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ACT.6
しおりを挟む夜の潮見高校、旧校舎の礼拝室。
そこは、ゼンタイ部しか知らない秘密の空間。
照明は落とされ、壁際にキャンドルの光が揺れていた。
その中心に、ひとりの女が立つ——堂ノ内優子。
身体は、光沢を持たない深い墨黒のマタニティゼンタイで包まれていた。
その腹部は大きく、まるで内側から命が光を放っているように、布をやさしく張っている。
今日が、出産前の最後の夜。
ゼンタイ部員たちは、既に列を成して静かに座していた。
全員が顔を覆ったゼンタイ姿。名前も声も要らない。
この場にあるのは、ただ——“被膜と祈り”。
優子はゆっくりと、腹部を両手で撫でながら語り出す。
声は布越し、まるで羊水の中から響くようなやさしさ。
「この子は……まだ名を持ちません。
でも、ずっと包まれてきました。皆さんの祈りの中で……布の中で……私の中で」
「今夜、私はこの子を送り出すために、最後のゼンタイを纏いました」
遥香が立ち上がる。
姉と同じく、艶消しのダークグレーゼンタイ姿。
その顔の布越しに、かすかに目元が滲む。
「……姉さん、もう一枚、包むものがあるの。受け取って」
そう言って差し出したのは——胎児ゼンタイ用の“祝福布”。
霧色の、繊維の目がほとんど見えないほど繊細な小布。
この布は、ゼンタイ部の祝祷に用いられ、赤子の肌に最初に触れるものとして代々受け継がれてきた。
優子は深く、長く息を吸った。
その鼓動を、腹の中の命に届けるように。
「……ありがとう。遥香……みんな……。
この子が、世界と向き合うために、私はこの被膜を脱ぎます。
でもこの子には、最初に“包まれる記憶”を与えたい……。
——それが、ゼンタイ部の娘として生まれるということだから」
全員が立ち上がり、円を描くように優子の周囲を囲む。
ゆっくりと歩きながら、静かな“ゼンタイウォーク”。
音を立てない、重力さえ和らいだような儀式的歩行。
その中心で、優子が腹に手を添えて目を閉じる。
「……祈って」
遥香が囁いた。
ゼンタイスリスリ——ただし、今日は、“腹部だけ”に行う。
ひとりひとりが、布越しの命へ、そっと指先を添えて滑らせる。
祝福ではない。命への“歓迎”でもない。
それは、布と布の対話。皮膚よりも深く、言葉よりも温かいもの。
“スリ……スリ……スリ……”
祈りの音。
擦れる静寂。
生命を包んだ最後の夜。
帰り際、いつきはそっと優子の元へ歩み寄った。
両手で、自分の日記に挟んでいた胎児ゼンタイの布片を差し出す。
「……これ、私がずっと包まれてた布の一部。
この子の肌にも、触れてほしいと思って……」
優子は目を伏せ、深く頷いた。
そして、ふたりはゼンタイ越しに手を握った。
その布と布の接触に、もう“言葉”は必要なかった。
深夜、病院の個室。
薄明かりの中、優子はひとり、最後のゼンタイを脱いでいた。
ファスナーを外すたび、空気が布の内側に入り込んでくる。
名を持たない皮膚が、世界と向き合う準備を始めている。
だけど、最後に——
腹部にそっと、布片を貼りつけた。
グレージュのゼンタイ布。いつきの祈りの布。
「あなたの最初の衣よ。
この布を通して、あなたは私の中で包まれていた時間を思い出せる……」
その言葉に、小さな胎動が、ふいに返ってきた。
夜明け前。空が白み始めるその前の、世界がもっとも静かになる時間。
分娩室にはまだ誰もいなかった。
堂ノ内優子は、布片を腹に貼ったまま、仰向けに寝ていた。
それはいつきが渡した、胎児ゼンタイの祝福布。
深いグレージュ。柔らかく、ぬるく、静かな布。
妊娠のあいだ、この子を守るように貼られていたマタニティゼンタイの、最後の名残。
——出産は、脱ぐこと。
だが、脱ぎ捨てではない。被膜の内側に宿ったものを、そっと外に渡していくという行為。
だからこそ、今もなお彼女は布を一枚、肌に留めていた。
初めての陣痛は、波のようにやってきた。
痛みの合間、優子は目を閉じ、
かつてゼンタイ部で纏った全身タイツの感触を反芻する。
被膜の内側にいたとき、自分が「母になる」という恐れに満たされていたこと。
名を奪われるようで、自由を奪われるようで。
それでも、顔まで包まれたゼンタイのなかで、自分のままでいられたあの安堵。
そして——そのとき感じた、胎動。
この子は最初から、布越しに触れていた。
ゼンタイのなかで、娘はもう“包まれる”ことを知っていた。
医師の声が遠くで聞こえる。
助産師が声をかける。呼吸を促す。
しかし優子は、それらをすべて“布越しの世界”として受け取っていた。
いま、もっとも肌に近いのは——祝福布。
陣痛の波が激しくなる。
骨盤が開いていく感覚。
そこから生まれるのは、血でも、痛みでもなく、“包まれていた記憶”そのもの。
そして——
産声が上がった。
高く、透明で、ひとつぶの音。
新生児は助産師の腕の中、薄い布で包まれながら、最初の呼吸をした。
小さな手が動く。布に触れる。それは、胎内にいたときと同じ柔らかさだった。
医師が問う。「お名前は?」
優子は微笑んで、息を整える。
「……紗衣(さえ)……
“紗のような布の衣を、いつも纏っていられるように”……
この子が、生きる中でずっと、“包まれる感覚”を忘れませんように……」
その夜。
紗衣は保育器のなかで、すやすやと眠っていた。
額には、あのゼンタイ布片の一部を切り取った、小さなリボン。
生まれて最初に触れた世界は、冷たい空気ではなく——柔らかな布の内側だった。
そして、優子の夢の中に現れたのは、ゼンタイ姿の少女たち。
部員たちが無言で歩き、撫で、祈っていたあの夜の再演。
彼女は夢の中で、赤子を胸に抱きながら、再びゼンタイを纏っていた。
命は、包まれて生まれた。
そしてまた、包む者になるのだ。
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