歌でもうたいだしそうだったが、これ以上運転手を怖がらせて事故でも起こされたらたまらない。
ああ、あとちょっと。世界の縁で迷子になっている旭は、あと一押しでこちらに堕ちてくる。彼の手を引くのが今から楽しみで仕方がない。
きっとまともな人間がいたら、こんなもの正しくないと言いそうだが、そんなつまらない人間は慧士の世界にはいなかった。
◇◆◇
久しぶりに旭の家のカードキーを使うとき。一瞬だが柄にもなく緊張した。仕事以外で一週間も会わなかったことはない。海外コレクション中だって、毎日ビデオ通話をするのが常だった。
「あさひー」
玄関で靴を脱ぎ、すぐの洗面所で手を洗いながら名前を呼んでみる。どうやら寝室で眠っているようで、家主の気配のない家は静かだ。
腕時計を確認すると、昼の十一時。先ほどコンシェルジュに簡単な食料や薬を頼んでおいたので、あと三十分もすれば宅配ボックスに届くだろう。
冷蔵機能のついた宅配ボックスは、こういったときに便利だなと思う。慧士は寝室の前まで来ると、コンコンと控えめにノックをした。だが当たり前のように返事はない。
中からは苦しそうな息の合間に、自分の名前を呼ぶ声がする。
ああ、体が震える。まだ旭の姿すら視界に入れていないのに、小さく名前を呼ばれただけで、全身の細胞が息を吹き返した。
行儀悪く唇を舐めながら、そっとドアを開く。ベッドの上には小さな山ができており、息を繰り返すたびに僅かに上下している。
「け、し、けーし、」
近づくと、目を瞑ったまま涙を流して自分を呼ぶ旭がいた。
可愛い。こんなに弱り切って、涙と汗でぐずぐずになっていても、世界で一番可愛い。
先ほどまでの苛立ちや愉悦なんてものが、溶けて霧散していく。旭の顔を見るといつもこうだ。
「なぁに、旭」
久しぶりに旭の名前を呼んだ。慧士の世界で唯一の名前。愛しい男の名前。口にするだけで、口角が緩んでだらしなくなってしまう、そんな音。
慧士が名前を呼ぶと、旭は朦朧としながらその姿を探そうと手をさ迷わせている。その姿がまるで迷子の子供みたいで、慧士はふっと笑みを浮かべながらそれを捕まえた。
「はは、めちゃくちゃ名前呼ぶじゃん」
捕まえた手はやはり、いつもより熱い。大人になってからの高熱は、子供の時のそれよりもキツイ。サイドテーブルには水もなく、ごみ箱を見ても薬の形跡がない。
きっと今朝から立ち上がることもできず、飲まず食わずの状態なのだろう。さすがにこのままではまずい。宅配ボックスを確認しようと腰を浮かせた瞬間、病人とは思えない強さで手を引かれた。
「や、ごめ、ごめんなさい、あやまるから、ちゃんとするから」
きっとこれは夢だと思っている。ぐずぐずと泣いていた旭が、今度はしゃくりあげながら涙をぼろぼろと零している。真っ赤になった頬に伝う涙が熱く、宥めるように手の甲を指先で撫でてみたが力は緩まなかった。
「離れないで、離さないで、知らない顔で、知らない人に笑いかけないで」
静かな部屋に、静かな願いが響いた。縋るように引き寄せられた指先に、涙が伝う。きっと口にするのも勇気がいるだろう。熱がなければ聞けなかったかもしれない。正にうわ言だ。
それでも絞り出すような懇願は、慧士をベッドに縫い付けるには十分だった。
「……ここにいるよ、大丈夫」
「うそ、やだあ、ッ、ごめ、けいし」
「嘘じゃないって、ほら、泣きすぎて熱上がってる」
手の甲に頬を摺り寄せられ、その熱の高さに眉間の皺が深くなった。時折咳き込んでいるので、きっと喉も辛いはずだ。これ以上喋らせるのは良くないだろう。
それでも自分を必死に呼ぶ旭が愛おしくて、どうしても止められなかった。
「けいし、けいし、」
「うん、ここにいる」
「けいし、ごめんね、ごめんなさい」
──大好きだよ
脳が焼き切れそうだ。夢を見ている旭はいつもより素直で、その言葉は慧士の胸を深く突き刺す。
「今、ここで死んでもいいかも」
本気でそう思った。月曜午前中、何でもない平凡な日。二人きりの寝室で、このまま息が止まっても後悔はなかった。それほどまでに、泣きたくなるほどに、この男を愛している。
慧士はそっと旭の唇に、自身のそれを重ねた。
一瞬だけでも呼吸を奪い、この瞬間の死を共有するために。
そのままじっと眠る旭を見つめていると、その頬に新しい雫がぱたぱたと降り注ぐ。カーテンの隙間から差し込む陽に照らされた雫は、光を纏いながら首筋に流れていく。
慧士はそれを飽きもせず、長いあいだ眺めていた。
1
あなたにおすすめの小説
溺愛系とまではいかないけど…過保護系カレシと言った方が 良いじゃねぇ? って親友に言われる僕のカレシさん
315 サイコ
BL
潔癖症で対人恐怖症の汐織は、一目惚れした1つ上の三波 道也に告白する。
が、案の定…
対人恐怖症と潔癖症が、災いして号泣した汐織を心配して手を貸そうとした三波の手を叩いてしまう。
そんな事が、あったのにも関わらず仮の恋人から本当の恋人までなるのだが…
三波もまた、汐織の対応をどうしたらいいのか、戸惑っていた。
そこに汐織の幼馴染みで、隣に住んでいる汐織の姉と付き合っていると言う戸室 久貴が、汐織の頭をポンポンしている場面に遭遇してしまう…
表紙のイラストは、Days AIさんで作らせていただきました。
言い逃げしたら5年後捕まった件について。
なるせ
BL
「ずっと、好きだよ。」
…長年ずっと一緒にいた幼馴染に告白をした。
もちろん、アイツがオレをそういう目で見てないのは百も承知だし、返事なんて求めてない。
ただ、これからはもう一緒にいないから…想いを伝えるぐらい、許してくれ。
そう思って告白したのが高校三年生の最後の登校日。……あれから5年経ったんだけど…
なんでアイツに馬乗りにされてるわけ!?
ーーーーー
美形×平凡っていいですよね、、、、
どうせ全部、知ってるくせに。
楽川楽
BL
【腹黒美形×単純平凡】
親友と、飲み会の悪ふざけでキスをした。単なる罰ゲームだったのに、どうしてもあのキスが忘れられない…。
飲み会のノリでしたキスで、親友を意識し始めてしまった単純な受けが、まんまと腹黒攻めに捕まるお話。
※fujossyさんの属性コンテスト『ノンケ受け』部門にて優秀賞をいただいた作品です。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
人並みに嫉妬くらいします
米奏よぞら
BL
流されやすい攻め×激重受け
高校時代に学校一のモテ男から告白されて付き合ったはいいものの、交際四年目に彼の束縛の強さに我慢の限界がきてしまった主人公のお話です。
お酒に酔って、うっかり幼馴染に告白したら
夏芽玉
BL
タイトルそのまんまのお話です。
テーマは『二行で結合』。三行目からずっとインしてます。
Twitterのお題で『お酒に酔ってうっかり告白しちゃった片想いくんの小説を書いて下さい』と出たので、勢いで書きました。
執着攻め(19大学生)×鈍感受け(20大学生)
【完結・BL】春樹の隣は、この先もずっと俺が良い【幼馴染】
彩華
BL
俺の名前は綾瀬葵。
高校デビューをすることもなく入学したと思えば、あっという間に高校最後の年になった。周囲にはカップル成立していく中、俺は変わらず彼女はいない。いわく、DTのまま。それにも理由がある。俺は、幼馴染の春樹が好きだから。だが同性相手に「好きだ」なんて言えるはずもなく、かといって気持ちを諦めることも出来ずにダラダラと片思いを続けること早数年なわけで……。
(これが最後のチャンスかもしれない)
流石に高校最後の年。進路によっては、もう春樹と一緒にいられる時間が少ないと思うと焦りが出る。だが、かといって長年幼馴染という一番近い距離でいた関係を壊したいかと問われれば、それは……と踏み込めない俺もいるわけで。
(できれば、春樹に彼女が出来ませんように)
そんなことを、ずっと思ってしまう俺だが……────。
*********
久しぶりに始めてみました
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる