1 / 1
居場所のない家
しおりを挟む
蒼の朝は、いつも空腹から始まる。
胃袋がきゅっと縮んで、痛みとも違う、でも痛みに似た感覚が腹の奥からじわりと広がる。昨日の夜も何も食べていない。
一昨日も、そのまた前日も。
六畳の薄暗い部屋の隅に、蒼は膝を抱えて座っていた。体が小さいのは生まれつきのせいだと、ずっとそう思っていた。でも最近、違う気がしてきた。食べていないから、育たないのだ。十五歳なのに、見た目は十歳ほどにしか見えないと、近所のおばさんが一度言っていた。その言葉が、蒼の頭の片隅にずっと引っかかっている。
着ているのは兄の悠斗のお古だ。悠斗は身長が高く、体格もいい。その服を蒼が着ると、袖が手首より先まで余り、裾は膝まで垂れる。ブカブカの綿のシャツ。色が褪せたジーンズ。靴下の親指のところには、小さな穴が開いている。
『いらない子』
蒼はそう思っていた。ずっと、物心ついたときから。
母は蒼を見るとき、めんどくさそうに目を細める。父は存在ごと無視する。
食事の席に蒼の椅子はない。用意されることもない。台所に残り物があれば食べていいが、残り物が出ることは滅多になかった。
学校にも行ったことがない。
最初のうちは、何度か行こうとしたことがある。でも両親は手続きをしなかったし、蒼の足が向きかけるたびに「余計なことをするな」と父に怒鳴られた。だから蒼は、学校というものを外から眺めるだけの存在になった。塀の向こうから聞こえてくる子どもたちの笑い声は、別の世界のもののように遠かった。
その日の夕方、父が帰ってきた。
玄関の扉が乱暴に開く音がした。蒼は反射的に体を固くした。
父の足音は、その時の機嫌がわかる。今日は……重くて、速い。
台所から母の声が聞こえた。「あなた、お帰り」
「うるさい」
それだけで、蒼にはわかった。今夜は、来る。
部屋の隅に身を寄せた。できるだけ小さく、できるだけ目立たないように。でも扉は開いた。
父が立っていた。スーツのネクタイが緩み、目が充血している。
「お前、また部屋にいたのか」
声が低かった。蒼は何も言えなかった。
「答えろ。何してた」
「……何も、してません」
「何もしてない?」父はせせら笑った。「そうだろうな。お前は何もできないんだから。役立たずめ」
蒼は視線を落とした。
「見ろよ、その格好。情けない。十五にもなって、何のために生きてるんだ、お前は」
「……ごめんなさい」
「謝ればいいと思ってる。お前はいつもそうだ」
父の手が伸びてきた。頬を打たれた。乾いた音が部屋に響いた。蒼は壁に打ちつけられ、床に崩れた。声は出なかった。声を出すと、もっとひどくなる。それを知っていた。
「役立たずは出ていけ」
父は吐き捨てた。その言葉は、殴られるよりも痛かった。
「あなた、やめて」
廊下から母の静かな声がした。でも止めには来なかった。扉の外から声だけかけて、それで終わりだった。
父は踵を返した。扉が閉まった。
蒼は床の上で、膝を抱えた。頬がじんじんと痛んだ。涙は出なかった。もう、涙の出し方を忘れてしまったみたいだった。
廊下を足音が近づいてくる。今度は悠斗だった。
兄は背が高く、顔が整っていて、成績は学年一位だ。生徒会長で、先生にも親にも一様に期待される。でも今夜の悠斗の目は、いつもと違った。充血していて、眼の下に濃い隈がある。唇がわずかに震えていた。
蒼の頬の赤みを見て、悠斗の目が一瞬止まった。でもすぐに逸らした。
「悠斗に……」
蒼が声をかけようとした瞬間、悠斗が手に持っていた参考書を床に叩きつけた。
バン、と鈍い音が鳴った。蒼はびくっと肩をすくめ、部屋の隅へ後退した。
「うるさい」
悠斗は低い声で言った。
「お前が……お前がいなければ、俺はもっと楽なんだ」
それから悠斗の目が、部屋の隅の小さなテーブルに止まった。蒼がお腹を空かせた時のために置いている水のコップだ。
それを掴んで、壁へ向けて投げた。コップは壁に当たり、床に落ちて割れた。水が飛び散り、陶器の破片が蒼の足元に散らばった。
蒼は動けなかった。呼吸が浅くなった。
「なんで……なんで俺ばかり」
悠斗は自身の髪を掴んで、低く呻いた。声が震えていた。怒りなのか、絶望なのか、蒼には判断できなかった。
蒼には、悠斗の苦しさが少しだけわかった。親の期待を一身に背負わされて、精神的に追い詰められている。そのはけ口が、自分に向いている。理不尽だとは思う。でも今の悠斗を責める気にはなれなかった。
「ごめん」
蒼は言った。何に謝っているのか、自分でもわからなかった。ただ、謝れば何かが和らぐかもしれないという、長年の習慣だった。
悠斗はしばらくその場に立ったまま、荒い呼吸を繰り返した。それからゆっくりと踵を返して、部屋を出ていった。
扉が閉まる音。
蒼は床の破片を見た。立ち上がり、ゆっくりとそれを拾い集めた。手を切らないように、丁寧に。誰かに言われたわけでもなく、ただそうしなければいけない気がして。
窓の外では、秋の夜空に星がいくつか光っていた。蒼はその星を見た。誰かが自分を見てくれているような気がして、でもすぐにその考えを打ち消した。
——誰も、見ていない。
でも心の奥のどこかに、小さな願いのようなものがあった。言葉にしたら消えてしまいそうで、ずっと黙っていた。
誰かに、愛されたい。
その夜、悠斗は自分の部屋で泣いた。声を殺して、布団に顔を押しつけて。弟の顔が頭から離れなかった。あんなに小さな体。怯えた目。壁に投げたコップの破片を、黙って拾い集める蒼の後ろ姿。
「俺は何をしているんだ」
悠斗は呟いた。全てが重くて、壊れそうで、その重さを弟にぶつけていた。一番守るべき存在に、一番傷をつけていた。
それでも悠斗は、翌日も完璧な優等生として学校へ行った。
誰も気づかなかった。悠斗の内側が、少しずつ崩れていっていることに。
胃袋がきゅっと縮んで、痛みとも違う、でも痛みに似た感覚が腹の奥からじわりと広がる。昨日の夜も何も食べていない。
一昨日も、そのまた前日も。
六畳の薄暗い部屋の隅に、蒼は膝を抱えて座っていた。体が小さいのは生まれつきのせいだと、ずっとそう思っていた。でも最近、違う気がしてきた。食べていないから、育たないのだ。十五歳なのに、見た目は十歳ほどにしか見えないと、近所のおばさんが一度言っていた。その言葉が、蒼の頭の片隅にずっと引っかかっている。
着ているのは兄の悠斗のお古だ。悠斗は身長が高く、体格もいい。その服を蒼が着ると、袖が手首より先まで余り、裾は膝まで垂れる。ブカブカの綿のシャツ。色が褪せたジーンズ。靴下の親指のところには、小さな穴が開いている。
『いらない子』
蒼はそう思っていた。ずっと、物心ついたときから。
母は蒼を見るとき、めんどくさそうに目を細める。父は存在ごと無視する。
食事の席に蒼の椅子はない。用意されることもない。台所に残り物があれば食べていいが、残り物が出ることは滅多になかった。
学校にも行ったことがない。
最初のうちは、何度か行こうとしたことがある。でも両親は手続きをしなかったし、蒼の足が向きかけるたびに「余計なことをするな」と父に怒鳴られた。だから蒼は、学校というものを外から眺めるだけの存在になった。塀の向こうから聞こえてくる子どもたちの笑い声は、別の世界のもののように遠かった。
その日の夕方、父が帰ってきた。
玄関の扉が乱暴に開く音がした。蒼は反射的に体を固くした。
父の足音は、その時の機嫌がわかる。今日は……重くて、速い。
台所から母の声が聞こえた。「あなた、お帰り」
「うるさい」
それだけで、蒼にはわかった。今夜は、来る。
部屋の隅に身を寄せた。できるだけ小さく、できるだけ目立たないように。でも扉は開いた。
父が立っていた。スーツのネクタイが緩み、目が充血している。
「お前、また部屋にいたのか」
声が低かった。蒼は何も言えなかった。
「答えろ。何してた」
「……何も、してません」
「何もしてない?」父はせせら笑った。「そうだろうな。お前は何もできないんだから。役立たずめ」
蒼は視線を落とした。
「見ろよ、その格好。情けない。十五にもなって、何のために生きてるんだ、お前は」
「……ごめんなさい」
「謝ればいいと思ってる。お前はいつもそうだ」
父の手が伸びてきた。頬を打たれた。乾いた音が部屋に響いた。蒼は壁に打ちつけられ、床に崩れた。声は出なかった。声を出すと、もっとひどくなる。それを知っていた。
「役立たずは出ていけ」
父は吐き捨てた。その言葉は、殴られるよりも痛かった。
「あなた、やめて」
廊下から母の静かな声がした。でも止めには来なかった。扉の外から声だけかけて、それで終わりだった。
父は踵を返した。扉が閉まった。
蒼は床の上で、膝を抱えた。頬がじんじんと痛んだ。涙は出なかった。もう、涙の出し方を忘れてしまったみたいだった。
廊下を足音が近づいてくる。今度は悠斗だった。
兄は背が高く、顔が整っていて、成績は学年一位だ。生徒会長で、先生にも親にも一様に期待される。でも今夜の悠斗の目は、いつもと違った。充血していて、眼の下に濃い隈がある。唇がわずかに震えていた。
蒼の頬の赤みを見て、悠斗の目が一瞬止まった。でもすぐに逸らした。
「悠斗に……」
蒼が声をかけようとした瞬間、悠斗が手に持っていた参考書を床に叩きつけた。
バン、と鈍い音が鳴った。蒼はびくっと肩をすくめ、部屋の隅へ後退した。
「うるさい」
悠斗は低い声で言った。
「お前が……お前がいなければ、俺はもっと楽なんだ」
それから悠斗の目が、部屋の隅の小さなテーブルに止まった。蒼がお腹を空かせた時のために置いている水のコップだ。
それを掴んで、壁へ向けて投げた。コップは壁に当たり、床に落ちて割れた。水が飛び散り、陶器の破片が蒼の足元に散らばった。
蒼は動けなかった。呼吸が浅くなった。
「なんで……なんで俺ばかり」
悠斗は自身の髪を掴んで、低く呻いた。声が震えていた。怒りなのか、絶望なのか、蒼には判断できなかった。
蒼には、悠斗の苦しさが少しだけわかった。親の期待を一身に背負わされて、精神的に追い詰められている。そのはけ口が、自分に向いている。理不尽だとは思う。でも今の悠斗を責める気にはなれなかった。
「ごめん」
蒼は言った。何に謝っているのか、自分でもわからなかった。ただ、謝れば何かが和らぐかもしれないという、長年の習慣だった。
悠斗はしばらくその場に立ったまま、荒い呼吸を繰り返した。それからゆっくりと踵を返して、部屋を出ていった。
扉が閉まる音。
蒼は床の破片を見た。立ち上がり、ゆっくりとそれを拾い集めた。手を切らないように、丁寧に。誰かに言われたわけでもなく、ただそうしなければいけない気がして。
窓の外では、秋の夜空に星がいくつか光っていた。蒼はその星を見た。誰かが自分を見てくれているような気がして、でもすぐにその考えを打ち消した。
——誰も、見ていない。
でも心の奥のどこかに、小さな願いのようなものがあった。言葉にしたら消えてしまいそうで、ずっと黙っていた。
誰かに、愛されたい。
その夜、悠斗は自分の部屋で泣いた。声を殺して、布団に顔を押しつけて。弟の顔が頭から離れなかった。あんなに小さな体。怯えた目。壁に投げたコップの破片を、黙って拾い集める蒼の後ろ姿。
「俺は何をしているんだ」
悠斗は呟いた。全てが重くて、壊れそうで、その重さを弟にぶつけていた。一番守るべき存在に、一番傷をつけていた。
それでも悠斗は、翌日も完璧な優等生として学校へ行った。
誰も気づかなかった。悠斗の内側が、少しずつ崩れていっていることに。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
魔王を倒した勇者の凱旋に、親友の俺だけが行かなかった理由
スノウマン(ユッキー)
BL
スラム育ちの二人は、スキルを得た事で魔王討伐に旅立つ勇者と彼の帰還を待つだけのただの親友となる。
勇者と親友の無自覚両片想いのじれったい恋愛の物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる