デラシネ議事録

秋坂ゆえ

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 自分の中に何も持たない俺は、もはや会社なんてどうでもよくなって、というか自分に手が届かないような状態で仕事なんて出来るかかなり怪しいし、とにかく今の俺には分からないことが多すぎて、いや、データとしては残ってるんだ。



 氏名 河村篤史

 生年月日 19○○年2日20日

 年齢 満二十九才

 現住所 東京都○○区○○○ 2-14 アールハイツ204

 職業 会社員(株式会社リスピー勤務)



 うん、分かる、出身地も家族構成も、親の誕生日だって覚えてる。でもなんでそういった情報がこんなにも他人事なんだろう、なんでまるで知らない奴の履歴書でも眺めているような気分になるなんだろう。もしかして俺はいよいよ、俺自身に見捨てられたかのような、そういう嫌な予感。

 外はこれでもかというほど晴れていて空には雲一つなかったが、風が冷たかったので俺はモッズコートではなく黒いダウンジャケットを着ていた。俺はパチンコ屋の前に突っ立っていた。背後からはジャカジャカというBGMやその他ノイズが聞こえていて、自動ドアが開く度にその音は塊となって俺の背中を叩き、ドアが閉まると中の他の人間に向けて鳴っているようだった。このパチンコ屋がチーターズという名前だったことを、俺は店先の看板を見て思い出した。建物は刺々しい赤に塗られていて、バルーンやのぼりが北風にはためいていた。目抜き通りを、俺から見て左から右に、多くの人間が、主にスーツを着た男女が、様々な種類の足音を響かせながら行進するみたいに歩いていた。出勤ラッシュ。こっこっこという革靴の音、かつんかつんというパンプスの音、しゅんしゅんというスニーカーの音、きんきんと耳障りなピンヒールの音、それら足音は異様と言って差し支えない音量で、全てが駅に向かいながら、冬の空の高いところまで届いていて、俺も普段はこの足音の一部なのかと思って、そうすると今自分がそれに参加していないことが妙な優越感を呼んだ。スマホは一応持っていたが、腕時計を忘れてきた。ほどなくすると出勤の行進は散り散りになって、親や保育士らに手を引かれた幼稚園児達が黄色い帽子をかぶって危うげに歩いて行き、制服の上にコートを着た中学生達が自転車で駅とは反対方向に走り、ズボンの裾を引きずった男子高校生らがだらだらと歩き始める頃には通りのほとんどの商店が店開きを始めていた。パチンコ屋の隣の果物屋の老いた店主がビニール製の屋根のようなものを店先にセットする、いつも名前を忘れるラーメン屋はまだ人気すらなくて、向かいの八百屋では若い男がレタス100円と書かれた段ボールを次々と重ねる、その隣の美容院の前ではこんな早朝から客引きの若い男がクーポン券を配り始める。右に視線を投げるとおばさま向けの洋服店のシャッターが開いて、白髪染めをしすぎて不自然な中年女性が真っ赤なコートを着たトルソーを運び出していて、その上の歯医者はまだ開いていなかったが、窓のブラインドは上がっていて時折歯科医か歯科衛生士と思われる人間が垣間見えて、左を見るとシャッターの前に老婆と呼ぶには少々若い女性が低い椅子に腰掛けて和菓子の類を台の上に並べていて、俺の馴染みの喫茶店はその隣だが、まだ開店準備も始まっていないようだった。そしてその間にも目抜き通りには人間が、生きている人間が様々な形で行き来していた。徒歩・自転車・原付・バイク・乗用車・軽トラ・ベビーカー、等々。

 俺はパチンコ屋の前から一歩も動かなかった。自動ドアの脇に小さな灰皿があったので、気が向いたらそこでタバコを吸うだけだった。

 太陽の位置が高くなった気がして、その頃には通りはすっかり商店街として機能し賑わっていた。様々な店の様々な店員が声を張り上げていた。風は徐々に強くなり、果物屋の店主は品物を透明のビニールシートで覆った。

 いい加減通りを眺めるのに飽きた俺は、例の喫茶店のドアが開きあのおばちゃんが『営業中』と書かれたプレートをドアにセットしたタイミングで歩き出した。何か暖かいものが飲みたかった。店に入る時、普段は目に入らない入り口のドアの脇に、『美味しい珈琲 すずらん』という立て看板があるのに気がついた。入店して窓際の席に、窓に背を向けて座って、カフェラテを頼んだ。おばちゃんははいはいと言ってカフェラテ入りますと復唱したが、それはどうしてか、あまり馴染みのある光景ではなかった。他に客は居なかった。灰皿を引き寄せ煙草を取り出す。店の内装は見慣れているはずなのに、久しぶりに来たかのようなよそよそしさがあった。木製の低いカウンターも、見た目は荒いがすべすべのテーブルも、壁に掛けてある写真も、奥で白いカップを取り出す店主も、トイレのドアも、年季の入った壁時計も。最後に来たのはいつだったか、一週間も経ってないはずだが、何も変わっていないはずのこの店、雰囲気が変わったとか空気が違うとか、俺にはそれすら分からなかった。過去に写真で見た店に初めて来ているような気がしていて、おばちゃんがカフェラテを持ってきてくれた時初めて、俺は煙草に火を付け忘れていたことに気がついた。ラテを口に含む。飲み込む。馴染みのある味、飲み慣れている味、だがそれもまた、自分の舌やのどの記憶ではないような違和感。しばらくカフェラテを飲んで身体を温め、煙草を吸い、それでも自分がどこかアウェイな場所に居るような心細さは消えなくて、俺はスマホを取り出して宏一にメールした。その頃になってようやくBGMが流れ始めた。
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