拝啓、箱庭の君へ

古夏

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この愛が伝わりますように。敬具

この愛が伝わりますように。敬具 -2-

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「じゃ、帰る」
「ちょっと待った!荷物!」
「適当に送っておいてくれ」

 慧士は羽田に到着し、無事に入国審査を終えると手荷物を待たずにハイヤー乗り場に向かう。その背中を慌てた様子で佐野が追ってきたが、振り返ることもなく手を振った。
 後ろから盛大なため息が聞こえてきたが、今は旭の一大事だ。世話焼きな性格と思われがちだが、実はおっちょこちょいでずぼらな面もあるため、きっと食事すらまともに摂れていないだろう。

「そのくせコンシェルジュも使わないんだよな」

 あの律儀で変なところで潔癖な男は、いくら言っても「悪いから」と言ってコンシェルジュを使おうとしない。買い物だって予約困難な店の予約だって、何だって熟すのが役目の人間たちに何を言っているのか。
 ただいくら説明して説得したところで、あの旭が変わるわけがない。それを嫌と言うほど知っている慧士は深くため息を吐く。
 長い脚でずんずんと空港内を歩くと、五分もしないうちにハイヤー乗り場に着いた。
 予約のハイヤーを見つけて乗り込むと、事前に自宅住所が伝えられていたのか、静かに車は走り出す。高級外車ということもあり、社内は静かだ。三十分もあれば自宅に着くのだが、その間に確認したいことがあった。
 旭が映っていた、あのインターホンの録画だ。慧士はイヤホンを着けると、アプリでお目当ての動画を見つけて再生ボタンを押す。
 マンションの廊下は外界を遮断した造りになっているため、思っていたよりも音声は綺麗だった。

『……?いない?』
『あの、ごめんなさい。いっぱい考えたけど、慧士があの時どうしてあんなに怒ったか分からなくて。あ、会いたくないって言われたのに、会いに来てごめんなさい。ずっと、ずっと慧士に迷惑かけてきてごめんなさい……』

 いつもより小さくなってしまったその背が痛々しい。それでもここを離れないぞという頑固さに、思わず笑ってしまった。旭はよく慧士に向かって我儘だとか、頑固だとかいうが実際は旭の方が意地になると梃子でも動かない。
 きっと今すぐ逃げ出したいだろうに、それをしたら終わるとでも思っているのだろう。
 ああ、自分の愛した男がこんなに健気で可哀想で、愛おしい。
 自然と口角が上がり、口元が歪む。本当だったら旭は謝らなくてもいいのだ。勝手にへそを曲げて、旭をここまで堕ちてこいと願ってる男のことなんて、気にしなくていい。 
でも旭は逃げられない。そうやって世界を作ってきた。背中にぞくりとしたものが走った。やはり自分は間違っていなかったという確信を得る。

『……ねぇ、慧士。あの日俺には自分がいらないって言ってたけど、違うと思うんだ。俺の世界を作って、守ってくれていたのはずっと慧士だよ。俺の望みを叶えてくれてたから、傍にいられたんだよ。だから、俺に慧士が必要だった』

 そうだろう、そうだろう。お前には俺が必要だ。それ以上に、俺はお前が必要だ。
旭がいなくては息もできない。それほどまでに、慧士の世界は旭で完結している。
 こんなこと思ってはいけない。なけなしの理性がそう囁くが、そんなことはお構いなしだ。だってあの旭が自分を求めている。肩を震わせ、きっと涙を溢しながら自分の世界に必要だと言っている。
 愉悦、狂気、興奮、歓喜。今にも大声で笑いだしたくなるような、この感情の名前を知らない。
 だが次の瞬間、慧士の歓びは瞬く間に消え失せた。

『だから今度からは……が、我慢する。慧士が望むなら、普通の幼馴染になるよ』 
「……は?」

 思わず声が漏れた。何事かとルームミラー越しに視線が飛んでくるが、今はそんなものどうでも良い。この小さな画面の中で、旭が言ったことが理解できなかった。
 慧士は停止ボタンを押すと、深く皺を寄せた眉間を揉む。
 どうしてそうなるんだ。ここまでして世界を作り上げた男が、普通の幼馴染を望むと思うのか。どんな思考回路を持っていればそんな結末を思いつくのか、本気で知りたくなった。

 旭のことは愛している。考えたくはないが、旭がもし死ぬようなことがあれば、その一秒後にはこの世を去りたいとすら思っている。
 旭のいない世界に価値も未練もない。本気でそう思っているのだ。
 歪であると自覚しているが、それでも良いと深く愛している。
 ただ、それと同時に酷く憎くもあった。これは自分勝手な感情だ。だって旭はこんな世界なんて望んでいないから。物心つく頃にはこの執着心と独占欲は育ちきっていて、旭の世界を構成する要素を最低限にすることに勤めた。
 傍若無人な王様を手懐けられる唯一の男としての優越感。綺麗なものが好きな旭にだけ見せる笑顔。旭を囲うエトセトラ。
 決して怖がらせないように、真綿で丁寧にくるんで差し出してきた。
 それだというのに、慧士が普通の幼馴染を望んでいると思っている。先ほどまで歓喜に震えていた心臓は、すとんと勢いを落として、冷たく凍り付いていた。

「……はぁ、本当に馬鹿だねぇ」

 世界で一番愛した男の項垂れる姿を見ながら、慧士は目を眇めた。泣きたいのはこちらのほうだ。
 ちらりと再生バーを確認すると、まだ動画が残っている。このあとのことを考えると、ここで止めてしまいたいが、旭のことは全てを把握したい。その欲がもう一度再生ボタンをタップさせた。
 しばらくじっと俯いたまま旭は固まっている。残り二分。このまま終わるのだろうかと眺めていると、急にしゃくりあげながら泣き始めた。
 何事かと見守っていると『や、やだ……』という悲鳴のような声が聞こえてくると、今度は慧士が目を見開いて固まった。
 口元を手で覆いながら、画面の中で泣く旭から目が離せない。

『ごめんなさい、ごめんなさい、慧士ッ、俺、俺』
『これ、覚えてる?』

 誤魔化す様に目を擦って、がさごそとバッグを漁って何かを取り出した。
 カメラに近づけられたそれは少しぼやけているが、見覚えがあった。

「……あのときのビー玉だ」

 珍しく旭と喧嘩をしたとき。中々口をきいてもらえず、泣き落とすようにして赦しを請うたときの記念品だ。今思うと子供の浅知恵だが、どうやら旭はそれを今のいままで大切に持っていたらしい。
 あれほど暗く汚泥に沈んだ心が、それだけで軽くなる。単純な造りをしている。

『俺、まだ慧士の言葉の意味は分からないし、許してもらえないかもしれないけど、慧士に会えないと寂しい』

 一週間という短くも長いあいだ、きっと旭は悩み続けたのだろう。
 その結果がこれだ。二十年近く前にあげたビー玉を差し出して、許して欲しいと泣いている。

『会いたい』

 そう言って笑う顔は、涙と雨でぐしゃぐしゃに歪んでいる。決して綺麗とは言えないはずなのに、慧士には宗教画のような神々しを感じさせる。
 旭といる世界は飽きることがない。なんて憎らしくて、愛らしい男なのだろう。
 そのまま「ばいばい」と手を振って去る旭の背中を映したあと、カメラはぷつりと切れた。あとは真っ黒く塗りつぶされた画面が残るだけ。
 慧士は端末へ動画をダウンロードすると、遠くに見えた自宅を眺めて口元を緩める。
 あと少しで旭の願いを叶えられる。世界中探しても、彼の求めに応えられるのは自分だけだ。その優越感がたまらなく心地良い。
 慧士は鼻歌でもうたいだしそうだったが、これ以上運転手を怖がらせて事故でも起こされたらたまらない。
 ああ、あとちょっと。世界の縁で迷子になっている旭は、あと一押しでこちらに堕ちてくる。彼の手を引くのが今から楽しみで仕方がない。
 きっとまともな人間がいたら、こんなもの正しくないと言いそうだが、そんなつまらない人間は慧士の世界にはいなかった。

      ◇◆◇

 久しぶりに旭の家のカードキーを使うとき。一瞬だが柄にもなく緊張した。仕事以外で一週間も会わなかったことはない。海外コレクション中だって、毎日ビデオ通話をするのが常だった。

「あさひー」

 玄関で靴を脱ぎ、すぐの洗面所で手を洗いながら名前を呼んでみる。どうやら寝室で眠っているようで、家主の気配のない家は静かだ。
 腕時計を確認すると、昼の十一時。先ほどコンシェルジュに簡単な食料や薬を頼んでおいたので、あと三十分もすれば宅配ボックスに届くだろう。
 冷蔵機能のついた宅配ボックスは、こういったときに便利だなと思う。慧士は寝室の前まで来ると、コンコンと控えめにノックをした。だが当たり前のように返事はない。
 中からは苦しそうな息の合間に、自分の名前を呼ぶ声がする。
ああ、体が震える。まだ旭の姿すら視界に入れていないのに、小さく名前を呼ばれただけで、全身の細胞が息を吹き返した。
行儀悪く唇を舐めながら、そっとドアを開く。ベッドの上には小さな山ができており、息を繰り返すたびに僅かに上下している。

「け、し、けーし、」

 近づくと、目を瞑ったまま涙を流して自分を呼ぶ旭がいた。
 可愛い。こんなに弱り切って、涙と汗でぐずぐずになっていても、世界で一番可愛い。
 先ほどまでの苛立ちや愉悦なんてものが、溶けて霧散していく。旭の顔を見るといつもこうだ。

「なぁに、旭」

 久しぶりに旭の名前を呼んだ。慧士の世界で唯一の名前。愛しい男の名前。口にするだけで、口角が緩んでだらしなくなってしまう、そんな音。
 慧士が名前を呼ぶと、旭は朦朧としながらその姿を探そうと手をさ迷わせている。その姿がまるで迷子の子供みたいで、慧士はふっと笑みを浮かべながらそれを捕まえた。

「はは、めちゃくちゃ名前呼ぶじゃん」

 捕まえた手はやはり、いつもより熱い。大人になってからの高熱は、子供の時のそれよりもキツイ。サイドテーブルには水もなく、ごみ箱を見ても薬の形跡がない。
 きっと今朝から立ち上がることもできず、飲まず食わずの状態なのだろう。さすがにこのままではまずい。宅配ボックスを確認しようと腰を浮かせた瞬間、病人とは思えない強さで手を引かれた。

「や、ごめ、ごめんなさい、あやまるから、ちゃんとするから」

 きっとこれは夢だと思っている。ぐずぐずと泣いていた旭が、今度はしゃくりあげながら涙をぼろぼろと零している。真っ赤になった頬に伝う涙が熱く、宥めるように手の甲を指先で撫でてみたが力は緩まなかった。

「離れないで、離さないで、知らない顔で、知らない人に笑いかけないで」

 静かな部屋に、静かな願いが響いた。縋るように引き寄せられた指先に、涙が伝う。きっと口にするのも勇気がいるだろう。熱がなければ聞けなかったかもしれない。正にうわ言だ。
 それでも絞り出すような懇願は、慧士をベッドに縫い付けるには十分だった。

「……ここにいるよ、大丈夫」
「うそ、やだあ、ッ、ごめ、けいし」
「嘘じゃないって、ほら、泣きすぎて熱上がってる」

 手の甲に頬を摺り寄せられ、その熱の高さに眉間の皺が深くなった。時折咳き込んでいるので、きっと喉も辛いはずだ。これ以上喋らせるのは良くないだろう。
 それでも自分を必死に呼ぶ旭が愛おしくて、どうしても止められなかった。

「けいし、けいし、」
「うん、ここにいる」
「けいし、ごめんね、ごめんなさい」

 ──大好きだよ

 脳が焼き切れそうだ。夢を見ている旭はいつもより素直で、その言葉は慧士の胸を深く突き刺す。

「今、ここで死んでもいいかも」

 本気でそう思った。月曜午前中、何でもない平凡な日。二人きりの寝室で、このまま息が止まっても後悔はなかった。それほどまでに、泣きたくなるほどに、この男を愛している。
 慧士はそっと旭の唇に、自身のそれを重ねた。
 一瞬だけでも呼吸を奪い、この瞬間の死を共有するために。
 そのままじっと眠る旭を見つめていると、その頬に新しい雫がぱたぱたと降り注ぐ。カーテンの隙間から差し込む陽に照らされた雫は、光を纏いながら首筋に流れていく。
 慧士はそれを飽きもせず、長いあいだ眺めていた。
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