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少しの平穏。

この木なんの木。

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 体中の筋肉が、あたたかくなるような感覚だった。
 壊れていた細胞が、一気に戻っていっているような……。
 ずっとこうしていたい、そのくらい何かが満たされていた。


 どのくらい時間が経ったのだろう。


「陽介は、やっぱりそっちの木じゃったか(やっぱりそっちの木だったな)」
 じいちゃんの言葉に、俺は木に手を当てたまま振り返った。
 意味が分からなくて、キョトンとするしかない俺に、じいちゃんが隣の大きな木を指さしながら笑った。
「ノリは、こっちの木でいつも同じ事をしちょったよ。(同じ事をしていたよ)」
「えっ……」
「だから、陽介はこっちじゃとおもっちょった。(こっちだと思っていたよ)」
「な……んで……?」
 驚く俺に、じいちゃんは嬉しそうに笑う。
 そして、俺の隣に来て、一緒に木に手を触れた。


「この木はのう。ノリが、成人式で苗木を貰ってきて植えた木じゃ。だから、ノリの木なんじゃよ。(ノリの木なんだよ)それで、その隣は、ノリの父ちゃんの木。陽介、お前のひいじいさんの木なんじゃ。(木なんだよ)」
「……」
 俺は、二本の木を見上げた。
 木は風に揺れて、まるで会話をしているようにも感じる。そして、それはとても気持ちよくて、不思議な感覚で……。
 木に触れている自分の手を見る。
 何故か、俺を呼んだのはこの木だと、触れている時間が長くなるほどハッキリとした根拠のない確信があった。
 だけど……だけど……。


「でも、じいちゃん、俺……。何も覚えてないんだよ」
 じいちゃんは、今でもパックのいちごみるくを必ず二つ持ってきてくれる。
 そのいちごみるくが、とても大切なものだということは思い出したし、それを必ず二つくれていたのがじいちゃんだとも思い出した。
 それなのに、一番肝心なあの人のことを、俺は何一つ思い出せないのだ。


 じいちゃんは、そんな俺を見て、微笑んでいた。
「覚えてないんじゃなあよ。(覚えていないんじゃないよ)ただ、思い出さないように、ワザと心の中にしまっちょるだけじゃ(心の中にしまっているだけだよ)」
「……」
「じゃが、それを無理矢理思い出す必要もなあんで。(必要はないんだよ)必要になったら、必ず思い出す。人間とは、なかなかよくできたものじゃけえ(よくできたものだから)」
「……必要になったら……?」
 俺の言葉に、じいちゃんは微笑むと黙って頷いた。


 俺は、そのまま黙って、もう一度木を抱きしめた。



 俺とじいちゃんが家に戻ってきたのは、もう空が暗くなり始めた頃だった。
 丁度、久しぶりに父親が帰ってきたようで、車の中から降りてきているのが見えた。

「おう、信二さん、おかえり!」
「おかえり……」
 じいちゃんに続けて、俺はじいちゃんの少し後ろで言った。
 今の俺は、じいちゃんにしか懐いていない、子供のようだった。


 父親は、俺たち二人を見て、もの凄く驚いた顔をしている。
「陽介、お前……。外を歩いていたのか?」
 父親の言葉に、俺は黙って頷いた。

「そう、か」
 俺は、驚くものを見た。



 あの父親が、ほんの少しだけれど、微笑んでいたのだ。

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