デラシネ議事録

秋坂ゆえ

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 昼休憩の時、給湯室でコーヒーを煎れていたら前田さんがマグカップ片手にやってきて、また誘われたら嫌だなと思ったのだが案の定誘われた。彼女とは過去に一度寝たことがあって、俺は酔ってたし前田さんにも彼氏が居たからそれきりだろうと思いそんな一夜のことは忘れていたのに、どういう訳か彼女はちょくちょく俺を誘うのだった。彼氏とは別れたから、だとか、河村君も寂しいでしょ、だとか、一晩くらいいいじゃない、だとか、他の社員やアルバイトにばれない場所・タイミング・声の音量・年上の女の余裕を見せびらかす感じのお誘い、まあまあアレだね、世に言う肉食系女子なのかね、この人は。どう断ろうかと思っていたら課長に呼ばれたのでそれを理由に給湯室から逃げ出した。

 なんで誘いを断るかというと単純に俺はセックスが苦手だからだ。行為そのものは可能だしEDとかそういうのじゃない、ただ高校の時、当時付き合っていた女子との最中に、見えてしまった。彼女に覆い被さる自分、へこへこと腰を振る自分、から、意識だけがするっと抜け出してしまって、愛の営みはあっという間に他人事になって、それでもうダメになった。自分の下であへあへ言う女の身体も自分自身の身体も、もはや俺のものではなかった。以来、誰と寝ようとしても自分が自分でなくなる気がして、そりゃ性欲は人並みにあるのだけど、その辺の男共のようにセックスに飢えることはなくなった。断絶される気がするんだ。動いているのは確かに俺の身体であって、でもその身体は何というか自動操縦みたいな感じ、或いは性欲が肉体を乗っ取って動いていて俺自身が身体から追い出される、俺はあの感覚が死ぬほど嫌いだ。しかしセックスに限らず最近そういうのが増えているような気がしてならない。終業まで前田さんを視界に入れないようにして、でも彼女の身体を全く覚えていない自分は、でもそのラブホのブラックライトだけは妙に覚えている自分は無責任なのか何なのか、自問したが答えは出ないままタイムカードを押した。





 異変を異変だと気付くのはいつも即座にという訳ではないが、その朝、俺はシャワーを浴びていつも通りウォークマンの再生ボタンを押して、ベーコンエッグを作って平皿によそって居間のテーブルの上に置いて、半分くらい食べたところであれ? と首を捻った。

 窓際のスピーカーは日光を浴びながら音楽を流していて、ビートルズの「Magical Mystery Tour」をシャッフル再生していて、ジョン・レノンが『ぼくはセイウチなんだ』と歌っていて、でもおかしい、俺の中には何も浮かばないのだった。このアルバムは中学に上がる前に買って中学一年くらいの時に物凄く聞き込んだ作品で、いつもは音に呼び起こされた情景や感覚や出来事や記憶が自動的に浮かんでくるのに、俺はそうやってしか自分の足跡・痕跡を確認出来ないというのに、何でだろう、分からない、何も、何一つ出てこない。

 半分になったベーコンエッグを放置して窓辺まで歩き、ウォークマン本体を操作する。試しに別のアーティストをと思ってヴェルヴェット・アンダーグラウンドのベスト盤を再生してみた。これも中学から高校にかけてよく聞いていたものだったが、俺の頭の中は真っ暗の空白のままだった。ルー・リードの声は聞き慣れていたけど、それだけだった。これを聞いていた頃の景色や感情、端的に言うところの思い出は、どういう訳か微塵も浮かばなかった。すがるような思いでウォークマンを全曲シャッフル再生にするが、どのアーティストのどの曲も、それらは単なる音にすぎなかった。激しい音、優しい音、ノイズのような音、美しい音、色んなシンガーの色んな歌声、それらは全て音以上のものではなくて、いつものように俺の中に眠っている俺を構成する過去の要素を呼んではくれなかった。

 確認出来ない。

 自分のことが。自分のことなのに。

 それに気付くと俺は震え上がりそうになったけど実際身体はぴくりとも動かなかった。目眩がする。ベッドに座り込んで頭を抱える。髪の毛が指に絡んだがそれは単なる違和感で、自分に触れている気がしなかった。

 空っぽだ。

 俺は空っぽになってしまった。
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