名もなき姫の手記

sheryl00

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灰に埋もれた名

密やかな許し

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内侍官が私を呼びに来たのは、翌朝のことだった。

宮門の外の石段には、夜の雨の跡がまだ残っている。
乾ききらない水の筋は、どこか涙の跡のように見えた。

遠くで鐘が鳴る。
低く、ゆっくりと――この宮城が今日も変わらず、自分の拍子で息をしていると告げるように。

「陛下がお目通りをお許しになりました」

そう告げたのは内侍官だった。
宦官として仕える男で、声は低い。冷たいわけでもないが、特別に丁寧でもない。
ただ“務め”として淡々と脇へ身を退き、道を開けた。

私はその後ろについて、脇殿へ続く長い回廊を歩く。

廊下の灯籠はまだ片づけられておらず、橙色の光が青い煉瓦の床に四角く落ちていた。
まるで時間を細かく切り分けたように、光が一枚ずつ並んでいる。

足音がやけに響く。
私の足音だけではない。胸の奥で速まる鼓動まで、回廊に反響している気がした。

奥へ進むほど、静けさが深まる。
宮城そのものが息を潜めているかのようだった。

御書房の扉は半分だけ開いている。

内侍官は扉の外で立ち止まり、低い声で取り次ぐと、すぐ一歩下がって影に退いた。
私は敷居の手前に立つ。手のひらにじわりと汗が滲む――それでも足は引かなかった。

扉が、ゆっくりと開く。

中は灯りが多いのに、あたたかくはない。
高い書棚が幾重にも並び、奏摺と典籍が隙間なく詰め込まれている。

机の上には、朱筆でまだ裁かれていない文書が広がり、赤い線が斜めに走っていた。
固まった血の筋のように見えて、私は視線をすぐにそらす。

陛下は窓辺に立っていた。

こちらに背を向け、灯りに長い影を引いている。
まっすぐな背なのに、どこかひどく孤独に見えた。

窓の外はまだ薄暗く、遠い宮壁の輪郭はぼやけている。
まるで声を持たない牢のようだった。

私は膝を折り、深く礼をする。

「児臣、陛下に拝謁いたします」

陛下はすぐには振り向かなかった。
少ししてから、低く嗄れた声が落ちてくる。

「……おまえが、阿照か」

初めて名を呼ばれた。
「公主」でも「どこの宮の娘」でもない――ただの二文字。
軽いはずなのに、胸の奥に深く沈む。

私は低く答える。

「はい」

陛下が振り向く。

灯りがその顔を照らした。
目元はまだ赤いが、表情はすでに冷えている。

帝王の悲しみは、誰にも見られない場所でしか許されない。
人前に出た瞬間、それは“威儀”の下へ押し込められる。

陛下は私をしばらく見つめた。
裁くようでもあり、思い出すようでもある視線だった。

「柳妃と……親しかったか」

咎める声ではない。
だが、探る鋭さがあった。

私は目をそらさずに答える。

「親しいと言えるほどではありません。ただ……よく伺っていました。柳妃さまは、私に良くしてくださいました」

陛下は一瞬、言葉を止めた。
指先が机の縁をゆっくり撫でる――感情を押さえる癖のように見える。

「良く……」
陛下がその言葉を繰り返す。ほんのわずかに、声音が変わった。
「この宮では、皆そう言う」

私は顔を上げる。

「陛下。『良いお方』という言葉は――あまりにも軽うございます」

口にした瞬間、自分でも息が止まった。
御書房の空気が、ぴんと張る。

内侍官が息を呑む気配がした。

――だが、陛下は怒らなかった。

ゆっくり目を細め、私を見る。
今になって初めて、私という人間を確かめるように。

「ならば、どう言えばよい」

私は小さく息を吸い直す。
怖さはある。それでも、抑えきれない衝動があった。

「私は柳妃さまと十余年、同じ宮におりました。けれど――私は、柳妃さまの“声”を思い出せないのです」

「炭は足りているかと問われ、点心を食べよと笑われ、茶はゆっくり飲めと諭されました。
それでも……声の形だけが、どうしても残っていない」

「もし柳妃さまが、ただの“良いお方”で終わるのなら――
あの方が何者で、何を背負い、なぜあれほど静かであったのか。私は何ひとつ知らぬままです」

灯芯が、かすかに鳴った。
陛下の表情が、ほんのわずかに揺れる。何かを突かれ、すぐに押し戻したような揺れ方だった。

「……何を調べたい」

その声から、試す色はほとんど消えていた。
代わりに残っているのは、冷静な計算だけだ。

私はさらに深く頭を垂れる。

「柳妃さまの身の上。入府なさる前の過去。そして――あの大火の夜、なぜ柳妃さまがそこにおられたのか」

陛下は答えない。
机へ戻り、朱筆を取る。だが筆先はしばらく紙の上に落ちない。灯りが横顔を揺らし、うっすらと疲れの影だけが浮かぶ。

長い沈黙ののち、低い声が落ちた。

「おまえ、自分が何をしているか分かっているのか」

私は跪いたまま、今度は顔を上げる。
声は先ほどより柔らかい――それでも揺らがない。

「この件が、朝堂にも権臣にも、古い因縁にも――そして陛下のお心にも触れ得ることは承知しております」
「柳妃さまの過去が、清らかでも体裁よくも、無辜でもない可能性があることも……理解しております」

袖の中で指先を握る。
そして、はっきりと言う。

「柳妃さまは、もう亡くなられました」

喉の奥が少し痛む。
それでも言葉を続ける。

「私は誰かを裁きたいのではございません。まして是非を論じるなど、身の程知らずも甚だしいことです」
「ただ――この宮で、柳妃さまの一生を『良いお方』の四文字だけで終わらせたくないのです」

声を落とし、静かに言い直す。

「誰かが、あの方の姿を覚えている。喜びも悲しみも、どう生き、なぜ黙し、なぜ火の中へ向かわれたのか――それを覚えている」
「それだけで、十分なのです」
「たとえその“誰か”が、私ひとりであっても」

針を落としても聞こえるほどの静寂が満ちた。
陛下の手が、朱筆の上で止まる。

陛下は私を見ない。
それでも――初めて、私の言葉を“聞いた”ように感じられた。

やがて朱筆が紙に落ち、深い赤が一本引かれる。
陛下は筆を置き、ゆっくりこちらを向いた。

「真実は、しばしば人の願いとは異なる姿をしているかもしれない。」

私はまぶたを伏せ、静かに答える。

「真相を暴きたいわけではありません。ただ……柳妃さまがどんな方だったのか、もっと知っておきたい。短い一生でも、きちんと覚えていたいのです。」

陛下はまた黙した。
窓の外が少しずつ明るくなる。薄い光が部屋の隅へ染み込み、灯りの影を押し退けていく。

そして、ようやく言葉が落ちた。

「許す。調べよ」

その一言は、暗い扉がひとつ開いたようだった。
胸が震える。けれど私は乱れずに頭を下げ、礼を尽くす。

立ち上がろうとしたとき、陛下がもう一つ付け加えた。

「ただし、覚えておけ」
「この宮には、ただの偶然などない。深く踏み込めば――二度と引き返せぬ」

私は少しだけ間を置き、答える。

「……もとより、引き返すつもりはございません」

陛下の目が一瞬だけ揺れた。
次の瞬間、ほんの短く――しかし確かに、笑った。

「行け」

内侍官が前へ進み、私を外へ導く。
扉が背後で閉まる瞬間、初めて気づいた。背中が冷たい汗で濡れている。

回廊に出ると、朝の光が床へ広がっていた。
宮壁の外から、鳥の声がかすかに届く。まるで別の世界の音だ。

私はその場で小さく息を整えた。

――もう、ただの傍観者ではいられない。
私は宮城のいちばん深い影へ、足を踏み入れてしまった。

そして柳妃の名は、その影の奥で静かに待っている。
私が拾い上げるのを。
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