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第三章 新しい家族
2 講堂で母さんと
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まだ九時を過ぎたところだというのに、開け放された二面の窓からなだれ込む蝉の声が部屋を満たしている。
「おーい桜木、聞こえてる?」
「え? あ、ごめん吉田」
「キッチンは片づいたぞ。あとはもういいか? それとこれ。三島の文庫本と時計、調味料と一緒に入ってた。あそこ時計ないから壁にかけてやろうと思ったけど、なんかこの時計、裏っかわ出っ張ってんだわ。ここ置くぞ」
「助かった。こっちも一段落かな。とりあえずお茶するか」
棚に入りきらなかった本の山を、壁によいしょと押しやって立ち上がる。
「なに、かけ声。おっさんかおまえ」
「おまえが不要な古本を持ってくるからだろ。ああ、蝉の声で耳痛い」
それにしても疲れた。お盆の前半を返上して進めるはずだったオフィスの引っ越しが予想以上に手こずって、なんとか後半はゆっくり休むべく寝ずの作業のあと早朝ここに戻ったら、すでに門の前に紙袋を下げた吉田が立っていた。
「まあいいじゃん。こんな素敵なところに住めて。かわいいサヤ・アッシェンバッハも、たまにきてくれるんだろ。もう夢のような暮らしだな」
螺旋階段を仲よく並んで降りながら吉田が言う。
「ここ、森っていうかでっかい庭に囲まれてるせいか、あんまり暑くないのな。うちなんかヨメがしきりにぼやくんだ。北国だって聞いてたのにパリより暑いって」
「そりゃまだ午前中だからでしょ。てか、朝からくればとは言ったけど、七時にくるかふつう」
「できるだけヨメが寝ている隙に済ませておきたかったんだよね。ルル、僕がいないと寂しがるから」
「ヨメさんの名前、ルルっていうんか?」
「じゃなくって、名前はヤスミンで、ルルってのは愛称な。ベイビーみたいな」
高校三年の春以降、受験勉強に邁進した吉田は、出来の悪いうちの学校では珍しく県立大学合格者となった。ところが高校卒業式の当日、同居していた父親の後妻と姿をくらましてしまった。なんと駆け落ちしたのだ。
そのときの経験を下敷きに書いた、年の差男女の抜き差しならないヒリつくような関係を綴った小説が、文芸誌の新人賞を受賞。その単行本はそこそこ売れて、二作目では早くも名門文学賞を受賞。その後、大学を中退し専業作家に。次々と出版された著書は、海外にも紹介されなぜかフランスでヒット。雑誌の取材で訪れたパリにて通訳の現地女性と懇意になって結婚。まあ、そんなとんとん拍子の羨ましい成功を手にして、今、僕の前でこじんまりとカフェオレを啜っている。去年こっちに家まで建てたというのに、来週にはフランス永住ということで、パリに発つのだそうだ。
「あの母ちゃん、元気してんのか?」
「父ちゃんと元サヤで実家にいるよ。結局のところ俺って喧嘩の道具っていうの、かませ犬的な。まあ、それがきっかけで作家になれて、こんなかわいいヨメがきてくれたわけだけど」
と、スマホを見せる。かませ犬か、久々に聞いた。
「俺のルル。斉藤んとこのミスなんとか県大会ファイナリストとくらべて、どうだ? まあ、見たとおり、おたくなもんで、日本にいるあいだに存分に東京を楽しませてやろうって思ってるんだけど」
派手な色のセーラー服を着てマシンガンを携えた金髪美少女の画像を掲げ、デレを隠さない吉田。
「斉藤、披露宴以来会ってないな。吉田おまえ最近会った?」
「先週、お別れの挨拶にいった。ヨメさんは相変わらずきれいだったけど、すでに貫禄が半端ない。彼女、斉藤と同じ大学で経営学を専攻してたらしくて、さっそく家業に参加して大なた振るってるって噂だよ」
「そういやサイトウのグルメハンバーグ小さくなったって、母さんぼやいてたな」
「まあ、みんないろいろだね。ところで誰だっけあいつ。あ、笹田クン、桜木、仲よかったんじゃなかった? なんか知ってる?」
「ああ、……これ。見てみ」
と、そばにあったタブレットを開いて見せる。
「え! これ笹田クンなん? 美少年じゃなくて、美女じゃん」
シアトルから送られてきたハルの写真を見て、吉田が仰天する。
「あと、これも……」
「おおっ? これもしかして奥さんと子供とか?」
「双子の女の子。サリーとエリー。今の笹田は女性として生活してて、なんと奥さんの唯さんは、母さんの高校時代の後輩なんだぜ」
「繋がってんだなぁ、世間って。女性としてって、子供産んだのは、奥さんで、笹田クンも奥さん? こんがらがるね」
「ははっ。まあそこはな。ツーマムズ。ふたりのマムで仲よくやってるらしいよ。今、笹田はシアトルで写真スタジオ開いてて、おまえ『ブドワール』って知ってる?」
「寝室? フランス語だね」
「アメリカじゃ結婚の時や記念日なんかに、女性がヌードみたいなキワキワな写真を撮ることがよくあって、そういうニーズの写真館のことをそう呼ぶんだと。笹田のスタジオは、そんなヌードを森の中で撮影するってところをウリにしてて、けっこう人気あるんだ。こんな感じでな」
そしてハルのスタジオのウエブページを見せる。
「すごいじゃん。ニンフじゃん。ラファエル前派の絵画でありそうな感じだよね」
ラファエルなんとかはよくわからないけれど、森の泉で沐浴している女性ヌードや巨大な倒木の上で妖精みたいにシースルーの女性が佇んでいる写真を観て、ひたすら感心する吉田。
「設営とか虫対策とか、けっこうノウハウ持ってるらしくって、そのことを武器に、奥さんの唯さんが、日本の出版社や芸能プロに営業して回ってるってさ」
「内助の功か。ルルもそんなことしてくんないかな。フランスのブームだっていつ終わっちゃうかわかんないからね。正直不安はあるよ」
吉田はコーヒーをテーブルに置き、体をそらせて、うしろのキャビネットに飾られてある母さんの曾祖父の写真を眺めた。
「なんだよ。きた時から、ずいぶん見てんな」
「ひいお祖父さんと並んだこの奥さん。凜としてて、内助の功で支えてますって感じだろ。にしても沙夜ちゃん、どっか違うなって思ってたけど、ドイツの血が混じってたとはな。しかもアッシェンバッハってな」
「貴族みたいな仰々しい名前だよな」
「おまえ読んでないの?『ヴェニスに死す』。主人公の名前さ。俺の作家原体験ってやつ。あっと、ヴィスコンティの映画の方が有名か。ファッション関係であれ観てないのはマズいって」
そう言ったあと、吉田はしばらく黙った。
庭の木立から聞こえる蝉の声が樫材のひんやりした床に染み渡る。こんなにも大きい家にきょうから僕はひとり。このだだっ広いリビングにテレビとデッキ一式持ち込んで、ひとり映画三昧ってのも悪くないな、なんて思う。
「あのな、桜木」
「なに?」
「俺、直接話すのは恥ずかしいんだけど、沙夜ちゃんに、礼が言いたい」
「母さんに? なんの?」
「沙夜ちゃん、学校にきたことあったじゃん。あの夜、桜木んちに招かれて。沙夜ちゃん、誰も見てないところで、俺の太ももをすっと撫でて、あなたには素質がきっとある。しっかり邁進なさい、って言ったんだ。どんな素質だよ?『なさい』がツボ、って咄嗟に思ったけど、なんかあん時、俺、スイッチ入っちゃって。それまでの不安もなにもかも吹っ飛んで、そこからは受験勉強もサクサク進むわ、新しい母ちゃんの誘惑にも余裕で乗れるわで。そのうちに、ああ、俺の道、見えたーって思った。今にして思えば、沙夜ちゃんが籠の扉を開けてくれたんだよね」
ああ、母さんここでもスイッチ入れてたんだな。というより、種まいてた。
「とにかく、感謝してるってそれだけ伝えて」そう言って、吉田は帰っていった。
直接会えば? それとも手紙でもしたためるか?って聞くと、いつもの吉田らしく、気弱に体をくねらせてそれを固辞した。そして僕は、そんな吉田が書いたとはとても思えない、彼の小説の中の淫靡な性描写の数々を、その時、思い出していた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
僕の帰郷に合わせて、母さんはこの古い家の二階部分を全面改装した。六つある部屋のうちの二部屋は今までどおり母さんの臨時の仕事部屋で、一部屋は新設のダイニングキッチン、あとの三部屋は自由に使っていいとのこと。年期が入り過ぎて開かないところもあった窓は、すべて新品の輸入物の上げ下げ窓に替えてくれたし、室内の壁もきれいにホワイトに塗装し直され、かび臭さもずいぶんとマシになった。庭にそびえる大きなケヤキの樹が目前に迫った景観から、見た目は瀟洒なリゾートホテルのようなことになっている。
とりあえず二面に窓があるサンルームつきの角部屋を自室に決めたが、昼間、蝉がこんなにうるさいなんて想定外だ。
少し眠るか、とベッドに倒れ込んだ。足になにか当たる。手に取ると時計だった。
あ、吉田が置いたやつ。
母さんが僕の新生活用にと、家から適当に見繕って食器や調味料を送ってくれていた、その中に入ってたのか。この時計ってあの壁の穴塞いでたやつだよな。
そういえば、リビングの仕切り解放しちゃったのよ、っておととい電話で言ってたな。それとこの本。出会った日に僕が母さんに貸した『午後の曳航』。もはや持ってたことすら忘れてた。
少年が偶然見つけた壁の穴から、母の自慰を目撃するところから始まる物語。
文庫本の冒頭を読み返して気がついた。母さん、あの穴のこと最初から知っていたんだろうな。その上で、僕が母さんにとっての理解者なのかどうかを探りつつ、不安の中で僕にサインを送り、そして必死の思いで自慰を見せつけた(たぶん)。
――初めて母さんとふたりで過ごした三週間の最後の日、親父が帰宅して、母さんが玄関に迎えに出た。リビングで待っていた僕は、ふたりがなかなか現れないのが待ちきれずそっと玄関の方を窺い見た。
しずかにふたりは抱き合っていた。母さんが親父にぶら下がるようにしがみついて、ずいぶんと長いあいだ。
『寂しかった。不安だった。怖かった』そんな母さんの胸の内を見せつけられたようで、胸がチクリと痛んだ。
そしてその時、ハルが言ってた『こちら側』って言葉を、僕は反芻していた。
自分でコントロールすることすら困難な、異常なほどの性欲に支配された者たち。一日何時間もそこに費やすことが日常になっている者たち。脳内マップに『性欲』って字が七割くらい占めている。……おっと、それは僕のことじゃん。当然ながら僕は『こちら側』、もちろん母さんだって。で、親父は?
――それからしばらく経ったある日のこと。美術予備校の臨時休校をうっかり忘れて出かけてしまった僕が家に戻ると、もうふたりは帰宅していた。
静まりかえった我が家。密やかに閉じられた親父の部屋のドア。思い切って、リビングの壁のこの時計を外して、僕は親父の部屋を覗いた。
「沙夜ちゃん、光と寝ただろ?」
「いいえ、そんなこと!」
「こんな風に、うしろから突かれたか?」
「そんなことしてません! 先生の意地悪ぅ」
「俺と光、どっちが硬い? ああっ?」
「はあっ。もちろん先生の方が」
「やっぱり寝てやがったか?」
「意地悪! 意地悪! センセのいじわるうっ! あああん」
なにがなんでも嘘をつき通せ、なんて言ってたくせに、冗談みたいに秘密ダダ漏れな母さん。出張先での暴飲暴食で一回り大きくなって帰還した親父の脂ぎった巨体の下につぶされて、脚を松葉のように開いてた母さん。革のマスクにピチピチの網タンクトップを身につけた親父に首枷の鎖を引かれ、牛交尾みたいにうしろから突かれ、うっとりした顔で親父を顧みていた母さん。
なにがEDだ! なにが秘密だ! ああ、ばからしい。
それに親父も間違いなく『こちら側』だし。顔に被ってるのが使用済みパンティじゃなくてひとまずよかったー、と僕的に安堵しつつ、あたたかい連帯感を抱いたあの日のことは、一生忘れはしない。
気づけば文庫本にメモが挟んである。
♡光くん。
本出てきた。読んでないけど返すね。
ちょっと懐かしかった♡
あとは、ミッション、
よろしくお願いします。
ひさしぶりのアオハルだと思って楽しんで!
沙夜♡
アオハルってなんだよ。しかもハートマークがみっつも。
読んでないって嘘ばっかり。文庫本にはあちこちに三角に折った痕があるんですけど。なに照れてんだろ。
シリアスにあれこれ考えて損した。ああ、母さんに逢いたい。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
あらかじめ整理券が配られ、開講までまだ時間があるにもかかわらず、大講堂のエントランスにはすでにおおぜいの女子たちが列をつくっていた。中には制服の女子高生もちらほらといる。
あれから結局、寝つけずにネットを見ていたら、夏のオープンキャンパスに合わせて母さんの大学で講演会が開かれるという情報を見つけ、とりあえずやってきた。
この大学を訪れるのは、母さんのフィールドワークを手伝った高校三年の冬以来だ。
入り口で、その時にもらったスタッフカードを試しに首に吊して警備員に挨拶したら、いともあっけなく入れてしまった。
講堂の中に入ると、舞台の上にはすでに白衣を着た母さんの姿があった。
そっと舞台袖から上がり、椅子に座ってパソコンの確認作業をしている母さんに、うしろから声をかけた。
「か、あ、さん!」
「やだぁ、光、びっくりしたぁ。きてくれたんだね。きょうは引っ越し手伝えなくてごめんねえ」
と、パソコンを覗き込む僕の頭を、くしゅくしゅと撫でた。
席に資料を並べ歩いているスタッフの女性がそれに気づき、半笑いで会釈をする。
こういうのにはもう慣れた。おそらく僕はマザコンの息子ということで、世間に通っている。むしろその方が好都合だ。
「大して荷物もなかったし、吉田が手伝ってくれたからね」
「吉田くんか、会いたかったな」
「母さんに感謝してたよ。俺の背中を押してくれたって。いや、籠の扉を開けてくれた、だったかな。それとこれ、サイン本」
ショルダーバッグから、吉田から預かった新刊を取り出して母さんに渡す。
「こんどのもすごく、いやらしい。子宮にくるよ、きっと」
「あなたに子宮、ついてないでしょ」
「母さんの子宮にはしょっちゅう密着してるから、だいたいわかるさ」
そう言ってスタッフに気づかれないようにうしろから、三つ目のボタンまで開かれたシャツの中に手を差し入れて乳首をまさぐる。
それに合わせるように、白衣の肘で僕の股間を突っつく母さん。
そのうちに、作業を終えたのか、スタッフの女性が出ていって、広い講堂にふたりきりになった。
当然の成りゆきで交わすキス。
講堂内には、場を盛りあげるためのクラシック音楽が流れている。
軽くのつもりが、母さんはねっとり舌を絡めてくる。
そこで、ガタンと大きな音が響いて大扉が開いた。かすかに蝉の声の混じった生あたたかい外気が侵入してくる。
「ちっ!」と舌打ちする母さんに僕は言った。
「さあ、お客さんのお出ましだ!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
講堂は最上部の席近くまで、ほぼ満員になった。見渡せば女性が多い。ラギサヤ目当てにやってきたであろう男たちが、女子たちの熱気に圧倒されてあちこちで身を固くしてるのがわかる。
僕は講堂の一番うしろに立ち、眼下の母さんを見守るように眺めていた。
母さんはスライドを中心に文化人類学の面白さをアピールしながら、時々席を立って、ひとり芝居の女優のように、舞台の上を歩き、語る。そのたびに、前の席に陣取った女子高生たちがいっせいにスマホをかざす。
やっぱり母さんこの仕事が好きなんだな、と、そんなことを思っていたら、
「いーけないんだ」
耳元で聞き覚えのある声がした。懐かしい声。
声と同時に差し出された目の前のスマホ画面には、壇上でキスを交わす母さんと僕の姿。僕が母さんの巨乳をシャツの上からまさぐっているところまで鮮明に写っている。
振り向くと綾がいた。
「これと合わせて、週間なんちゃらに売っちゃおっかなぁ。けっこういいお金になるらしいし」
と、肉厚の唇の端を歪ませてもうひとつの画像を見せる。
あの生番組のあとのスイートルームで、僕が撮って、母さんがSNSに上げた写真だった。
「こうやって拡大すると、ほら、瞳の中に注目あれ! この裸の男、あんたよね」
画面を手で操作しながら、眼鏡の奥の昔と変わらない涼しげな瞳が、動揺を隠せない僕の様子をちらりと窺う。
「ラギサヤもあんたも、詰めが甘いんだよなあ。さあて、どうしよ?」
「……つまんないこと、すんなよ」
僕はつとめて冷静に言った。
「全然つまらなくないわ。ラギサヤがここで失脚すれば、貴重な講師の席があたしに巡ってくるかもしれない」
「ラギサヤって? 沙夜ねえ、じゃなかったの?」
「あたしの知ってる沙夜ねえは、とっくにどっかに消えちゃった。雑誌でヌードまがいの写真撮らせたり、バラエティーでばかみたいに芸人のギャグに笑って見せたり。見苦しいったらない。あんた、大学ん中でラギサヤがどんな風に影で笑われてるのか知ってる? ラギサヤも桜木教授も、ただでさえ企業に迎合してるって、疎まれてるというのに」
そして綾は柵に手をついて、講堂を見渡した。
「ここがこんなに埋まったのあたし初めて見た。あの一番前に陣取ってるセーラー服の子たちが、ラギサヤ親衛隊。しょっちゅう連れだって大学にきてる。最近は研究室にも現れるし。来年はきっとみんなしてご入学よ。……さあて、あの中の何人が、ラギサヤに食われちゃうのかな。ははっ」
こじれて歪んだ笑い顔。
「ゆっくりどこかで話さないか?」
「なあに? 今更口説いてもダメだからね。あたしヒトヅマ、なんだから」
と、たくさんの小粒ダイヤが埋め込まれた結婚指輪をひけらかす。
めんどくさいやつ。
「おーい桜木、聞こえてる?」
「え? あ、ごめん吉田」
「キッチンは片づいたぞ。あとはもういいか? それとこれ。三島の文庫本と時計、調味料と一緒に入ってた。あそこ時計ないから壁にかけてやろうと思ったけど、なんかこの時計、裏っかわ出っ張ってんだわ。ここ置くぞ」
「助かった。こっちも一段落かな。とりあえずお茶するか」
棚に入りきらなかった本の山を、壁によいしょと押しやって立ち上がる。
「なに、かけ声。おっさんかおまえ」
「おまえが不要な古本を持ってくるからだろ。ああ、蝉の声で耳痛い」
それにしても疲れた。お盆の前半を返上して進めるはずだったオフィスの引っ越しが予想以上に手こずって、なんとか後半はゆっくり休むべく寝ずの作業のあと早朝ここに戻ったら、すでに門の前に紙袋を下げた吉田が立っていた。
「まあいいじゃん。こんな素敵なところに住めて。かわいいサヤ・アッシェンバッハも、たまにきてくれるんだろ。もう夢のような暮らしだな」
螺旋階段を仲よく並んで降りながら吉田が言う。
「ここ、森っていうかでっかい庭に囲まれてるせいか、あんまり暑くないのな。うちなんかヨメがしきりにぼやくんだ。北国だって聞いてたのにパリより暑いって」
「そりゃまだ午前中だからでしょ。てか、朝からくればとは言ったけど、七時にくるかふつう」
「できるだけヨメが寝ている隙に済ませておきたかったんだよね。ルル、僕がいないと寂しがるから」
「ヨメさんの名前、ルルっていうんか?」
「じゃなくって、名前はヤスミンで、ルルってのは愛称な。ベイビーみたいな」
高校三年の春以降、受験勉強に邁進した吉田は、出来の悪いうちの学校では珍しく県立大学合格者となった。ところが高校卒業式の当日、同居していた父親の後妻と姿をくらましてしまった。なんと駆け落ちしたのだ。
そのときの経験を下敷きに書いた、年の差男女の抜き差しならないヒリつくような関係を綴った小説が、文芸誌の新人賞を受賞。その単行本はそこそこ売れて、二作目では早くも名門文学賞を受賞。その後、大学を中退し専業作家に。次々と出版された著書は、海外にも紹介されなぜかフランスでヒット。雑誌の取材で訪れたパリにて通訳の現地女性と懇意になって結婚。まあ、そんなとんとん拍子の羨ましい成功を手にして、今、僕の前でこじんまりとカフェオレを啜っている。去年こっちに家まで建てたというのに、来週にはフランス永住ということで、パリに発つのだそうだ。
「あの母ちゃん、元気してんのか?」
「父ちゃんと元サヤで実家にいるよ。結局のところ俺って喧嘩の道具っていうの、かませ犬的な。まあ、それがきっかけで作家になれて、こんなかわいいヨメがきてくれたわけだけど」
と、スマホを見せる。かませ犬か、久々に聞いた。
「俺のルル。斉藤んとこのミスなんとか県大会ファイナリストとくらべて、どうだ? まあ、見たとおり、おたくなもんで、日本にいるあいだに存分に東京を楽しませてやろうって思ってるんだけど」
派手な色のセーラー服を着てマシンガンを携えた金髪美少女の画像を掲げ、デレを隠さない吉田。
「斉藤、披露宴以来会ってないな。吉田おまえ最近会った?」
「先週、お別れの挨拶にいった。ヨメさんは相変わらずきれいだったけど、すでに貫禄が半端ない。彼女、斉藤と同じ大学で経営学を専攻してたらしくて、さっそく家業に参加して大なた振るってるって噂だよ」
「そういやサイトウのグルメハンバーグ小さくなったって、母さんぼやいてたな」
「まあ、みんないろいろだね。ところで誰だっけあいつ。あ、笹田クン、桜木、仲よかったんじゃなかった? なんか知ってる?」
「ああ、……これ。見てみ」
と、そばにあったタブレットを開いて見せる。
「え! これ笹田クンなん? 美少年じゃなくて、美女じゃん」
シアトルから送られてきたハルの写真を見て、吉田が仰天する。
「あと、これも……」
「おおっ? これもしかして奥さんと子供とか?」
「双子の女の子。サリーとエリー。今の笹田は女性として生活してて、なんと奥さんの唯さんは、母さんの高校時代の後輩なんだぜ」
「繋がってんだなぁ、世間って。女性としてって、子供産んだのは、奥さんで、笹田クンも奥さん? こんがらがるね」
「ははっ。まあそこはな。ツーマムズ。ふたりのマムで仲よくやってるらしいよ。今、笹田はシアトルで写真スタジオ開いてて、おまえ『ブドワール』って知ってる?」
「寝室? フランス語だね」
「アメリカじゃ結婚の時や記念日なんかに、女性がヌードみたいなキワキワな写真を撮ることがよくあって、そういうニーズの写真館のことをそう呼ぶんだと。笹田のスタジオは、そんなヌードを森の中で撮影するってところをウリにしてて、けっこう人気あるんだ。こんな感じでな」
そしてハルのスタジオのウエブページを見せる。
「すごいじゃん。ニンフじゃん。ラファエル前派の絵画でありそうな感じだよね」
ラファエルなんとかはよくわからないけれど、森の泉で沐浴している女性ヌードや巨大な倒木の上で妖精みたいにシースルーの女性が佇んでいる写真を観て、ひたすら感心する吉田。
「設営とか虫対策とか、けっこうノウハウ持ってるらしくって、そのことを武器に、奥さんの唯さんが、日本の出版社や芸能プロに営業して回ってるってさ」
「内助の功か。ルルもそんなことしてくんないかな。フランスのブームだっていつ終わっちゃうかわかんないからね。正直不安はあるよ」
吉田はコーヒーをテーブルに置き、体をそらせて、うしろのキャビネットに飾られてある母さんの曾祖父の写真を眺めた。
「なんだよ。きた時から、ずいぶん見てんな」
「ひいお祖父さんと並んだこの奥さん。凜としてて、内助の功で支えてますって感じだろ。にしても沙夜ちゃん、どっか違うなって思ってたけど、ドイツの血が混じってたとはな。しかもアッシェンバッハってな」
「貴族みたいな仰々しい名前だよな」
「おまえ読んでないの?『ヴェニスに死す』。主人公の名前さ。俺の作家原体験ってやつ。あっと、ヴィスコンティの映画の方が有名か。ファッション関係であれ観てないのはマズいって」
そう言ったあと、吉田はしばらく黙った。
庭の木立から聞こえる蝉の声が樫材のひんやりした床に染み渡る。こんなにも大きい家にきょうから僕はひとり。このだだっ広いリビングにテレビとデッキ一式持ち込んで、ひとり映画三昧ってのも悪くないな、なんて思う。
「あのな、桜木」
「なに?」
「俺、直接話すのは恥ずかしいんだけど、沙夜ちゃんに、礼が言いたい」
「母さんに? なんの?」
「沙夜ちゃん、学校にきたことあったじゃん。あの夜、桜木んちに招かれて。沙夜ちゃん、誰も見てないところで、俺の太ももをすっと撫でて、あなたには素質がきっとある。しっかり邁進なさい、って言ったんだ。どんな素質だよ?『なさい』がツボ、って咄嗟に思ったけど、なんかあん時、俺、スイッチ入っちゃって。それまでの不安もなにもかも吹っ飛んで、そこからは受験勉強もサクサク進むわ、新しい母ちゃんの誘惑にも余裕で乗れるわで。そのうちに、ああ、俺の道、見えたーって思った。今にして思えば、沙夜ちゃんが籠の扉を開けてくれたんだよね」
ああ、母さんここでもスイッチ入れてたんだな。というより、種まいてた。
「とにかく、感謝してるってそれだけ伝えて」そう言って、吉田は帰っていった。
直接会えば? それとも手紙でもしたためるか?って聞くと、いつもの吉田らしく、気弱に体をくねらせてそれを固辞した。そして僕は、そんな吉田が書いたとはとても思えない、彼の小説の中の淫靡な性描写の数々を、その時、思い出していた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
僕の帰郷に合わせて、母さんはこの古い家の二階部分を全面改装した。六つある部屋のうちの二部屋は今までどおり母さんの臨時の仕事部屋で、一部屋は新設のダイニングキッチン、あとの三部屋は自由に使っていいとのこと。年期が入り過ぎて開かないところもあった窓は、すべて新品の輸入物の上げ下げ窓に替えてくれたし、室内の壁もきれいにホワイトに塗装し直され、かび臭さもずいぶんとマシになった。庭にそびえる大きなケヤキの樹が目前に迫った景観から、見た目は瀟洒なリゾートホテルのようなことになっている。
とりあえず二面に窓があるサンルームつきの角部屋を自室に決めたが、昼間、蝉がこんなにうるさいなんて想定外だ。
少し眠るか、とベッドに倒れ込んだ。足になにか当たる。手に取ると時計だった。
あ、吉田が置いたやつ。
母さんが僕の新生活用にと、家から適当に見繕って食器や調味料を送ってくれていた、その中に入ってたのか。この時計ってあの壁の穴塞いでたやつだよな。
そういえば、リビングの仕切り解放しちゃったのよ、っておととい電話で言ってたな。それとこの本。出会った日に僕が母さんに貸した『午後の曳航』。もはや持ってたことすら忘れてた。
少年が偶然見つけた壁の穴から、母の自慰を目撃するところから始まる物語。
文庫本の冒頭を読み返して気がついた。母さん、あの穴のこと最初から知っていたんだろうな。その上で、僕が母さんにとっての理解者なのかどうかを探りつつ、不安の中で僕にサインを送り、そして必死の思いで自慰を見せつけた(たぶん)。
――初めて母さんとふたりで過ごした三週間の最後の日、親父が帰宅して、母さんが玄関に迎えに出た。リビングで待っていた僕は、ふたりがなかなか現れないのが待ちきれずそっと玄関の方を窺い見た。
しずかにふたりは抱き合っていた。母さんが親父にぶら下がるようにしがみついて、ずいぶんと長いあいだ。
『寂しかった。不安だった。怖かった』そんな母さんの胸の内を見せつけられたようで、胸がチクリと痛んだ。
そしてその時、ハルが言ってた『こちら側』って言葉を、僕は反芻していた。
自分でコントロールすることすら困難な、異常なほどの性欲に支配された者たち。一日何時間もそこに費やすことが日常になっている者たち。脳内マップに『性欲』って字が七割くらい占めている。……おっと、それは僕のことじゃん。当然ながら僕は『こちら側』、もちろん母さんだって。で、親父は?
――それからしばらく経ったある日のこと。美術予備校の臨時休校をうっかり忘れて出かけてしまった僕が家に戻ると、もうふたりは帰宅していた。
静まりかえった我が家。密やかに閉じられた親父の部屋のドア。思い切って、リビングの壁のこの時計を外して、僕は親父の部屋を覗いた。
「沙夜ちゃん、光と寝ただろ?」
「いいえ、そんなこと!」
「こんな風に、うしろから突かれたか?」
「そんなことしてません! 先生の意地悪ぅ」
「俺と光、どっちが硬い? ああっ?」
「はあっ。もちろん先生の方が」
「やっぱり寝てやがったか?」
「意地悪! 意地悪! センセのいじわるうっ! あああん」
なにがなんでも嘘をつき通せ、なんて言ってたくせに、冗談みたいに秘密ダダ漏れな母さん。出張先での暴飲暴食で一回り大きくなって帰還した親父の脂ぎった巨体の下につぶされて、脚を松葉のように開いてた母さん。革のマスクにピチピチの網タンクトップを身につけた親父に首枷の鎖を引かれ、牛交尾みたいにうしろから突かれ、うっとりした顔で親父を顧みていた母さん。
なにがEDだ! なにが秘密だ! ああ、ばからしい。
それに親父も間違いなく『こちら側』だし。顔に被ってるのが使用済みパンティじゃなくてひとまずよかったー、と僕的に安堵しつつ、あたたかい連帯感を抱いたあの日のことは、一生忘れはしない。
気づけば文庫本にメモが挟んである。
♡光くん。
本出てきた。読んでないけど返すね。
ちょっと懐かしかった♡
あとは、ミッション、
よろしくお願いします。
ひさしぶりのアオハルだと思って楽しんで!
沙夜♡
アオハルってなんだよ。しかもハートマークがみっつも。
読んでないって嘘ばっかり。文庫本にはあちこちに三角に折った痕があるんですけど。なに照れてんだろ。
シリアスにあれこれ考えて損した。ああ、母さんに逢いたい。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
あらかじめ整理券が配られ、開講までまだ時間があるにもかかわらず、大講堂のエントランスにはすでにおおぜいの女子たちが列をつくっていた。中には制服の女子高生もちらほらといる。
あれから結局、寝つけずにネットを見ていたら、夏のオープンキャンパスに合わせて母さんの大学で講演会が開かれるという情報を見つけ、とりあえずやってきた。
この大学を訪れるのは、母さんのフィールドワークを手伝った高校三年の冬以来だ。
入り口で、その時にもらったスタッフカードを試しに首に吊して警備員に挨拶したら、いともあっけなく入れてしまった。
講堂の中に入ると、舞台の上にはすでに白衣を着た母さんの姿があった。
そっと舞台袖から上がり、椅子に座ってパソコンの確認作業をしている母さんに、うしろから声をかけた。
「か、あ、さん!」
「やだぁ、光、びっくりしたぁ。きてくれたんだね。きょうは引っ越し手伝えなくてごめんねえ」
と、パソコンを覗き込む僕の頭を、くしゅくしゅと撫でた。
席に資料を並べ歩いているスタッフの女性がそれに気づき、半笑いで会釈をする。
こういうのにはもう慣れた。おそらく僕はマザコンの息子ということで、世間に通っている。むしろその方が好都合だ。
「大して荷物もなかったし、吉田が手伝ってくれたからね」
「吉田くんか、会いたかったな」
「母さんに感謝してたよ。俺の背中を押してくれたって。いや、籠の扉を開けてくれた、だったかな。それとこれ、サイン本」
ショルダーバッグから、吉田から預かった新刊を取り出して母さんに渡す。
「こんどのもすごく、いやらしい。子宮にくるよ、きっと」
「あなたに子宮、ついてないでしょ」
「母さんの子宮にはしょっちゅう密着してるから、だいたいわかるさ」
そう言ってスタッフに気づかれないようにうしろから、三つ目のボタンまで開かれたシャツの中に手を差し入れて乳首をまさぐる。
それに合わせるように、白衣の肘で僕の股間を突っつく母さん。
そのうちに、作業を終えたのか、スタッフの女性が出ていって、広い講堂にふたりきりになった。
当然の成りゆきで交わすキス。
講堂内には、場を盛りあげるためのクラシック音楽が流れている。
軽くのつもりが、母さんはねっとり舌を絡めてくる。
そこで、ガタンと大きな音が響いて大扉が開いた。かすかに蝉の声の混じった生あたたかい外気が侵入してくる。
「ちっ!」と舌打ちする母さんに僕は言った。
「さあ、お客さんのお出ましだ!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
講堂は最上部の席近くまで、ほぼ満員になった。見渡せば女性が多い。ラギサヤ目当てにやってきたであろう男たちが、女子たちの熱気に圧倒されてあちこちで身を固くしてるのがわかる。
僕は講堂の一番うしろに立ち、眼下の母さんを見守るように眺めていた。
母さんはスライドを中心に文化人類学の面白さをアピールしながら、時々席を立って、ひとり芝居の女優のように、舞台の上を歩き、語る。そのたびに、前の席に陣取った女子高生たちがいっせいにスマホをかざす。
やっぱり母さんこの仕事が好きなんだな、と、そんなことを思っていたら、
「いーけないんだ」
耳元で聞き覚えのある声がした。懐かしい声。
声と同時に差し出された目の前のスマホ画面には、壇上でキスを交わす母さんと僕の姿。僕が母さんの巨乳をシャツの上からまさぐっているところまで鮮明に写っている。
振り向くと綾がいた。
「これと合わせて、週間なんちゃらに売っちゃおっかなぁ。けっこういいお金になるらしいし」
と、肉厚の唇の端を歪ませてもうひとつの画像を見せる。
あの生番組のあとのスイートルームで、僕が撮って、母さんがSNSに上げた写真だった。
「こうやって拡大すると、ほら、瞳の中に注目あれ! この裸の男、あんたよね」
画面を手で操作しながら、眼鏡の奥の昔と変わらない涼しげな瞳が、動揺を隠せない僕の様子をちらりと窺う。
「ラギサヤもあんたも、詰めが甘いんだよなあ。さあて、どうしよ?」
「……つまんないこと、すんなよ」
僕はつとめて冷静に言った。
「全然つまらなくないわ。ラギサヤがここで失脚すれば、貴重な講師の席があたしに巡ってくるかもしれない」
「ラギサヤって? 沙夜ねえ、じゃなかったの?」
「あたしの知ってる沙夜ねえは、とっくにどっかに消えちゃった。雑誌でヌードまがいの写真撮らせたり、バラエティーでばかみたいに芸人のギャグに笑って見せたり。見苦しいったらない。あんた、大学ん中でラギサヤがどんな風に影で笑われてるのか知ってる? ラギサヤも桜木教授も、ただでさえ企業に迎合してるって、疎まれてるというのに」
そして綾は柵に手をついて、講堂を見渡した。
「ここがこんなに埋まったのあたし初めて見た。あの一番前に陣取ってるセーラー服の子たちが、ラギサヤ親衛隊。しょっちゅう連れだって大学にきてる。最近は研究室にも現れるし。来年はきっとみんなしてご入学よ。……さあて、あの中の何人が、ラギサヤに食われちゃうのかな。ははっ」
こじれて歪んだ笑い顔。
「ゆっくりどこかで話さないか?」
「なあに? 今更口説いてもダメだからね。あたしヒトヅマ、なんだから」
と、たくさんの小粒ダイヤが埋め込まれた結婚指輪をひけらかす。
めんどくさいやつ。
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