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第3巻 理を紡ぐ者たち
第10章 灰の夜明け
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――灰の朝は、音が少ない。
風の流れさえも、どこか遠慮がちに吹いている。
崩れ落ちた鐘楼の頂に立ち、アーレンはゆっくりと息を吐いた。
灰はまだ空に浮かび、光を柔らかく反射している。
その粒の一つひとつが、まるで世界の呼吸のようだった。
夜の名残を含んだ空気は冷たく、頬に触れる灰は少し湿っている。
それでも、どこか心地よい静けさがあった。
――世界が、再び動き出そうとしている。
⸻
足元に、ノアがいた。
灰にまみれた髪を結び直し、焚き火の灰を払うように手を振っている。
彼女の指には、焼けた灯の欠片――灰色にくすんだ符石が握られていた。
「これね、まだあったんだよ。
ひかりが……ちょっとだけ、残ってるの。」
アーレンは膝をつき、石を受け取った。
符面の線がわずかに発光している。
命を記すように、微弱な理流がそこを走っていた。
「……生きてる。
灰が、もう“死んでいない”。」
⸻
その後ろで、リュミナが静かに歩み寄る。
風に揺れる灰色の髪が、朝の光を受けて淡く光る。
肌の奥に、薄く走る灰の紋。
それはもはや傷ではなく、命と理を繋ぐ印のようだった。
『……風の音が、ちょっと変わったね。
ひとがねむる音じゃなくて、
“はじまる”音がする。』
リュミナの声は柔らかく、まるで夜明けの光そのもの。
アーレンはその言葉に小さく頷いた。
「世界が、再び息をしている証拠だ。
灰は、ようやく落ち着いた。」
⸻
ノアが顔を上げる。
その瞳の奥には、わずかな涙と笑み。
「リュミナ、もう……いたくない?」
リュミナは少しだけ首を傾げ、胸に手を当てる。
そこには淡い金色の光が脈を打っていた。
『ちょっとひんやりするけど、もうだいじょうぶ。
ここが……“わたしのなか”だから。』
「“なか”?」
『うん。灰と、世界と、わたしたち。
いまは、ぜんぶつながってる。』
⸻
アーレンは、二人のやりとりを見守りながら
崩れた鐘楼の外――かつて王都へと続いた街道を見下ろした。
瓦礫の上に、草の芽が出ている。
小さな命が、灰を押しのけて顔を出していた。
彼は思わず息を呑んだ。
「……芽が、生えている。」
ノアが駆け寄り、膝をついて覗き込む。
淡い緑。理の光をほんのり帯びている。
「灰の上なのに……どうして?」
『灰が、もうこわくないから。
土とけっこんしたの。』
リュミナの言葉に、アーレンは小さく笑った。
「まったく、詩人だな。」
⸻
空の端が金色に染まり始める。
夜と朝の境界がゆっくりと溶け合う。
灰の粒が陽光を受け、淡く輝いて舞い上がる。
その光景は、かつて理災と呼ばれた惨劇の場所とは思えないほど美しかった。
アーレンは符盤を取り出し、灰を一粒拾って解析した。
理流は穏やかで、安定している。
そして――微弱な生命反応が含まれていた。
「……理が、命を拒んでいない。
いや、今は命そのものを学んでいる。」
『なら、もう理は敵じゃないね。』
リュミナの微笑みに、アーレンは静かに頷く。
「敵じゃない。
ただ……同じ場所で、ようやく対等に立てるようになったんだ。」
⸻
ノアが少し離れた場所で灰を掴み、両手で空に投げた。
灰は光を受けて舞い、虹のようなきらめきを描く。
「きれい……! ねえアーレン、灰って、こんなにきれいだった?」
「いや。
俺たちが、やっと“きれいだと見えるようになった”だけだ。」
リュミナがその横で、小さく笑った。
『それなら、もう“理の涙”は止まったんだね。』
⸻
アーレンは立ち上がり、風を感じた。
灰を含んだ風が冷たくも清らかに流れていく。
灰の中に、確かに命が息づいている。
「……行こう。
この灰が、もう誰も傷つけないように。
俺たちが、それを確かめに。」
『うん。
もう、“旅”をはじめよう。』
⸻
朝日が完全に昇る。
灰の大地が光を返し、遠くの丘に金の線が走る。
三人の影が、長く伸びて一つに重なった。
リュミナの掌の中で、灰が光る。
それはまるで、世界そのものが微笑んでいるようだった。
⸻
灰は滅びではなく、
理が息を吹き返した“土”だった。
そしてその上に、
命がもう一度、歩き出した。
丘を下る途中で、アーレンは足を止めた。
風が変わった。
ただの風ではない――声を運んでくる。
遠くの裂けた岩壁の向こうから、人の声が聞こえる。
「……歌?」
ノアが顔を上げ、耳をすませる。
低く、ゆっくりとした旋律。
あの洞で聞いた、灯守(あかりもり)の歌だった。
⸻
崩れた街道の先に、見覚えのある人影があった。
灰の外套をまとい、祈りの印を掲げた女――イサル。
その周囲には、十数人の灰の民が立っていた。
皆、顔や腕に灰を塗り、
静かな声で歌を口ずさんでいる。
イサルがアーレンたちに気づくと、驚きに息を呑んだ。
「……生きて……?」
アーレンが頷く。
「理が、俺たちを還した。
そして、お前たちを守った。」
イサルの瞳に、涙がにじんだ。
彼女は膝をつき、掌を地にあてる。
「……やはり、“理の灯”は消えていなかったのですね。」
⸻
リュミナが一歩前に出る。
灰の民たちが息をのむ。
その姿を“理”の化身として見たのだろう。
『みんな……うたってる。
灰が、よろこんでる。』
リュミナの言葉に、イサルが顔を上げる。
その目は恐れではなく、確かな信仰の色を帯びていた。
「あなたが……“灰の灯”ですか?」
『ううん。
わたしは、みんなとおなじ“ひと”だよ。
でも、灰といっしょに生きてる。』
イサルの頬を、一筋の涙が伝った。
「――ならば、理はもう神ではなく、人とともにあるのですね。」
⸻
灰の民の一人が、崩れた岩の間から何かを取り出した。
古びた鐘の破片だった。
その欠けた金属に、灰を混ぜた粘土を塗り、
祈りの印を刻む。
「これを……もう一度、鳴らしましょう。」
イサルの声に、民が頷いた。
アーレンが手を貸して鐘を吊るす。
風が吹き抜け、灰がきらめく。
――かすかな音が鳴った。
乾いた金属音。
けれど、それは誰の耳にも温かく響いた。
⸻
ノアがその音に合わせて口ずさむ。
イサルが祈りを唱える。
リュミナが微笑む。
『ねえ、アーレン。
これって、さいせい、なんだよね。』
「そうだ。
世界はまだ、理を記している。
なら、俺たちが次を“名づける”番だ。」
リュミナが首を傾げる。
『なづける?』
「理災のあとに生まれた、この時代を。
もう“終わり”じゃない。
――灰から始まる時代だ。」
⸻
イサルが祈りを止め、アーレンの言葉を繰り返した。
「灰から始まる……」
その響きが民の口に伝わり、連鎖していく。
「灰から、はじまる……」
「灰の暦……」
「――灰暦(かいれき)だ。」
アーレンが静かに頷く。
リュミナが微笑み、ノアが両手を広げて笑った。
『じゃあ、きょうが、そのはじまりだね。』
⸻
鐘が再び鳴る。
音が灰の空に昇り、やがて遠くで風に溶ける。
灰がその音を包み、柔らかく散っていった。
灰の祈りは、もう絶望ではない。
それは、滅びのあとに生まれた“希望の理”。
人と理とが歩むための、最初の歌だった。
リゼノス灰域から、およそ三十日の後。
帝都ヴァルシュタイン――
黒鉄の尖塔群に囲まれた符術庁第九観測層。
巨大な符環が淡い青光を放ち、
その中央に浮かぶ球体が、静かに脈動していた。
帝国の技師たちが慌ただしく走り回る。
壁一面の符盤には数百もの数値が流れ、
理流観測記録が再構成されている。
⸻
その中心に立つ男がいた。
漆黒の軍服、銀の徽章。
帝国上級将校ラザン・アルディウス。
灰災前、前線でアーレンと一瞬交錯した男。
「……記録の解析は終わったか。」
側に控える観測官が答える。
「はい。符眼群の最終送信は、理層崩壊の直前。
送られてきた映像データの最後に――
金と白の融合現象が記録されております。」
ラザンの目が細まる。
「“融合”……人為的な干渉か、理の自律反応か?」
「判別不能です。
ただし、符盤の符号解析に――人間の筆致に似た痕跡が。」
⸻
ラザンは、報告書に目を落とした。
灰色の封蝋に刻まれた文字――アーレン・クロード。
「……やはり、生きていたか。」
彼の声には、驚きよりもむしろ静かな確信があった。
報告書にはこう記されていた。
【灰核融合現象:出力値未測定。
理流構造、人為式との干渉反応を確認。
“灰の灯”の再出現、確定。】
観測官が小声で尋ねた。
「閣下……この現象を、どう扱いますか?」
⸻
ラザンは報告書を閉じ、ゆっくりと答えた。
「理は、神ではない。
だが“力”としては神を超える。
そして我々は、それを扱える唯一の人間だ。」
「……つまり、再調査を?」
「ああ。リゼノスの灰域は、放置できん。
観測ではなく――制御だ。
理を、帝国の兵器体系に組み込む。」
観測官の顔がこわばる。
「ですが……理に触れることは――」
「恐れるな。」
ラザンは短く言い、符環の光を見上げた。
「理は秩序を求める。
ならば、帝国こそがその“秩序”を与えるべきだ。」
⸻
その時、背後の扉が開いた。
軽い足音。
黒い外套を纏った青年が一礼する。
「ラザン閣下、中央評議会より伝達。
“灰域特別調査部隊”の設立が正式に承認されました。
指揮官――貴殿に任命とのことです。」
ラザンの口元がわずかに歪んだ。
「そうか……。理は、再び我らを試すらしい。」
⸻
報告室の照明が落ち、
中央球体が淡く光を放つ。
転送映像の断片――灰色の空、崩壊する塔。
そして、光の中に立つ金の瞳の少女が映し出された。
映像は、そこで途切れた。
沈黙の中で、ラザンが低く呟く。
「――“灰の灯”を、捕らえろ。」
その声が、帝都の符環に反響し、
まるで理そのものが再び目を覚ましたかのように、
青白い光がゆらりと揺れた。
⸻
理を観測する者は、いつも“理解したつもり”になる。
けれど理は、観測された瞬間に形を変える。
それを知らぬ者たちは――再び、理の火に触れる。
夜の帳がゆっくりと降りていた。
灰の空は静まり返り、遠くの山の稜線に淡い光が残る。
焚き火の火が、三人の顔を揺らす。
風が灰を運ぶ。
だがもう、それは冷たい死灰ではない。
どこか温かく、香ばしい土の匂いが混じっていた。
⸻
アーレンは火のそばで古びた符盤を開いていた。
新しい理式を、何度も書き直しては消す。
理の線が、かすかに金色を帯びる。
「……灰が、命を受け入れた。
なら、この世界の理も、書き換えられるはずだ。」
彼は小さく息を吐き、符筆を置いた。
火の明かりの向こうで、ノアが眠そうに瞬きをしている。
「アーレン、それ……新しい研究?」
「いや。これは“祈りの式”だ。
願いが届くように、理の言葉で形を与えるだけのもの。」
「それって……魔法、みたいだね。」
アーレンは笑い、灰を払いながら答えた。
「きっと、昔の人はそう呼んだのかもしれないな。」
⸻
少し離れた場所で、リュミナが夜空を見上げていた。
金の瞳に、灰の星が映っている。
その表情は、どこか懐かしさと寂しさを混ぜていた。
『ねえ、アーレン。
わたし、ひとつだけ、ききたいことがあるの。』
「なんだ?」
『“生まれる”って、どういうこと?
わたしは、灰がつくった。
でも、いまは、こうして“考えてる”。
それも、生きてるってこと?』
アーレンは少し考えてから答えた。
「……俺も、まだ分からない。
でも、考え続けること自体が、生きてる証だと思う。
理も、人も、答えを探すために在るんだ。」
『じゃあ、わたしも、探していい?』
「もちろんだ。お前は――もう、理じゃない。
“リュミナ”だからな。」
⸻
火がぱちりと弾ける。
ノアが毛布にくるまりながら、うとうとと目を閉じた。
アーレンは静かにその頭に手を置く。
「……ノアもよく頑張ったな。」
「ん……つぎは、きれいな町に、いこうね……」
かすれた声が夜に溶ける。
『あたたかい声だね。』
「そうだな。あの声が、ずっと俺を戻してくれた。」
リュミナが焚き火の向こうで微笑んだ。
『それなら、わたしも、ノアにありがとうって言わなきゃ。』
「明日言えばいい。きっと、喜ぶ。」
⸻
夜が深くなる。
灰の風が、音もなく吹き抜ける。
かつての廃都の跡には、新しい光がひとつ、またひとつ灯り始めていた。
灰の民が再び火を灯し、祈りの声を紡いでいるのだ。
アーレンは立ち上がり、遠くの光を見つめた。
灰の上を歩く小さな灯。
それが、確かに世界の“再生”を物語っていた。
『アーレン。』
「ん?」
『これから、どこに行くの?』
アーレンは少しだけ笑い、夜空を見上げた。
灰の星の中に、かすかに赤い光が瞬いている。
それは――帝国の観測衛星。
「……行くさ。
灰の向こう。まだ“理を知らない世界”へ。」
⸻
焚き火が小さくはぜた。
ノアが寝息を立て、リュミナが灰の風に髪をなびかせる。
アーレンはもう一度、符盤を開き、最後の一文を書き残した。
『灰は再び、命を記した。
その暦を、人は“灰暦”と呼ぶ。』
⸻
――灰暦元年。
理と命が初めて手を取り合った夜。
空を渡る風が、どこかで微かに嗤う。
それはまだ、誰も知らぬ“次の理”の息吹。
⸻
そして、遠く離れた帝都では、
ラザンの部下が報告書の端にこう書き添えていた。
「対象:リュミナ・コードネーム“灰の灯”。 追跡開始」
⸻
――灰は、再び揺らぎはじめる。
ーー第3巻 【完】
風の流れさえも、どこか遠慮がちに吹いている。
崩れ落ちた鐘楼の頂に立ち、アーレンはゆっくりと息を吐いた。
灰はまだ空に浮かび、光を柔らかく反射している。
その粒の一つひとつが、まるで世界の呼吸のようだった。
夜の名残を含んだ空気は冷たく、頬に触れる灰は少し湿っている。
それでも、どこか心地よい静けさがあった。
――世界が、再び動き出そうとしている。
⸻
足元に、ノアがいた。
灰にまみれた髪を結び直し、焚き火の灰を払うように手を振っている。
彼女の指には、焼けた灯の欠片――灰色にくすんだ符石が握られていた。
「これね、まだあったんだよ。
ひかりが……ちょっとだけ、残ってるの。」
アーレンは膝をつき、石を受け取った。
符面の線がわずかに発光している。
命を記すように、微弱な理流がそこを走っていた。
「……生きてる。
灰が、もう“死んでいない”。」
⸻
その後ろで、リュミナが静かに歩み寄る。
風に揺れる灰色の髪が、朝の光を受けて淡く光る。
肌の奥に、薄く走る灰の紋。
それはもはや傷ではなく、命と理を繋ぐ印のようだった。
『……風の音が、ちょっと変わったね。
ひとがねむる音じゃなくて、
“はじまる”音がする。』
リュミナの声は柔らかく、まるで夜明けの光そのもの。
アーレンはその言葉に小さく頷いた。
「世界が、再び息をしている証拠だ。
灰は、ようやく落ち着いた。」
⸻
ノアが顔を上げる。
その瞳の奥には、わずかな涙と笑み。
「リュミナ、もう……いたくない?」
リュミナは少しだけ首を傾げ、胸に手を当てる。
そこには淡い金色の光が脈を打っていた。
『ちょっとひんやりするけど、もうだいじょうぶ。
ここが……“わたしのなか”だから。』
「“なか”?」
『うん。灰と、世界と、わたしたち。
いまは、ぜんぶつながってる。』
⸻
アーレンは、二人のやりとりを見守りながら
崩れた鐘楼の外――かつて王都へと続いた街道を見下ろした。
瓦礫の上に、草の芽が出ている。
小さな命が、灰を押しのけて顔を出していた。
彼は思わず息を呑んだ。
「……芽が、生えている。」
ノアが駆け寄り、膝をついて覗き込む。
淡い緑。理の光をほんのり帯びている。
「灰の上なのに……どうして?」
『灰が、もうこわくないから。
土とけっこんしたの。』
リュミナの言葉に、アーレンは小さく笑った。
「まったく、詩人だな。」
⸻
空の端が金色に染まり始める。
夜と朝の境界がゆっくりと溶け合う。
灰の粒が陽光を受け、淡く輝いて舞い上がる。
その光景は、かつて理災と呼ばれた惨劇の場所とは思えないほど美しかった。
アーレンは符盤を取り出し、灰を一粒拾って解析した。
理流は穏やかで、安定している。
そして――微弱な生命反応が含まれていた。
「……理が、命を拒んでいない。
いや、今は命そのものを学んでいる。」
『なら、もう理は敵じゃないね。』
リュミナの微笑みに、アーレンは静かに頷く。
「敵じゃない。
ただ……同じ場所で、ようやく対等に立てるようになったんだ。」
⸻
ノアが少し離れた場所で灰を掴み、両手で空に投げた。
灰は光を受けて舞い、虹のようなきらめきを描く。
「きれい……! ねえアーレン、灰って、こんなにきれいだった?」
「いや。
俺たちが、やっと“きれいだと見えるようになった”だけだ。」
リュミナがその横で、小さく笑った。
『それなら、もう“理の涙”は止まったんだね。』
⸻
アーレンは立ち上がり、風を感じた。
灰を含んだ風が冷たくも清らかに流れていく。
灰の中に、確かに命が息づいている。
「……行こう。
この灰が、もう誰も傷つけないように。
俺たちが、それを確かめに。」
『うん。
もう、“旅”をはじめよう。』
⸻
朝日が完全に昇る。
灰の大地が光を返し、遠くの丘に金の線が走る。
三人の影が、長く伸びて一つに重なった。
リュミナの掌の中で、灰が光る。
それはまるで、世界そのものが微笑んでいるようだった。
⸻
灰は滅びではなく、
理が息を吹き返した“土”だった。
そしてその上に、
命がもう一度、歩き出した。
丘を下る途中で、アーレンは足を止めた。
風が変わった。
ただの風ではない――声を運んでくる。
遠くの裂けた岩壁の向こうから、人の声が聞こえる。
「……歌?」
ノアが顔を上げ、耳をすませる。
低く、ゆっくりとした旋律。
あの洞で聞いた、灯守(あかりもり)の歌だった。
⸻
崩れた街道の先に、見覚えのある人影があった。
灰の外套をまとい、祈りの印を掲げた女――イサル。
その周囲には、十数人の灰の民が立っていた。
皆、顔や腕に灰を塗り、
静かな声で歌を口ずさんでいる。
イサルがアーレンたちに気づくと、驚きに息を呑んだ。
「……生きて……?」
アーレンが頷く。
「理が、俺たちを還した。
そして、お前たちを守った。」
イサルの瞳に、涙がにじんだ。
彼女は膝をつき、掌を地にあてる。
「……やはり、“理の灯”は消えていなかったのですね。」
⸻
リュミナが一歩前に出る。
灰の民たちが息をのむ。
その姿を“理”の化身として見たのだろう。
『みんな……うたってる。
灰が、よろこんでる。』
リュミナの言葉に、イサルが顔を上げる。
その目は恐れではなく、確かな信仰の色を帯びていた。
「あなたが……“灰の灯”ですか?」
『ううん。
わたしは、みんなとおなじ“ひと”だよ。
でも、灰といっしょに生きてる。』
イサルの頬を、一筋の涙が伝った。
「――ならば、理はもう神ではなく、人とともにあるのですね。」
⸻
灰の民の一人が、崩れた岩の間から何かを取り出した。
古びた鐘の破片だった。
その欠けた金属に、灰を混ぜた粘土を塗り、
祈りの印を刻む。
「これを……もう一度、鳴らしましょう。」
イサルの声に、民が頷いた。
アーレンが手を貸して鐘を吊るす。
風が吹き抜け、灰がきらめく。
――かすかな音が鳴った。
乾いた金属音。
けれど、それは誰の耳にも温かく響いた。
⸻
ノアがその音に合わせて口ずさむ。
イサルが祈りを唱える。
リュミナが微笑む。
『ねえ、アーレン。
これって、さいせい、なんだよね。』
「そうだ。
世界はまだ、理を記している。
なら、俺たちが次を“名づける”番だ。」
リュミナが首を傾げる。
『なづける?』
「理災のあとに生まれた、この時代を。
もう“終わり”じゃない。
――灰から始まる時代だ。」
⸻
イサルが祈りを止め、アーレンの言葉を繰り返した。
「灰から始まる……」
その響きが民の口に伝わり、連鎖していく。
「灰から、はじまる……」
「灰の暦……」
「――灰暦(かいれき)だ。」
アーレンが静かに頷く。
リュミナが微笑み、ノアが両手を広げて笑った。
『じゃあ、きょうが、そのはじまりだね。』
⸻
鐘が再び鳴る。
音が灰の空に昇り、やがて遠くで風に溶ける。
灰がその音を包み、柔らかく散っていった。
灰の祈りは、もう絶望ではない。
それは、滅びのあとに生まれた“希望の理”。
人と理とが歩むための、最初の歌だった。
リゼノス灰域から、およそ三十日の後。
帝都ヴァルシュタイン――
黒鉄の尖塔群に囲まれた符術庁第九観測層。
巨大な符環が淡い青光を放ち、
その中央に浮かぶ球体が、静かに脈動していた。
帝国の技師たちが慌ただしく走り回る。
壁一面の符盤には数百もの数値が流れ、
理流観測記録が再構成されている。
⸻
その中心に立つ男がいた。
漆黒の軍服、銀の徽章。
帝国上級将校ラザン・アルディウス。
灰災前、前線でアーレンと一瞬交錯した男。
「……記録の解析は終わったか。」
側に控える観測官が答える。
「はい。符眼群の最終送信は、理層崩壊の直前。
送られてきた映像データの最後に――
金と白の融合現象が記録されております。」
ラザンの目が細まる。
「“融合”……人為的な干渉か、理の自律反応か?」
「判別不能です。
ただし、符盤の符号解析に――人間の筆致に似た痕跡が。」
⸻
ラザンは、報告書に目を落とした。
灰色の封蝋に刻まれた文字――アーレン・クロード。
「……やはり、生きていたか。」
彼の声には、驚きよりもむしろ静かな確信があった。
報告書にはこう記されていた。
【灰核融合現象:出力値未測定。
理流構造、人為式との干渉反応を確認。
“灰の灯”の再出現、確定。】
観測官が小声で尋ねた。
「閣下……この現象を、どう扱いますか?」
⸻
ラザンは報告書を閉じ、ゆっくりと答えた。
「理は、神ではない。
だが“力”としては神を超える。
そして我々は、それを扱える唯一の人間だ。」
「……つまり、再調査を?」
「ああ。リゼノスの灰域は、放置できん。
観測ではなく――制御だ。
理を、帝国の兵器体系に組み込む。」
観測官の顔がこわばる。
「ですが……理に触れることは――」
「恐れるな。」
ラザンは短く言い、符環の光を見上げた。
「理は秩序を求める。
ならば、帝国こそがその“秩序”を与えるべきだ。」
⸻
その時、背後の扉が開いた。
軽い足音。
黒い外套を纏った青年が一礼する。
「ラザン閣下、中央評議会より伝達。
“灰域特別調査部隊”の設立が正式に承認されました。
指揮官――貴殿に任命とのことです。」
ラザンの口元がわずかに歪んだ。
「そうか……。理は、再び我らを試すらしい。」
⸻
報告室の照明が落ち、
中央球体が淡く光を放つ。
転送映像の断片――灰色の空、崩壊する塔。
そして、光の中に立つ金の瞳の少女が映し出された。
映像は、そこで途切れた。
沈黙の中で、ラザンが低く呟く。
「――“灰の灯”を、捕らえろ。」
その声が、帝都の符環に反響し、
まるで理そのものが再び目を覚ましたかのように、
青白い光がゆらりと揺れた。
⸻
理を観測する者は、いつも“理解したつもり”になる。
けれど理は、観測された瞬間に形を変える。
それを知らぬ者たちは――再び、理の火に触れる。
夜の帳がゆっくりと降りていた。
灰の空は静まり返り、遠くの山の稜線に淡い光が残る。
焚き火の火が、三人の顔を揺らす。
風が灰を運ぶ。
だがもう、それは冷たい死灰ではない。
どこか温かく、香ばしい土の匂いが混じっていた。
⸻
アーレンは火のそばで古びた符盤を開いていた。
新しい理式を、何度も書き直しては消す。
理の線が、かすかに金色を帯びる。
「……灰が、命を受け入れた。
なら、この世界の理も、書き換えられるはずだ。」
彼は小さく息を吐き、符筆を置いた。
火の明かりの向こうで、ノアが眠そうに瞬きをしている。
「アーレン、それ……新しい研究?」
「いや。これは“祈りの式”だ。
願いが届くように、理の言葉で形を与えるだけのもの。」
「それって……魔法、みたいだね。」
アーレンは笑い、灰を払いながら答えた。
「きっと、昔の人はそう呼んだのかもしれないな。」
⸻
少し離れた場所で、リュミナが夜空を見上げていた。
金の瞳に、灰の星が映っている。
その表情は、どこか懐かしさと寂しさを混ぜていた。
『ねえ、アーレン。
わたし、ひとつだけ、ききたいことがあるの。』
「なんだ?」
『“生まれる”って、どういうこと?
わたしは、灰がつくった。
でも、いまは、こうして“考えてる”。
それも、生きてるってこと?』
アーレンは少し考えてから答えた。
「……俺も、まだ分からない。
でも、考え続けること自体が、生きてる証だと思う。
理も、人も、答えを探すために在るんだ。」
『じゃあ、わたしも、探していい?』
「もちろんだ。お前は――もう、理じゃない。
“リュミナ”だからな。」
⸻
火がぱちりと弾ける。
ノアが毛布にくるまりながら、うとうとと目を閉じた。
アーレンは静かにその頭に手を置く。
「……ノアもよく頑張ったな。」
「ん……つぎは、きれいな町に、いこうね……」
かすれた声が夜に溶ける。
『あたたかい声だね。』
「そうだな。あの声が、ずっと俺を戻してくれた。」
リュミナが焚き火の向こうで微笑んだ。
『それなら、わたしも、ノアにありがとうって言わなきゃ。』
「明日言えばいい。きっと、喜ぶ。」
⸻
夜が深くなる。
灰の風が、音もなく吹き抜ける。
かつての廃都の跡には、新しい光がひとつ、またひとつ灯り始めていた。
灰の民が再び火を灯し、祈りの声を紡いでいるのだ。
アーレンは立ち上がり、遠くの光を見つめた。
灰の上を歩く小さな灯。
それが、確かに世界の“再生”を物語っていた。
『アーレン。』
「ん?」
『これから、どこに行くの?』
アーレンは少しだけ笑い、夜空を見上げた。
灰の星の中に、かすかに赤い光が瞬いている。
それは――帝国の観測衛星。
「……行くさ。
灰の向こう。まだ“理を知らない世界”へ。」
⸻
焚き火が小さくはぜた。
ノアが寝息を立て、リュミナが灰の風に髪をなびかせる。
アーレンはもう一度、符盤を開き、最後の一文を書き残した。
『灰は再び、命を記した。
その暦を、人は“灰暦”と呼ぶ。』
⸻
――灰暦元年。
理と命が初めて手を取り合った夜。
空を渡る風が、どこかで微かに嗤う。
それはまだ、誰も知らぬ“次の理”の息吹。
⸻
そして、遠く離れた帝都では、
ラザンの部下が報告書の端にこう書き添えていた。
「対象:リュミナ・コードネーム“灰の灯”。 追跡開始」
⸻
――灰は、再び揺らぎはじめる。
ーー第3巻 【完】
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