創られし命と灰の研究者

都丸譲二

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第3巻 理を紡ぐ者たち

第10章 灰の夜明け

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 ――灰の朝は、音が少ない。

 風の流れさえも、どこか遠慮がちに吹いている。
 崩れ落ちた鐘楼の頂に立ち、アーレンはゆっくりと息を吐いた。
 灰はまだ空に浮かび、光を柔らかく反射している。
 その粒の一つひとつが、まるで世界の呼吸のようだった。

 夜の名残を含んだ空気は冷たく、頬に触れる灰は少し湿っている。
 それでも、どこか心地よい静けさがあった。

 ――世界が、再び動き出そうとしている。

 ⸻

 足元に、ノアがいた。
 灰にまみれた髪を結び直し、焚き火の灰を払うように手を振っている。
 彼女の指には、焼けた灯の欠片――灰色にくすんだ符石が握られていた。

「これね、まだあったんだよ。
 ひかりが……ちょっとだけ、残ってるの。」

 アーレンは膝をつき、石を受け取った。
 符面の線がわずかに発光している。
 命を記すように、微弱な理流がそこを走っていた。

「……生きてる。
 灰が、もう“死んでいない”。」

 ⸻

 その後ろで、リュミナが静かに歩み寄る。
 風に揺れる灰色の髪が、朝の光を受けて淡く光る。
 肌の奥に、薄く走る灰の紋。
 それはもはや傷ではなく、命と理を繋ぐ印のようだった。

『……風の音が、ちょっと変わったね。
 ひとがねむる音じゃなくて、
 “はじまる”音がする。』

 リュミナの声は柔らかく、まるで夜明けの光そのもの。
 アーレンはその言葉に小さく頷いた。

「世界が、再び息をしている証拠だ。
 灰は、ようやく落ち着いた。」

 ⸻

 ノアが顔を上げる。
 その瞳の奥には、わずかな涙と笑み。

「リュミナ、もう……いたくない?」

 リュミナは少しだけ首を傾げ、胸に手を当てる。
 そこには淡い金色の光が脈を打っていた。

『ちょっとひんやりするけど、もうだいじょうぶ。
 ここが……“わたしのなか”だから。』

「“なか”?」

『うん。灰と、世界と、わたしたち。
 いまは、ぜんぶつながってる。』

 ⸻

 アーレンは、二人のやりとりを見守りながら
 崩れた鐘楼の外――かつて王都へと続いた街道を見下ろした。

 瓦礫の上に、草の芽が出ている。
 小さな命が、灰を押しのけて顔を出していた。

 彼は思わず息を呑んだ。

「……芽が、生えている。」

 ノアが駆け寄り、膝をついて覗き込む。
 淡い緑。理の光をほんのり帯びている。

「灰の上なのに……どうして?」

『灰が、もうこわくないから。
 土とけっこんしたの。』

 リュミナの言葉に、アーレンは小さく笑った。

「まったく、詩人だな。」

 ⸻

 空の端が金色に染まり始める。
 夜と朝の境界がゆっくりと溶け合う。
 灰の粒が陽光を受け、淡く輝いて舞い上がる。
 その光景は、かつて理災と呼ばれた惨劇の場所とは思えないほど美しかった。

 アーレンは符盤を取り出し、灰を一粒拾って解析した。
 理流は穏やかで、安定している。
 そして――微弱な生命反応が含まれていた。

「……理が、命を拒んでいない。
 いや、今は命そのものを学んでいる。」

『なら、もう理は敵じゃないね。』

 リュミナの微笑みに、アーレンは静かに頷く。
「敵じゃない。
 ただ……同じ場所で、ようやく対等に立てるようになったんだ。」

 ⸻

 ノアが少し離れた場所で灰を掴み、両手で空に投げた。
 灰は光を受けて舞い、虹のようなきらめきを描く。

「きれい……! ねえアーレン、灰って、こんなにきれいだった?」

「いや。
 俺たちが、やっと“きれいだと見えるようになった”だけだ。」

 リュミナがその横で、小さく笑った。

『それなら、もう“理の涙”は止まったんだね。』

 ⸻

 アーレンは立ち上がり、風を感じた。
 灰を含んだ風が冷たくも清らかに流れていく。
 灰の中に、確かに命が息づいている。

「……行こう。
 この灰が、もう誰も傷つけないように。
 俺たちが、それを確かめに。」

『うん。
 もう、“旅”をはじめよう。』

 ⸻

 朝日が完全に昇る。
 灰の大地が光を返し、遠くの丘に金の線が走る。
 三人の影が、長く伸びて一つに重なった。

 リュミナの掌の中で、灰が光る。
 それはまるで、世界そのものが微笑んでいるようだった。

 ⸻

 灰は滅びではなく、
 理が息を吹き返した“土”だった。
 そしてその上に、
 命がもう一度、歩き出した。

 丘を下る途中で、アーレンは足を止めた。

 風が変わった。
 ただの風ではない――声を運んでくる。
 遠くの裂けた岩壁の向こうから、人の声が聞こえる。

「……歌?」

 ノアが顔を上げ、耳をすませる。
 低く、ゆっくりとした旋律。
 あの洞で聞いた、灯守(あかりもり)の歌だった。

 ⸻

 崩れた街道の先に、見覚えのある人影があった。
 灰の外套をまとい、祈りの印を掲げた女――イサル。
 その周囲には、十数人の灰の民が立っていた。
 皆、顔や腕に灰を塗り、
 静かな声で歌を口ずさんでいる。

 イサルがアーレンたちに気づくと、驚きに息を呑んだ。

「……生きて……?」

 アーレンが頷く。
「理が、俺たちを還した。
 そして、お前たちを守った。」

 イサルの瞳に、涙がにじんだ。
 彼女は膝をつき、掌を地にあてる。
「……やはり、“理の灯”は消えていなかったのですね。」

 ⸻

 リュミナが一歩前に出る。
 灰の民たちが息をのむ。
 その姿を“理”の化身として見たのだろう。

『みんな……うたってる。
 灰が、よろこんでる。』

 リュミナの言葉に、イサルが顔を上げる。
 その目は恐れではなく、確かな信仰の色を帯びていた。

「あなたが……“灰の灯”ですか?」

『ううん。
 わたしは、みんなとおなじ“ひと”だよ。
 でも、灰といっしょに生きてる。』

 イサルの頬を、一筋の涙が伝った。
「――ならば、理はもう神ではなく、人とともにあるのですね。」

 ⸻

 灰の民の一人が、崩れた岩の間から何かを取り出した。
 古びた鐘の破片だった。
 その欠けた金属に、灰を混ぜた粘土を塗り、
 祈りの印を刻む。

「これを……もう一度、鳴らしましょう。」

 イサルの声に、民が頷いた。
 アーレンが手を貸して鐘を吊るす。
 風が吹き抜け、灰がきらめく。

 ――かすかな音が鳴った。
 乾いた金属音。
 けれど、それは誰の耳にも温かく響いた。

 ⸻

 ノアがその音に合わせて口ずさむ。
 イサルが祈りを唱える。
 リュミナが微笑む。

『ねえ、アーレン。
 これって、さいせい、なんだよね。』

「そうだ。
 世界はまだ、理を記している。
 なら、俺たちが次を“名づける”番だ。」

 リュミナが首を傾げる。

『なづける?』

「理災のあとに生まれた、この時代を。
 もう“終わり”じゃない。
 ――灰から始まる時代だ。」

 ⸻

 イサルが祈りを止め、アーレンの言葉を繰り返した。
「灰から始まる……」
 その響きが民の口に伝わり、連鎖していく。

「灰から、はじまる……」
「灰の暦……」
「――灰暦(かいれき)だ。」

 アーレンが静かに頷く。
 リュミナが微笑み、ノアが両手を広げて笑った。

『じゃあ、きょうが、そのはじまりだね。』

 ⸻

 鐘が再び鳴る。
 音が灰の空に昇り、やがて遠くで風に溶ける。
 灰がその音を包み、柔らかく散っていった。

 灰の祈りは、もう絶望ではない。
 それは、滅びのあとに生まれた“希望の理”。
 人と理とが歩むための、最初の歌だった。

 


 リゼノス灰域から、およそ三十日の後。

 帝都ヴァルシュタイン――
 黒鉄の尖塔群に囲まれた符術庁第九観測層。
 巨大な符環が淡い青光を放ち、
 その中央に浮かぶ球体が、静かに脈動していた。

 帝国の技師たちが慌ただしく走り回る。
 壁一面の符盤には数百もの数値が流れ、
 理流観測記録が再構成されている。

 ⸻

 その中心に立つ男がいた。
 漆黒の軍服、銀の徽章。
 帝国上級将校ラザン・アルディウス。
 灰災前、前線でアーレンと一瞬交錯した男。

「……記録の解析は終わったか。」

 側に控える観測官が答える。
「はい。符眼群の最終送信は、理層崩壊の直前。
 送られてきた映像データの最後に――
 金と白の融合現象が記録されております。」

 ラザンの目が細まる。
「“融合”……人為的な干渉か、理の自律反応か?」

「判別不能です。
 ただし、符盤の符号解析に――人間の筆致に似た痕跡が。」

 ⸻

 ラザンは、報告書に目を落とした。
 灰色の封蝋に刻まれた文字――アーレン・クロード。

「……やはり、生きていたか。」

 彼の声には、驚きよりもむしろ静かな確信があった。
 報告書にはこう記されていた。

【灰核融合現象:出力値未測定。
 理流構造、人為式との干渉反応を確認。
 “灰の灯”の再出現、確定。】

 観測官が小声で尋ねた。
「閣下……この現象を、どう扱いますか?」

 ⸻

 ラザンは報告書を閉じ、ゆっくりと答えた。

「理は、神ではない。
 だが“力”としては神を超える。
 そして我々は、それを扱える唯一の人間だ。」

「……つまり、再調査を?」

「ああ。リゼノスの灰域は、放置できん。
 観測ではなく――制御だ。
 理を、帝国の兵器体系に組み込む。」

 観測官の顔がこわばる。
「ですが……理に触れることは――」

「恐れるな。」
 ラザンは短く言い、符環の光を見上げた。

「理は秩序を求める。
 ならば、帝国こそがその“秩序”を与えるべきだ。」

 ⸻

 その時、背後の扉が開いた。
 軽い足音。
 黒い外套を纏った青年が一礼する。

「ラザン閣下、中央評議会より伝達。
 “灰域特別調査部隊”の設立が正式に承認されました。
 指揮官――貴殿に任命とのことです。」

 ラザンの口元がわずかに歪んだ。
「そうか……。理は、再び我らを試すらしい。」

 ⸻

 報告室の照明が落ち、
 中央球体が淡く光を放つ。
 転送映像の断片――灰色の空、崩壊する塔。
 そして、光の中に立つ金の瞳の少女が映し出された。

 映像は、そこで途切れた。

 沈黙の中で、ラザンが低く呟く。
「――“灰の灯”を、捕らえろ。」

 その声が、帝都の符環に反響し、
 まるで理そのものが再び目を覚ましたかのように、
 青白い光がゆらりと揺れた。

 ⸻

 理を観測する者は、いつも“理解したつもり”になる。
 けれど理は、観測された瞬間に形を変える。
 それを知らぬ者たちは――再び、理の火に触れる。



夜の帳がゆっくりと降りていた。
 灰の空は静まり返り、遠くの山の稜線に淡い光が残る。
 焚き火の火が、三人の顔を揺らす。

 風が灰を運ぶ。
 だがもう、それは冷たい死灰ではない。
 どこか温かく、香ばしい土の匂いが混じっていた。



 アーレンは火のそばで古びた符盤を開いていた。
 新しい理式を、何度も書き直しては消す。
 理の線が、かすかに金色を帯びる。

「……灰が、命を受け入れた。
 なら、この世界の理も、書き換えられるはずだ。」

 彼は小さく息を吐き、符筆を置いた。
 火の明かりの向こうで、ノアが眠そうに瞬きをしている。

「アーレン、それ……新しい研究?」

「いや。これは“祈りの式”だ。
 願いが届くように、理の言葉で形を与えるだけのもの。」

「それって……魔法、みたいだね。」

 アーレンは笑い、灰を払いながら答えた。
「きっと、昔の人はそう呼んだのかもしれないな。」



 少し離れた場所で、リュミナが夜空を見上げていた。
 金の瞳に、灰の星が映っている。
 その表情は、どこか懐かしさと寂しさを混ぜていた。

『ねえ、アーレン。
 わたし、ひとつだけ、ききたいことがあるの。』

「なんだ?」

『“生まれる”って、どういうこと?
 わたしは、灰がつくった。
 でも、いまは、こうして“考えてる”。
 それも、生きてるってこと?』

 アーレンは少し考えてから答えた。

「……俺も、まだ分からない。
 でも、考え続けること自体が、生きてる証だと思う。
 理も、人も、答えを探すために在るんだ。」

『じゃあ、わたしも、探していい?』

「もちろんだ。お前は――もう、理じゃない。
 “リュミナ”だからな。」



 火がぱちりと弾ける。
 ノアが毛布にくるまりながら、うとうとと目を閉じた。
 アーレンは静かにその頭に手を置く。

「……ノアもよく頑張ったな。」

「ん……つぎは、きれいな町に、いこうね……」

 かすれた声が夜に溶ける。

『あたたかい声だね。』

「そうだな。あの声が、ずっと俺を戻してくれた。」

 リュミナが焚き火の向こうで微笑んだ。

『それなら、わたしも、ノアにありがとうって言わなきゃ。』

「明日言えばいい。きっと、喜ぶ。」



 夜が深くなる。
 灰の風が、音もなく吹き抜ける。
 かつての廃都の跡には、新しい光がひとつ、またひとつ灯り始めていた。
 灰の民が再び火を灯し、祈りの声を紡いでいるのだ。

 アーレンは立ち上がり、遠くの光を見つめた。
 灰の上を歩く小さな灯。
 それが、確かに世界の“再生”を物語っていた。

『アーレン。』

「ん?」

『これから、どこに行くの?』

 アーレンは少しだけ笑い、夜空を見上げた。
 灰の星の中に、かすかに赤い光が瞬いている。
 それは――帝国の観測衛星。

「……行くさ。
 灰の向こう。まだ“理を知らない世界”へ。」



 焚き火が小さくはぜた。
 ノアが寝息を立て、リュミナが灰の風に髪をなびかせる。
 アーレンはもう一度、符盤を開き、最後の一文を書き残した。

『灰は再び、命を記した。
 その暦を、人は“灰暦”と呼ぶ。』



 ――灰暦元年。
 理と命が初めて手を取り合った夜。

 空を渡る風が、どこかで微かに嗤う。
 それはまだ、誰も知らぬ“次の理”の息吹。



そして、遠く離れた帝都では、
 ラザンの部下が報告書の端にこう書き添えていた。
 「対象:リュミナ・コードネーム“灰の灯”。 追跡開始」



――灰は、再び揺らぎはじめる。


ーー第3巻  【完】


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