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珍しく残業があった。いつもより二時間半遅い帰路、電車はほんの少し空いていて、駅に降り立つとその辺を歩く連中は映像の早送りみたいにせかせかと歩いていた。火村書店のシャッターは当然ながら閉まっていて、隣の美容室も同様、というか目抜き通りのほとんどの商店はとっくに店仕舞いをしていて、嗚呼、夜だな、と俺は思って、こんなにも完璧な夜にあの人工的な光の溢れるスーパーには行きたくなくて、自炊をする気にもなれなかったのでラーメン屋に入ることにした。パチンコ屋の二軒手前に古い店があって、そこは深夜遅くまで営業しているのだ。
店の前に立つと、赤いのれんに『らーめん』とだけ白い文字、筆で書いたような書体で書かれていて、ガラスの引き戸の脇に『小梅』と店の名前が書かれたパネルみたいなものが無造作に置いてあって、おかげで何度も来てるのに俺はここの名前を覚えられない。とはいえ越してきた当初や繁忙期で自炊出来ない時にはかなり世話になっている店だ。がらがらと引き戸を開けると麺の匂いにむわっと全身を包まれた。カウンター席のみ、U字型になっていて、左奥で禿げたおっさんが何やら食べていて、右側にはこんな時間なのに子供連れが居た。客はそれだけだったので、俺はU字の一番突き出た席に座る。とんこつラーメンと餃子のセットを頼んだ。注文を取りに来たのは初めて見る若い女で、幸か不幸か彼女の眉毛は太くなかった。とんこつセット入ります、と言う彼女の発音からして、日本人ではないのかもしれない。
自分でお冷やを注ぎ足してから俺は適度な明るさの店内を眺めた。二面の壁にはメニューの他に古い演歌歌手のポスターが貼ってあって、俺はその誰も知らない。ラジオが流れていて、NHKなのか何なのか、ニュースを読み上げる男の声はえらく味気なく感情というものをマイクに吹き込まないよう腐心しているかのようだった。
先ほどの女性が四角いプレートを両手に奥から出てきて、子連れ客の前に置いた。若作りした化粧の濃い女と、これまた若作りの白髪交じりの男、子供は小学校低学年くらい、大人しいなと思っていたら何てことはない、ゲーム機を両手で掴むようにして遊んでいるのだった。
ほどなくしてありついたとんこつラーメンは食べ慣れた味で美味かった。ここの餃子は小さいんだけどジューシーでなかなか良い。麺を食い終えスープをすすっていると、左手の奥に居た禿のおっさんがカウンターに小銭を置いて立ち上がった。壁のハンガーに掛かっているコートをのそのそと着込み、無言で店を出る。真後ろのドアが開くと、背中に冷気が襲ってきて、うなじなんかはダイレクトにそれを食らってしまって、俺は何かの埋め合わせのようにスープを飲み続けた。
帰宅して着替えもせずにベッドに横になり、枕元の文庫本を見もせずに一冊手に取って開いた。栞がはらりと顔に落ちてきた。静かだった。でもそれは心地よい静けさで、俺はそのまま本の世界に入り込む。その内満腹感が眠気を呼んで、嗚呼これは動ける内に着替えた方が良いなと思って、栞を挟み直してフリースのパジャマに着替えて、再びベッドに潜り込むともうそこは俺の知ってる部屋ではなかった。ヤニで黄ばんだ天井は確かにいつも見るものだった、左手の壁紙の剥がれかけた壁も、右側に見える低いテーブルもその上の灰皿やノートパソコンもスマホも、文庫本ばかりが並んだ白い本棚も、圧迫感、俺に向かって四方八方から迫り来るようで、嗚呼またか、俺は俺自身を奪還するためにゆっくりと呼吸をする。少し、恐れていた。それはつまり、この部屋、今現在俺が暮らしている部屋すら実家のように単なるデータになってしまうこと、それは何だか本当に居場所がなくなる気がして、いやでも、ここは俺の部屋であって俺はここの主なのだった。ただ、それが実感としてあるかというと、今の俺にはよく分からないのだ。
ふと、クリスマスイブに行った広場の、背の高い木のことを思い出す。あの木には根っこがあって、その根は物理的に存在するもので確固たるもので、でも人間には目に見える根っこなんてないじゃないか。帰属だとか根を張るだとか居場所だとか故郷だとか、そんな安易な言葉で人の生き方に、生き様に、枷を設けて一体何が楽しいのだろう。でも人間は群れる生物だ。そういう生き物だ。俺は俺自身だけと群れている。換言すれば、他の誰とも群れてはいない。俺自身がそれを望んでいない。本当に? 千鶴だって言っていた、自分を保つだけで手一杯なのに他の誰かとだなんて、と。俺は俺で手一杯なんだ。本当に、それだけなんだ。なんて、俺は一体誰に言い訳をしてるんだろう?
店の前に立つと、赤いのれんに『らーめん』とだけ白い文字、筆で書いたような書体で書かれていて、ガラスの引き戸の脇に『小梅』と店の名前が書かれたパネルみたいなものが無造作に置いてあって、おかげで何度も来てるのに俺はここの名前を覚えられない。とはいえ越してきた当初や繁忙期で自炊出来ない時にはかなり世話になっている店だ。がらがらと引き戸を開けると麺の匂いにむわっと全身を包まれた。カウンター席のみ、U字型になっていて、左奥で禿げたおっさんが何やら食べていて、右側にはこんな時間なのに子供連れが居た。客はそれだけだったので、俺はU字の一番突き出た席に座る。とんこつラーメンと餃子のセットを頼んだ。注文を取りに来たのは初めて見る若い女で、幸か不幸か彼女の眉毛は太くなかった。とんこつセット入ります、と言う彼女の発音からして、日本人ではないのかもしれない。
自分でお冷やを注ぎ足してから俺は適度な明るさの店内を眺めた。二面の壁にはメニューの他に古い演歌歌手のポスターが貼ってあって、俺はその誰も知らない。ラジオが流れていて、NHKなのか何なのか、ニュースを読み上げる男の声はえらく味気なく感情というものをマイクに吹き込まないよう腐心しているかのようだった。
先ほどの女性が四角いプレートを両手に奥から出てきて、子連れ客の前に置いた。若作りした化粧の濃い女と、これまた若作りの白髪交じりの男、子供は小学校低学年くらい、大人しいなと思っていたら何てことはない、ゲーム機を両手で掴むようにして遊んでいるのだった。
ほどなくしてありついたとんこつラーメンは食べ慣れた味で美味かった。ここの餃子は小さいんだけどジューシーでなかなか良い。麺を食い終えスープをすすっていると、左手の奥に居た禿のおっさんがカウンターに小銭を置いて立ち上がった。壁のハンガーに掛かっているコートをのそのそと着込み、無言で店を出る。真後ろのドアが開くと、背中に冷気が襲ってきて、うなじなんかはダイレクトにそれを食らってしまって、俺は何かの埋め合わせのようにスープを飲み続けた。
帰宅して着替えもせずにベッドに横になり、枕元の文庫本を見もせずに一冊手に取って開いた。栞がはらりと顔に落ちてきた。静かだった。でもそれは心地よい静けさで、俺はそのまま本の世界に入り込む。その内満腹感が眠気を呼んで、嗚呼これは動ける内に着替えた方が良いなと思って、栞を挟み直してフリースのパジャマに着替えて、再びベッドに潜り込むともうそこは俺の知ってる部屋ではなかった。ヤニで黄ばんだ天井は確かにいつも見るものだった、左手の壁紙の剥がれかけた壁も、右側に見える低いテーブルもその上の灰皿やノートパソコンもスマホも、文庫本ばかりが並んだ白い本棚も、圧迫感、俺に向かって四方八方から迫り来るようで、嗚呼またか、俺は俺自身を奪還するためにゆっくりと呼吸をする。少し、恐れていた。それはつまり、この部屋、今現在俺が暮らしている部屋すら実家のように単なるデータになってしまうこと、それは何だか本当に居場所がなくなる気がして、いやでも、ここは俺の部屋であって俺はここの主なのだった。ただ、それが実感としてあるかというと、今の俺にはよく分からないのだ。
ふと、クリスマスイブに行った広場の、背の高い木のことを思い出す。あの木には根っこがあって、その根は物理的に存在するもので確固たるもので、でも人間には目に見える根っこなんてないじゃないか。帰属だとか根を張るだとか居場所だとか故郷だとか、そんな安易な言葉で人の生き方に、生き様に、枷を設けて一体何が楽しいのだろう。でも人間は群れる生物だ。そういう生き物だ。俺は俺自身だけと群れている。換言すれば、他の誰とも群れてはいない。俺自身がそれを望んでいない。本当に? 千鶴だって言っていた、自分を保つだけで手一杯なのに他の誰かとだなんて、と。俺は俺で手一杯なんだ。本当に、それだけなんだ。なんて、俺は一体誰に言い訳をしてるんだろう?
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